浅野刃傷事件と喧嘩両成敗法

田中光郎

 拙稿「喧嘩両成敗法の元禄」においては、法制史的視点から近世前期における喧嘩両成敗法の地位を考察しようと努めた。赤穂事件そのものとは切り離しておいたのだが、読者から事件との関連にかかわる御感想を「読者のページ」上にいただいた。その際にもいちおうの見通しは示しておいたが、浅野刃傷事件と喧嘩両成敗法との関連について、現時点での私の理解を示しておく方が適当であろうと思われる。

(1)『赤穂義人録』の場合

 通説的な理解では、
@喧嘩両成敗は、幕府の大法である。
A浅野刃傷事件の裁定は、両成敗法に違反している。
B赤穂浪士の討ち入りは、正当である。
という三段論法、すなわち幕府の不法裁定が先に存在することによって、大石等の行動の違法性が阻却されるという文脈で用いられることが多い。この種の議論を最初に展開したのは、恐らく室鳩巣である。

 周知の通り、赤穂開城に先立って大石は多川九左衛門・月岡治右衛門を江戸に遣わし、収城目付に嘆願する。その口上を鳩巣『赤穂義人録』は次のように記録する。

寡君、罪を鈞庭に得て、死を賜はる。臣等敢えて奉承せざらんや。然れども両下相殺すは、国に常刑あり。いま吉良君、朝に禄位あること故の如きに、大刑独り寡君の身に加はる。これ臣等日夜泣血し、寧ろ死すとも悔いざる所以なり。…(西田太一郎氏の訓読による。『近世武家思想』p282)

 そして、その「常刑」について

両下相殺し、一人死せずんば、朝廷、曲直を論ぜずして、必ず両つながらこれを殺し、以て推刃の乱を遏む。国初以来、著して令と為す。(同)

と注釈を加えている。喧嘩両成敗法が復讐連鎖(「推刃の乱」)を断ち切るための法令であるという理解は、それが適用されることがなかったために起きた復讐事件を正当化する伏線になるであろう。

(2)赤穂事件の当事者

 ただし、口上のこの部分は鳩巣の創作である。恐らく鳩巣が依拠したであろう『堀部武庸筆記』(『介石記』『赤穂鍾秀記』がこれに依る)のテキストでは

今度内匠頭不調法仕候に付、御法式之通、被仰付候段奉畏候。然れ共上野介殿御存生之由承伝候。左候得ば当城離散仕、何方へ面を向可申様無御座候。(『近世武家思想』pp182-3)

となっている。幕府の裁定は「御法式之通」であるという認識が示されており、これが「常刑」=喧嘩両成敗に違背するという文言は見られない。このことは『江赤見聞記』所収のテキストでも同様で、吉良の生存を知った藩士は「一筋に主人一人を存、御法式之儀も不弁、相手方無恙段承之、城地離散仕候儀を歎申候」とあり、喧嘩両成敗を前提とした立論ではない。敢えて言えば、「上野介様へ御仕置奉願と申儀にては無御座候」という文言が、表面的な意味とは逆に、吉良の処分を願っているとは言えるかも知れない。しかし、これを喧嘩両成敗法の論理だというのは強引すぎるように思われる。

 あからさまに喧嘩両成敗原則を言い立てないのは、幕政批判になるのを避けるための策であるという考え方もあり得る。しかし、それだけではない。拙稿「悪口は殺害同然」で見たように、堀部弥兵衛は吉良の悪口が刃傷事件の原因になったことを指摘した上で、吉良が先に手を出したも同然であると主張している。ここでは幕政批判にあたる内容まで踏み込んでいるが、闘争の原因に遡及しているという点で、喧嘩両成敗とは若干異なる考え方を示している。この弥兵衛の論理が、『甲陽軍鑑』に見える内藤修理の喧嘩両成敗批判と通底していることも、前掲拙稿で述べた通りである。浅野家遺臣の立場は、“喧嘩両成敗の要求”とは微妙に異なる。
 彼らの主張から、吉良が生存しているのに浅野だけが切腹させられたうえ城地を明け渡せと言うのは納得できない、という感覚を読みとることは、確かにできる。これは「公平」な裁定を要求したものと言ってもよいだろう。しかしそれを喧嘩両成敗の主張だと言えるだろうか。彼らの「公平」感覚の中に、喧嘩両成敗的な意識を見て取ることは、間違いではないだろう。しかし、それは等値ではない。

