『堀部武庸筆記』の構成

田中光郎

(1)はじめに

 『堀部武庸筆記』は赤穂事件に関する史料の中でも最も重要なもののひとつである。
 第一に、「義士」の一人の手になる(と考えられる)こと。第二に、単なる覚書でなく書簡の手控えであるという性格を持っていること。第三に、その書簡の内容が他の史料から知られない事件の機密にわたっていること。さらに早い時期から一定程度流布したらしく、事件についての著作物に大きな影響を与えていることなど、この史料の重要性を数えあげればきりがない。
 当然赤穂事件を研究するために逸すべからざるものであるので、その史料的な性格を考えておくことは必要だろう。テキスト問題はあまり得意な分野でないが、幸いにして佐藤誠氏による関連史料の捜索の成果などもあがっているので、そうした成果をふまえながら、成立事情を推測してみようと思う。

 現在活字で見ることのできる『堀部武庸筆記』は、いずれも細井広沢家に伝えられたものが元になっている。広沢の子・知文の宝暦4年(1754)9月の跋によれば、この元本は堀部安兵衛が「報讐前年」自ら書き写して広沢に与えたものだが、その後火事で焼けてしまったので、広沢の友人・長谷川平馬なる人物が写しておいたものをもって失われた元本に換えたとある。今伝わっているテキストは、いずれもこれを転写したものということになる。

 知文の跋には若干の問題があるのだが(この問題については別稿を予定している)、おおむね信用してよいだろう。流れから言うと(A)原本→(B)安兵衛自写本(細井元本)→(C)長谷川筆写本(細井新本)ということになる。これらはいずれも伝存しない。(C)から転写された(何度転写のプロセスを経たかは判明しない)(D)水戸青山家所蔵本(所在不詳)を明治22年に写したのが東京大学史料編纂所本(『近世武家思想』の底本)。(D)を安政4年に岡谷繁実が写したものを明治8年に転写したのが内閣文庫本(赤穂市『忠臣蔵』・『赤穂義人纂書補遺』の底本である。1回だけとはいえ転写の回数が少ないので、『近世武家思想』のテキストに依ることにしよう(以下、本文中のページ指定は同書による)。

(2)第T部について

 『堀部武庸筆記』を一読して気づくのは、大きく2つに分けられることである。つまり開城までの事情を記した部分(p186下まで。以下、便宜上第T部と呼ぶことにする)と「落去以後留書覚」(以下、第U部と呼ぶ)と題された部分である。分量から言えば第T部は(約7頁)第U部(約84頁)の1割にも満たないが、形式・文体が明らかに変わっている。第T部が客観的に経緯を記しているのに対し、第U部は堀部を中心とする江戸急進派の立場から主観的に書かれているのである。

 第T部は、赤穂開城までで一段落ではあるのだが、尻切れトンボの感がないでもない。また、ここに書かれていることのほとんどを堀部らは実見していないはずである。第U部の冒頭と時間的には重複する。こうしたことを併せて考えると、第T部と第U部を連続した著作物『堀部武庸筆記』と考えるのには少々無理があるようだ。
 この点を補強してくれるのが、斎藤茂氏がはじめて紹介し、佐藤誠氏が検討をくわえている「落去留書」の存在である。これは奥田兵左衛門(孫大夫)直筆と考えられるもので、内容的には『堀部武庸筆記』第U部(ただし前半のみ)と一致する(佐藤氏の論考「落去留書」および「史料採訪記・奥田孫太夫の『落去留書』」参照)。これが伝えられていることからも、第T部と第U部は一連の著作ではなく、別の構想で書かれたものだと理解すべきであろう。当初客観的な覚書を構想しながら途中で断念したのではないかとも考えているが、そこまで言っては想像力に頼りすぎかも知れない。

(3)第U部上下について

 「落去留書」の存在は、第U部の成立についても新たな視点を与えてくれる。『堀部武庸筆記』第U部は元禄15年6月頃まである。これとほぼ同一内容の「落去留書」は、大石の出府(おおむねp211)までで終わっている。これは何を意味しているのだろうか。内容的に「落去留書」が『堀部武庸筆記』第U部の異本であることは明白である。またまた便宜上「落去留書」とほぼ一致する箇所(大石出府まで)を第U部上、それ以降を第U部下としておく。第U部の上と下で成立事情に差が存在するのではないだろうか。

 第U部(ならびに「落去覚書」)には「落去以後留書覚」という表題が付けられている。内容から言っても題名から言っても、赤穂落城以後の書状の控えというのが基本的な性格であろう。地の文もあるが、多くは出した事情や着いた日に関する簡単なメモ程度である。ただし、かなりの長文にわたっている箇所もある。
 こうした文章を書いたのが誰かといえば、堀部であろう。奥田自筆の「落去覚書」があるからといって、奥田が述作したとは言えない。しかし、誰が書いたかという以上に重要なことは、これが堀部・奥田・高田郡兵衛三人の行動の記録として構想されていたということである。「落去以後留書覚」という表題に続いて三人の連名がある(この連名に着目されたのは佐藤氏である)。本文が始まってすぐ「右三人申合」とあることから、この連名は、著者としてではなく、行動者として記載されたものだと考えている。
 急進派三羽烏の行動記録として綴られた第U部上(「落去覚書」)が大石出府で終了している理由はどこにあるだろうか。これを、高田郡兵衛の脱盟と関連づけて理解されたのは佐藤氏の卓見である。堀部・奥田・高田三人の行動記録「落去以後留書覚」の構想が、そのうちの一人が脱盟するという不測の事態によって崩れてしまったものと推定される。

 「落去以後留書覚」の構想が高田の脱盟によって挫折した後も、堀部は書状の控えを取り続けた。高田がいなくとも、養父弥兵衛を加えた江戸急進派は大石に決起を促す行動者であり続けたのであったからであろう。第U部下は、分量的にはそれ以前のものを凌ぐ。原惣右衛門からの書状(元禄15年5月20日付)を写した後、「長左衛門追付可罷登と申談置候間、此返事不仕候也」というのが、最後の文である。
 著作物として見た場合、この終わり方はいかにも唐突であるが、それだけに『筆記』の成立事情の手がかりになるように思われる。周知の通り、このあと長江長左衛門こと堀部安兵衛は上方に登り、大学の赦免もあって決行方針が固まる。言うなれば、ここまでは野党だったが、ここを境に与党に転ずる。往復書簡の整理などよりはるかに重要な、討入決行に向けての準備が始まるのである。『筆記』を続けることに情熱は向かなくなったのであろう。

(4)むすびに

 『堀部武庸筆記』の成立には、少なくとも以上のような段階があったと考えられる。著作物としては書式が統一されておらず、十分整理されていない未定稿であると見るべきであろう。堀部は学者でも作家でもない。著作を首尾一貫したものとすることに過大なエネルギーを注ぎ込まなかったとしても、非難されるべきいわれはない。そして、残されたものの史料的な価値を思えば、高く評価されてしかるべきなのである。
 原本がどういう形態であったかはわからないが、別の冊子であった可能性が否定できないと思われる。写され写されしていく過程のなかで、ひとまとまりの『堀部武庸筆記』と認識されるようになった。この表題をつけたのは、堀部自身ではなく、細井広沢か、長谷川平馬以降の筆写者だと考えるべきであろう。