赤穂事件の地位に関する覚書

田中光郎

 本稿は、赤穂事件研究の意義についての理論的な素描をこころみたものである。先行学説の整理など、多少大雑把すぎると思われる箇所もあるが、意図のあるところを諒解されたい。

(1)「役の体系」論と「兵営国家」論

 近世日本の社会に関する仮説(理論)の中で、私が最も強く影響を受けているのが、「役の体系」論と「兵営国家」論である。
 前者は、尾藤正英氏が提示した、人々がそれぞれの職分=役を果たすことによって社会が成立している構造を、中世の「職の体系」に対して「役の体系」と名付けた考え方である。後者は、高木昭作氏が提示した、近世国家全体が非戦闘員を含んだ軍事組織として成立しているという見方である。私にはこの二つの理論が無関係なものだとは思えなかった。尾藤氏のいわゆる「役」は、高木氏のいう「兵営」内における職務に相違ない。拙稿「『職分』としての『武』」は、そのような問題関心から書いたものである。

(2)私戦停止と「喧嘩両成敗法」並びに「敵討」

「兵営国家」論は、近世国家成立の過程と整合している。豊臣秀吉の統一事業は、いわゆる「総無事令」によって私戦を停止する、つまり全国の大名を軍事的統制下におくことによって成立していた(藤木久志氏の論考など)。パクス・トクガワナがそれを継承するものであったことは、言うまでもない。そして、その支配の機構(幕府の組織)は「庄屋ジタテ」という表現から知られるとおり、三河の国人領主であった時からの連続性をもつ、戦国大名の組織を拡大したものだったのである。
 戦国時代には、それ以前に比較すれば組織的に戦うことが求められるようになっていたため、戦国大名が自らの軍団の規律を維持する必要性が高まった。特に同士討ちを防ぐために私闘の禁止が不可欠であり、そのために「喧嘩両成敗」が法規範として定着していく。つまり、「喧嘩両成敗法」は「総無事令」と同じ私戦停止法だったのである。その意味で、「喧嘩両成敗法」=私戦停止法は幕藩制の根幹に関わるものだったのであり、成文法として存在しないにもかかわらず「天下の大法」と認識されたのは故のないことでない。

 ただし、兵営国家を維持するためには、戦闘者たる武士の気概・矜持を必要とした。この観点からすれば、例えば親の敵を眼前にしながらこれを見逃しにするような武士は戦闘者としての資質に欠けるものだ、という感覚を肯定しなければならない。私闘を放置すれば軍団の秩序は維持できない。私闘を否定すれば、軍団の士気は維持できない。「喧嘩両成敗法」と「敵討」はこの兵営国家を継続させるために、どうしても必要な装置なのである。通常はこの間の矛盾は意識されない。喧嘩の当事者AがBを殺害して逃走したために、Bの関係者bがAを捜し出して討つという、典型的な「敵討」の場合には、警察制度の不備は指摘できるとしても、「喧嘩両成敗法」を否定することにはならない。むしろ「敵討」によって「喧嘩両成敗法」の実効を挙げるという、補完的な役割を果たしたものと見なすことができる訳である。

 しかしながら、「喧嘩両成敗法」またはその根底にある私戦停止は、私闘である「敵討」との間に、矛盾を潜在させている。赤穂事件は、この矛盾を顕在化させたということができるであろう。

(3)赤穂事件の性格

 赤穂事件の発端である浅野長矩刃傷事件の動機は、いまなお不明である。しかしながら、動機自体の詮索をそれほど重視する必要はなく、元禄時代人がこれを「喧嘩」ととらえたことの方がより重要と考えられる(尾藤正英『元禄時代』)。この「喧嘩」については、ある事情(幕府の「片落」裁定)のために「喧嘩両成敗法」が実現できなかった。浅野家遺臣が「敵討」によってこれを補完したのは、如上の幕藩兵営国家の構成原理に則った行動である。その意味では、主観的にも客観的にも、大石らの行動は反体制的ではない。
 しかし、この行動は、一面で幕府の「片落」裁定に対する批判行動という側面をもつ。そのうえ、隠居とはいえ上級旗本(直参)を牢人となった陪臣が殺害するという事態は、軍団の規律維持のために認められるものではない。この点、赤穂事件は類例を見ない特殊なものであるので、他の事件(例えば「浄瑠璃坂の仇討」)と比較して論ずることにあまり意味はない。

 大石らの行動を是認すれば、私闘禁止の兵営国家秩序に傷が付く。全否定すれば、戦闘者たる武士の誇りと気概を失わせる。幕府が四十六士に対して「切腹」という名誉を重んじた死刑形式を採用したのは、まずまずの“落とし所”だったと言えよう。しかし、問題は根本的に解決された訳ではない。

