悪口は殺害同然
浅野刃傷の原因に関する覚書

田中光郎

(1)はじめに

 既に論じ尽くされた感のある赤穂事件にも、他の歴史的事件と同様、今なお解明されていない問題がいくつもある。発端となった浅野長矩の刃傷の原因もその一つで、新しく直接の証拠となる史料でも出てこない限り、永遠の謎になるのであろう。私もそうした新しい材料を持っている訳ではないのだが、これまでの史料と先学の諸説から、ある程度の整理はしておきたい。

刃傷の原因に関する諸説については、川口素生氏の整理(「元禄赤穂事件学説・論争完全データファイル」、『歴史読本』1999-2)がかなり網羅的で参考になる。ただし、本稿とは整理の視点が異なる。

(2)先行説の3レベル

 浅野刃傷の原因については諸説紛々であるが、往々にして異なる次元のものがいっしょくたに議論されている傾向がある。まずは、これを整理するところから始めたい。  浅野刃傷の動機については、おおむね4つの説がある。

  1. 遺恨説(浅野が吉良に対して遺恨を持っていた)
  2. 発狂説(浅野が精神に異常を来した)
  3. 偶発説(全く偶発的に起こった)
  4. 陰謀説(何らかの政治的意図のある行動だった)

 このうち、2から4についてはいちおうそれで完結した形になるが、おおむね受け容れられているのは、1の遺恨説であろう。これをとった場合のみ、浅野が何故遺恨を持ったかという、遺恨の原因に話が進む。

 遺恨の原因としては、次の説をあげることができる。

  1. 嫌がらせ説(吉良が浅野に対して嫌がらせをした)
  2. 悪口説(吉良が浅野の悪口を言った)

 bはaの一部と見ることもできるが、これを独立させた意味については後述する。具体的な嫌がらせとしては、衣裳・宿坊の畳替え・料理などについて虚偽の指示をしたことなどが伝えられている。

 吉良が何故浅野にそのような嫌がらせをしたかという、いわば吉良方の動機が次の問題となる。

  1. 賄賂説(浅野が吉良に賄賂を贈らなかった、あるいは少なかった)
  2. 性格説(二人は性格が合わなかった)
  3. 製塩説(塩の製法をめぐって両家の間に確執があった)
        … 以下、このレベルには多くの説がある。

 浅野刃傷の原因についての言説は、おおむねこの3つのレベルで考えることができるはずである。往々にしてこれが並列に扱われることがあるが、レベルごとに捉えた方が解りやすいように思われる。

(3)第一のレベル…浅野刃傷の動機

 上述の通り、ここでは1の遺恨説が最も有力である。何より、事件当時の処分はこの理解に則っているので、信頼度の高い史料はおおむねこの説に合致するようになっている。例えば唯一の目撃証言『梶川氏筆記』には「此間の遺恨覚えたるかと」声を掛けて切付けたとあり、また取り押さえられた後も「上野介事此間中意趣有之候故…打果たし候由」を繰り返し言っていたとある。浅野処刑の理由は「意趣有之由にて、吉良上野介を理不尽に切付」たことに求められていた(『浅野内匠頭御預一件』)。また『赤城盟伝』には「有宿意于上野介者、非一朝一夕之故矣」とあって、浅野家臣の間でも遺恨説が信じられている。

ただし、テキストによってはこの部分が欠落していることは周知のとおりである。

 それ以外の説は、可能性は残すとしても、有力な説には成りがたい。2の精神異常説は、現代の精神医学の成果を、異なる文化環境に生きる人物に適用する危険性をはらむ。そもそも狂気とは何かというフーコー的関心を含め、話柄としては興味深いとしても、採用には慎重であるべきだろう。なお、1と2の中間的な説として、浅野の性格や当日の体調に原因を求める考え方がある。ただ、きっかけとなった問題に重点をおけば1、浅野の精神状態に重点をおけば2に区分することが可能であろう。3の偶発説も、同様に1か2のいずれかに接近することが考えられる。ただし、以前からの遺恨の蓄積もなく、何の精神的異常もなく、まったく偶発することも理論的にはあり得るので、いちおう独立させておこう。
 少しニュアンスが異なるのが、4の政治的陰謀説である。富裕な浅野家の領地を没収しようとした柳沢吉保の謀略、勤皇の志厚い浅野が傲慢な吉良を討とうとした、等々。小説的には面白いが、証明は不可能であろう。少なくとも史料的には1の遺恨説に軍配を上げざるを得ない。

