喧嘩両成敗法の元禄

田中光郎

(1)問題の所在

 赤穂事件と喧嘩両成敗は切っても切れない。浅野長矩の刃傷事件に対する幕府の裁定が、天下の大法たる喧嘩両成敗に背くものであったのが、浅野遺臣による吉良邸討ち入り事件の原因になるというのは、ほぼ共通の認識である。もっとも浅野刃傷事件が「喧嘩」に相当するかどうかという議論はあるのだが、同時代的に「喧嘩」と認識されていたのはほぼ間違いない。
 ただし、事件の関係者の発言に「片落」という言い回しはあっても、「両成敗」への言及は見られない。これは直接的な幕府批判を憚るというよりは、そもそも両成敗原則が適用されるものとは認識されていなかったためではないか。事件の当事者にとっては、両成敗法の如何に関わらず、裁定が不公平だということで十分だったのではないか。喧嘩両成敗法を(成文法としてであれ、慣習法としてであれ)前提せずにおられないのは、罪刑法定主義の感覚に慣れた近代的偏向である可能性はないだろうか。
 問題意識は上のようなところにあるのだが、ただちに全面的に展開するには能力不足である。取りあえず如上の点には深入りせず、この時期の「喧嘩両成敗法」の幕府法制上の位置を考えてみたい。

(2)収城の際に見える両成敗規定

 「喧嘩両成敗」は慣習法であって、幕府法令にその規定は存在しないという理解がある。間違いではないが、事はそれほど単純でもない。赤穂事件に関する史料の中でも、明文の両成敗規定を見出すことはできる。すなわち、赤穂収城時に両目付から示された条々に

一喧嘩口論停止之訖。若違犯之輩あらは双方可誅罰之。万一令荷担は、其科可重於本人事(赤穂市『忠臣蔵』第3巻、p129)

とあるのがそれである。
 この種のものは、大体慣例に従って作られるので、元禄7年(1694)に備中松山城を浅野家が受け取った時にも、同じ法度書が出されている。『御当家令条』に見える佐倉堀田正信改易(万治3=1660)の際の条々(535・538号)もほぼ同文だし、これに先行する福島正則改易(元和5=1619、534号)際も、他の条文に違いはあるが、両成敗規定は明瞭に記載されている。

『未刊新集赤穂義士史料』p47。校訂に難があって読みが違っているが、原文はほぼ同じであったと考えられる。

(3)有事法制としての喧嘩両成敗法

 ただし、これを以て幕府法で喧嘩両成敗が規定されているという訳にもいくまい。この規定は、占領軍政の臨時法規、いうならば「有事法制」である。

 行軍法令に喧嘩両成敗が明記されるのは、少なくとも関ヶ原合戦時まで遡り(『武家厳制録』22号)、大坂陣にも用いられ(同23号)、幕末の長州征伐の時も佳例にならっている(『徳川禁令考』183号)。
 行軍という性格をもつ上洛の場合には、もちろん喧嘩は禁止なのだが、禁止条項に両成敗が明記されないこともある。

一喧嘩口論堅停止之上、依親類知音之好、贔屓之輩於有之者、本人より猶以可為曲事事。(慶長10年=1615家康・秀忠上洛時の条々、『御当家令条』142号)

 もっとも、明記される場合もあるので、一概には言えない。

一喧嘩口論堅制禁之上は、縦如何様之子細有之共、後日於江戸可及沙汰。若違犯之輩は、不論理非、双方可誅罰之。於殿中令出来は、其一座として可相計之。…(寛永11=1634家光上洛時、同149号)

 こうした違いが何に起因しているのか、必ずしも明白ではない。注意しておきたいのは「後日於江戸可及沙汰」という文言である。日光社参の際の留守番の者に示された「条々」には、「参詣相済、可及沙汰」となる(慶安元=1648、『令条』153号 )。上洛あるいは社参が済んだら沙汰に及んでもよいという、その「沙汰」が喧嘩沙汰をただちに意味する訳ではないかも知れない。関係筋に訴えるという合法的な手段もあるはずではある。しかしながら、文脈からすれば、実力行使を容認していると見るのが妥当であろう。もちろん、喧嘩の公認ではない。想起されるのは、寛永5年(1628)井上正就が豊島信満に江戸城中で殺害された時、酒井忠勝が「遺恨をそのまゝにすてざるも武士道の一なり」と述べて、豊島一族を守ったという話である**。私闘禁止の必要性は疑いないが、厳重に過ぎてはかえって武士の気風を損なう。両成敗によって厳しく禁止するのは、行軍中またはそれに準ずる場面に限定されていたと考えるべきだろう。