(4)儒者の関心と作られた「物語」

 「文」を重んじる儒学者にとって、兵営国家は必ずしも居心地の良い場所ではなかった。それは儒者が“文弱”であるという意味でない。儒者中では最も軍事に関心を持っていた荻生徂徠 (山鹿素行は儒学に関心をもつ兵学者だと考える)が、兵営国家を批判して「制度」を立てる必要を説いていた(『答問書』)のは、その現れである。徂徠とその政治論の後継者・太宰春台が四十六士批判の先鋒に立ったのは偶然ではない。ここに兵営国家の矛盾点が見えたからである。
 これに対して、兵営国家の現実と儒教的徳治論の予定調和を信じているのが、室鳩巣に代表される朱子学者であった(もちろん、すべての「朱子学者」が同じ意見だった訳ではない)。ただし、この立場でも兵営国家をそのままでは肯定できない訳で、兵営国家が儒教的世界観に合致することを証明する必要があった。『赤穂義人録』はその目的性をもった述作である。浅野家牢人の行動を儒教的な「義」と見なすことによって、鳩巣はこの課題を果たした。この名著により、この事件を忠義な家臣の物語と解釈する立場は完成されたのである。

 大石らが「忠義」でなかった訳ではない。しかし、それだけで括れない部分は、この「物語」の中から欠落していく。鳩巣が意識的に虚偽を述べた訳ではない。しかし、彼は自分の理想を大石に投影し、記録にあらわれない部分に虚構を加えていく。その結果できあがった「物語」的大石像が、武士のひとつの理想型として幕末まで(現代までというべきか)生き続けることになる。
 現実の浅野家旧臣は、江戸時代前半の武士の行動規範に則って行動した。儒教的に解釈された赤穂義士は、江戸時代後半の武士の行動規範を示すものとなった。もとより両者は全く別な存在ではない。その間にあるズレはたぶんそれほど大きなものではないのだろうが、近世の武士のありようを考える上での問題としては決して小さくはないように思われる。

(5)軍忠状と軍人勅諭の間に

 モノノフとは得物をとって“戦う人間”のことであり、サムライとは貴人の近くに伺候して“仕える人間”のことである。戦闘者と奉仕者という二つの性格は、武士の全歴史を通じてつきまとっている。しかし、その意味合いに変化はあるだろう。
 中世の文書に「軍忠状」と呼ばれる物がある。この場合、「忠」とは戦功と同義である。精神的な意味での忠誠をさほど重視しない、ある種の功利主義を見ることができる。単純にいえば、戦闘者の立場が優先されているのである。
 明治の軍人勅諭で最も重視されたのが「忠節」だった。近代国民軍の精神的紐帯としては愛国心が求められそうなものであるが、国民意識が十分に成熟していなかったためもあって、主従制の原理が軍隊の規律を維持するために用いられた。ここでは、戦って手柄を立てることよりも、むしろ精神的な服従が重視された。これまた単純にいえば、武士ではない軍人ですら、奉仕者の立場が優先されたということになろう。
 中世の軍忠状と近代の軍人勅諭の間に、価値の逆転現象が起こっている。その逆転現象が起こったのが近世である。『葉隠』について、「武士道」(戦闘者の立場)と「奉公」(奉仕者の立場)の2つの系列が指摘されている(相良亨氏)のは、両者の均衡関係を示しているだろう。山本常朝と同時代を生きた大石内蔵助ら赤穂藩士にも、同様の均衡があったことが想定できる。「物語」の赤穂義士について、後者への傾斜が見られるとすれば、その「物語」が作られていく過程は、価値意識の変化のひとつのモデルケースたりうるのではなかろうか。

(6)赤穂事件研究の意義

 もちろん、以上のことは十分に論証されたものではない。ただ、赤穂事件自体の史実の確認と、「物語」が作られていく過程とを検証する作業には、このような問題を考察していくのに連なる意義が認められるのではないか、ということを述べたかったのである。

 第一に、この事件は「喧嘩両成敗法」と「敵討」という、兵営国家を構成する二つの装置の関わり合いを事実に即して検討するための、格好の材料である。
 第二に、これを「物語」と比較することによって、武士のあるべき姿(理想像)の変化を知ることができるだろう。
 そして第三に、その変化のあとは、近代日本のあるべき臣民像がどのように作られていったかを、巨視的に考えるための手がかりを提供してくれるはずである。

赤穂事件の研究は、単にテレビドラマや映画を楽しむための好事家の仕事ではなく(という意味は、決して好事家を軽視する趣旨ではない)、近世の国家構造や、近代ミリタリズムの思考法の探求にもつながるものだと考えたい。