(4)第二のレベル…遺恨の原因

 さて、それでは何故浅野が吉良に遺恨を抱くようになったのであろうか。これについては、aの嫌がらせ説が一般的である。しかしながら、確証のある具体的な嫌がらせの事実は見当たらない。いわゆる実録体の成書でも、早い時期の『介石記』『赤城士話』『易水連袂録』などには具体的な記載はない。多くの伝説は、後から付加されたものである公算が強い。
 事件関係者の証言のなかで、刃傷の原因についてある程度具体的な記述が見られるのは『堀部弥兵衛金丸私記』だけと言ってよい。

去年三月十四日、於御殿中ニ、内匠頭不調法仕候付、早速御大法之御仕置ニ被為仰付候段、乍恐御尤至極ニ奉存候。於伝奏御屋敷、吉良上野介殿品々悪口共御座候へ共、御役儀大切ニ存、内匠頭堪忍仕候処、於御殿中、諸人之前ニ武士道不立様二、至極被致悪口候由。依之其場を遯シ候而者、後々迄之耻辱と存、為仕と存候。

 これは敵討趣意書の第一草稿である。正当性を主張するための文書であることを割り引くとしても、吉良が「悪口」したという事を明白に述べていることは注目に値する。これによれば、長矩は伝奏屋敷で吉良からいろいろ悪口されたが役目大事と堪忍していたが、殿中で武士が立たないほどに悪口されたそうで、その場を逃しては後々までの恥辱と重い切り付けたのだろう、と推定している。後半(殿中)は伝聞と推量だが、前半(伝奏屋敷)は事実として記述されている。これは必ずしも弥兵衛がその場に居合わせたということを意味してはいないだろうが、在江戸の赤穂藩士はある程度伝奏屋敷で「悪口」のあったことを知っていたものと思われる。先に見た『赤城盟伝』の記載も、そのような認識を前提にしているのであろう。

 他の嫌がらせと異なり、悪口については相応の根拠がある。具体的な嫌がらせ、例えば虚偽の指導をしたというような事実があれば、弥兵衛が書いていそうに思われる。書いていないということが、弥兵衛が知らないことを意味するとすれば、そもそもそんな事実が存在しなかった可能性が高いであろう。

(5)第三のレベル…悪口の動機

 という訳で、史料によるかぎりは、吉良の悪口により浅野が遺恨を抱いたのが刃傷の動機であると考えるべきであろう。もちろん、嫌がらせ説をはじめ他の説を否定する訳ではなく、蓋然性の問題である。
 そこで次の問題となるのはなぜ吉良が悪口したのかということになる。だが、残念ながら悪口説の根拠とした『弥兵衛私記』にも、その内容が記されていないので不明とするほかはない。ただ、当時の噂では賄賂に原因があるとされることが多かった。吉良の悪口が他者に聞こえて浅野の面目を失わせたのが原因とすれば、悪口の内容はある程度広まっていたことになるので、相応に尊重してもよさそうではある。
 この点で『浅野仇討記』の記述は参考になる。実録体の史料を過大評価することはつつしみたいが、この史料は様々な嫌がらせを載せずに悪口のみを記しており、伝説が生まれる前の形を残していると考えられる。

内匠頭勅使饗応の当役たれば、万端を高家へ示合さる。其附届の賂繁からざるを以て、上野介欲心や有けん、高家たるに高ぶりや有けん、内匠頭を悪様に評し、公用を麁末にせる人なんど語られしとかや。内匠頭にも大凡の事ならず、公務を軽んずるとの沙汰を憤り、如此の珍事に及ぶとかや。

(6)「悪口者殺害同前」

 悪口されたことが遺恨の原因だということは、現代人からは理解しづらいかも知れない。そんなつまらないことで、身を捨て家を捨てての刃傷沙汰とは、あまりに短慮なように思われるであろう。しかし、上に引用したとおり、堀部弥兵衛は悪口されたことを原因とした上で、主君長矩の心事を思いやり、共感を示している。さらにそれに続けて

然者先より為仕懸手向ニ而候。悪口者殺害同前之御制禁と及承候処、上野介殿を其儘被立置候。

云々と、敵討ちに至った事情を説明していく。
 “悪口は殺害同然”であるという弥兵衛の言い分が客観的に正しいとは言い切れない。しかし、そういう考え方が近世前期に存在していたことは確認できる。『甲陽軍鑑』に、甲州法度の「喧嘩両成敗」規定をめぐる内藤修理の意見が記されている。