『徳川禁令考』にあるように「下々」向けの規定(214号=元和3年秀忠上洛時、221号=元和9年秀忠・家光上洛時、228号=寛永3年秀忠・家光家光上洛時)と見る可能性もある。『禁令考』にあって『令条』等に見えない場合は、法令の存在まで含めて、慎重に扱った方がよいのは周知の事柄である。これらの追求は後日の課題としておきたい。
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『大猷院殿実紀』に見えるこの逸話も、無条件に信用はできない。ただし、江戸時代でも喧嘩によって武士の気風が維持されているという感覚のあったことに疑いはないだろう。

 武士の勤務は基本的に軍事的な意味合いを持っている。慶長14年の「伏見城在番条々」(『令条』181号)には明白に両成敗が規定される。しかし、寛永17年の二条・大坂在番中への「条々」(『令条』186号)には喧嘩禁止の文言はあるが、両成敗は明言されない。恐らくは慶長と寛永の時代の差、軍務としての性格の強弱、緊張の度合いの違いがあるのであろう。一般的な勤番は、行軍とは区別されているようである。いわゆる諸士法度(『令条』6、9号)は江戸城の勤務規定を兼ねるが、同様に両成敗を明記しない。

(3)平時の両成敗規定

 それでは平時の喧嘩両成敗規定が存在しないのかというと、そうでもない。

一喧嘩口論不論理非、如御法双方可為死罪…。(『令条』266号)

 明暦元年(1655)の「江戸町中定」である。「如御法」とあることから、明文規定の有無はさておいて、両成敗が法規であるという認識が定着していたことは確実である。武士の意地を守ろうとする意識から武士について両成敗法を限定的に解釈・適用していたとするならば、町の法令にはその限定は必要ないだろう。
 しかし、これも延宝2年(1674)のもの(『令条』267号)では両成敗規定が削除されている。なお寛文11年(1671)も延宝度と同文だったとある。天和2年(1682)には「忠孝をはけまし」で始まる有名なもの(『令条』271号)に変わるが、ここでも同様に両成敗規定を欠いた禁止条項になっている。
 すなわち、武士の意地を保持するためという目的がないにも関わらず、両成敗規定は削除されるのである。理由はわからない。「かぶき者」の活動が下火になってきて、喧嘩禁止がさほど重要案件でなくなってきたのかも知れない。あるいは、刑罰で禁止しようとする法治主義的な立場より、「忠孝をはけまし」に示される徳治主義の立場が表に出ようとしているのかも知れない。いずれにしても、喧嘩両成敗規定は法令の文面から後退する傾向にあったのである。

(4)喧嘩両成敗法の元禄

 上述の有事法制についてすら、喧嘩両成敗規定の後退傾向を指摘することができる。寛文6年(1666)丹後宮津の受城使に示された黒印条々(『武家厳制録』204号)には明確に喧嘩両成敗が書かれている。軍事行動に向けて、喧嘩両成敗は明文法として立ち現れる。元禄14年赤穂収城の際の史料でこれに対応するものは確認できていないのだが、脇坂家が家中に示す法度書には、喧嘩の制禁はあるが両成敗規定が見えない(『赤穂義士史料』上p102)。元々の黒印状に両成敗規定があればそれを反映した形で発令されるであろう。
 もとより、これは喧嘩両成敗が否定されたことを意味するものではない。まして喧嘩そのものが公認された訳でもない。しかし、喧嘩を防止する方策として、両成敗を前面に押し出すことは、流行らなくなってきていたのである。法理としてはもちろん生きているから、場合によれば表面化するけれども、殊更に喧嘩両成敗を言い立てることは少なくなっていたのが元禄時代なのである。