(3)『多門伝八郎筆記』の場合

 同様のことは、『多門伝八郎筆記』(『近世武家思想』所収)の解釈についても指摘できる。
 『多門伝八郎筆記』が内容的に問題が多いことは既によく知られており、そのまま信用する訳にいかないが、本稿の範囲について言えば、真偽の判定に踏み込む必要はなかろう。浅野刃傷事件が、喧嘩両成敗法との関連でどう理解されたかという問題を考える場合の、一つの事例である。
 さて、この『筆記』によれば、刃傷事件後幕府の裁定を聞いた伝八郎は、若年寄に意見を申し立てた。その趣旨は、即日切腹は「余り手軽之御仕置」であり、たとえ吉良が神妙であったにせよ浅野が家名を捨てて刃傷に及ぶほどの恨みを持ったからには、吉良に「越度可有之哉も難計」いから、「再応糺」して日数を経てから処分を決定すべきだと言うのである。ここで多門の主張しているのは、再審理であって両成敗ではない。(同p167)
 若年寄は多門の言い分を尤もとして老中に進言したが、「最早松平美濃守殿被聞届、御決着有之」ことだから、と受け付けられなかった。多門は「余り片落之御仕置、外様之大名共存候処も恥敷」いから、もし美濃守一存なら再度申し上げてほしいと主張。若年寄が美濃守にこれを伝えたところ「上え言上は無之候得共、執政之者聞届之儀を再応申立候儀難心得」と激怒し、多門は「差扣之格に部屋に可扣」ということになってしまった。(同p168)
 ここに登場する松平美濃守が柳沢吉保であることは言うまでもないが、彼が松平姓を許されるのはこの年の11月のことである。権柄づくの柳沢や右往左往するばかりの若年寄に対し、多門ひとりが英雄的に描かれており、どうも信用しがたい箇所ではある。しかし、ここではその真偽を問題にしようというのではない。重要なのは、この裁定が「片落」だという認識は示されていても、喧嘩両成敗が主張されている訳ではないという点である。慎重な審理の要求は、むしろ両成敗を否定する考え方である。

(4)儒者の議論

 幕府の喧嘩両成敗を言うのは、鳩巣ばかりでない(「絅斎先生四十六士論」『近世武家思想』p391、「浅野吉良非喧嘩論」同p385など)。しかし、これらは大石等の行動を是認するかどうかの儒者の議論のなかで展開されることであって、武士一般の感覚とは若干の距離があるように思われる。
 「一武人四十六士論」(同書p387)などに見られるように、赤穂事件についての儒者の議論は、必ずしも武士の感覚と一致しないものだった。三宅尚斎は、佐藤直方が大石等を「不義」とするのを「目ノ子算用」と批判している(「重固問目」同書p381)。これは尚斎がむしろ武士一般の感覚に近い立場から、儒者の議論を批判したものと理解できる。この尚斎が幕府を憚って「重固問目」とは別に草したと考えられる「再論四十六士」(『赤穂義人纂書』)には、幕府の裁定が不公平だったことが討ち入り事件の原因になったという認識が示されているが、浅野を遠島ぐらいにすればよかったと言っており、喧嘩両成敗を適用すべきだったとは言っていない。
 鳩巣や絅斎も、一般武士の感覚に近いところから発言しているであろう。しかし、両成敗の問題を持ち出したのは、それ自体が一般的な武士の感覚であると言うよりは、義士を肯定しようとする感覚を「目ノ子算用」的議論にマッチさせるための工夫だったのではなかろうか。それが罪刑法定主義の感覚に慣れた近代人にきわめて論理整合的に受け取られたのではないか、というのが本稿の提起したい問題である。
 「喧嘩両成敗」を言い立てるのが正確ではないとしても、この問題が赤穂事件をめぐる議論の中で重要な地位を占めることは疑いない。私闘の禁止によって維持されている兵営国家にとって、私闘にまつわる裁定が不公平であることは、致命傷になる可能性がある(拙稿「赤穂事件の地位に関する覚書」)。そうした危険性をはらむ討ち入りという行動を、不義として否定しようとする論理。あるいは主家に対する義理として秩序内に組み込もうとする論理。そのいずれもが、外来思想である儒学を幕藩制社会の中に位置づけようとする思想的営為であったに違いないのである。