尤喧嘩なきやうにとの義、理非を不論両方御成敗に付ては、相違有まじく候。…諸人まろくなり、何をも堪忍いたせと上意にをひては、いかにも無事にはみえ申べく候。雖然それは大なる上の御損なり。其故は、法をおもんじ奉り、何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、皆不足を堪忍仕る臆病者になり候はん。…喧嘩さすまじき為までに男道を失ひ給はん事、勿躰なき義なり。…修理が工夫には、人に慮外をいたし、惣じて諸人の腹立やうに仕りかくるものを、喧嘩好きとおぼしめして、これを法度に仰つけらるゝならば、諸人の作法もよくまかり成、人の腹立こと有まじ。はらをたゝねば、喧嘩の有べき子細も無之。…此以後は目付横目をそへられて、人ニ慮外仕者を御成敗候歟、改易と仰付られ尤かと、先内藤修理は存奉る。(品第十六)

内藤は「喧嘩の原因を作る者をこそ厳重に処罰せよ」と主張し、信玄はこれを採用したと、『軍鑑』は伝えている。これが史実であったかどうかは保留する。しかし、近世武士の教養のなかに、こうした知識があったことは疑いない。“悪口は殺害同然”という弥兵衛の主張は、孤立したものではなかったのである。

 元禄ころの武士にとって、他愛もない口論が原因で喧嘩となり、命を落とすことは、さほど珍しいことではなかった。多くの「武士道」書が口論を戒めているのも、そのゆえである。『葉隠』にはこんな記述がある。

…さて又、当座にても、酒狂にても、妄言にても、耳に立ち候事申す人これある節は、それ相応の返答したるがよし。愚痴に候て、はや胸ふさがり心せき、即座の一言出合はず、これにては残らぬ仕合せと打ち果し申す事、たはけたる死様なり。馬鹿者と申し懸け候はば、たはけ者と返答して済む事に候。…始終だまるは腰抜けなり。詞の働き、当座の一言、心懸くべき事なりと。(聞書第二)

 悪口に起因する喧嘩で落命するのは、「死狂い」「犬死気違」を称揚する山本常朝にすら「たはけたる死様」と酷評される。もっとも『葉隠』の真価は、こういった世間知・処世術にあるという理解が有力である。「常住死身」の覚悟があればこんな「たはけたる死様」はしないはずだ。単純に浅野刃傷事件にあてはめることはできないだろうが、長矩に常朝の知恵があったならそもそも事件は回避できたかも知れない。しかし、そういう危険性は元禄武士の日常にころがっていたのであり、長矩のような武士の行動は、(大名としてはともかく)決して例外的なものではなかったのである。

 殿中の刃傷は、もちろん違法行為ではあるが、完全に否定されていた訳でもない。寛永5(1628)年に豊島刑部少輔信満が井上主計頭正就を殺害する事件があった時、豊島の一族をことごとく厳罰に処すべきだという意見があったが、これに反対した酒井忠勝はこう述べたという。

小身の武士たるもの。大名に遺恨を果さんと思ふに。邸宅にても途中にても叶ふべき事ならず。旗本の輩遺恨を晴さんには。殿中こそよき勝負の仕所なれ。遺恨をそのまゝにすてざるも武士道の一なり。いまこれを罪せば。武士の意地是より絶て。農商婦女もおなじくなるべし(『大猷院殿御実紀』12、寛永5年8月12日条)

この忠勝の発言もそのまま史実と認められる訳ではないが、このような感覚はある程度近世武士に共有されていたと思われる。
 浅野刃傷事件は豊島刃傷事件とは逆に、大名が旗本に遺恨をもってこれを討ち果たそうとしたものではあるが、「殿中こそよき勝負の仕所」であるのは同じであろう。1対1で出会える場合など、そうそうはなかった。殿中で直接引き金となるような再度の悪口があったかどうかはわからないが、伝奏屋敷での悪口に恨みをもった浅野は、機会があれば吉良を討とうと思っていた。たまたま3月14日、目の前に恨む相手が無防備な状態で立っていた。これこそ千載一遇の好機と、折からと申し殿中を憚らず、思わず刃傷に及んだ。という風に考えても、刃傷事件の事実経過(拙稿「『梶川氏筆記』の読み方」参照)とは矛盾しないであろう。また「此段兼て為知可申候得共、今日不得止事候故、為知不申候。不審に可存候」(『浅野内匠御預一件』)といういささか不明瞭な遺言にも適合する。かねてから考えていたことではあったが、実行は計画的ではなかったのであろう。短慮といえば短慮だが、「武士道不立」「其場を遯シ候而者、後々迄之耻辱」という感覚=「武士の意地」に基づく行動として、不思議のないものだったと考えられるのである。