いわゆる浅野家再興運動の性格について

田中光郎

はじめに

 赤穂開城の後、大石は「浅野家再興運動」につとめ、「敵討」を急ぐ堀部安兵衛と決裂寸前までいったとされている。大石の主眼が再興運動の方にあったとする見解も、両面作戦を展開していたのだという解釈もあるが、どちらにしても“再興運動”をしていたとすることに違いはない。私自身もそのように考えていた(たとえば拙稿「大石内蔵助の真意」)のだが、最近どうも違うように思えてきた。
 以前から疑問に思っていたことはあった。大石が浅野家再興を目指していたのなら、何故元禄15年7月の閉門赦免・広島御預けの時点で再興を断念して「敵討」を実施したのか、という問題である。主家再興が目的であるなら、まだまだ粘ってもよいのではないか。事実として、宝永7年に浅野大学は500石の旗本として復帰する。可能性が消えたわけではないのである。もちろん閉門赦免をいちおうの区切りとすることはできるが、断念する理由として説得力があるとは思えない。
 そもそも大石は「御家再興」を目指していたのだろうか。史料に即して考えてみる必要があるだろう。

(1)嘆願の内容

 大石内蔵助が展開した「御家再興運動」とは何か。この問題にもっともよく答える史料は、大石が元禄14年(1701)7月22日に遠林寺祐海にあてた書状(熊田葦城『日本史蹟赤穂義士』p.p.143-8)である。大石は、祐海の兄弟弟子に当たる鏡照院から、護国寺・護持院を通じての運動を試みていた。本書はそのための依頼状であるが、その中で運動の目的を述べている部分を引用しておく(ただし読みやすくするために適宜段落を設けた)。

一 大学様御安否之儀、赤穂にても申候通、御閉門急に御赦免乞願候事にては毛頭無之候。いつにても御免之節、首尾能人前も被成候様に御面目も在之候段、願申儀に御座候。何様の品にても、吉良氏勤役にて大学様と御ならべ置候ては、大学様人前不成事に候。此所迄存考、御目付中様へも「人前罷成候様に」と申上たる事にて候。こゝは少六ケ敷事に候へ共、大体右之通に無之ては、大学様いか程結構に御成候ても無詮、人前之不成事に候。
雖然、吉良父子急度被仰付被下候様に奉願にても無之。其上急度被仰付候事は今更不罷成事に候。此段も考、了簡仕候。只出勤も無之様に、扨大学様も御赦免候へば、人前交りも成申面目に候。ならび候て御勤に候ては、人前不成と申にて候。此所はとくと御了簡、鏡照院へも被仰談可被下候。
我々存念御座候も、此儀にて御座候。如何成申事に候へ共、吉良殿無恙所は、大学様御安否次第と存候。此所迄とくと御勘弁候へば、吉良殿方人にても聞届け可被申儀と存候。

 大石は浅野家再興とは言わず「大学様御安否」と言っているが、これについては後述することとする。願いの趣旨は、大学の閉門が赦免になったときに人前もなるように、面目もあるように、ということだった。この趣旨は、他の多くの史料でも確認できる。同志に対しても、浅野家親戚大名の家臣に対しても、全くといってよいほど同じ説明をしているのである。
 史料に「御目付中様へも…申上たる事」とある通り、この再興運動は赤穂開城時に収城目付に行った嘆願から始まっている。開城過程については別稿(「赤穂城の政変」)に譲るが、必要な範囲で振り返っておこう。3月19日早朝に刃傷事件の第一報を受けた赤穂では、追って吉良生存の情報に接し、むざむざ開城できないという大石内蔵助と、無事に開城しようという大野九郎兵衛とが対立した。大石主導のもとで3月29日付けで収城目付に嘆願書を提出しようとしたが、使者が行き違いになってしまい、これは未遂に終わった。やむを得ず開城するが、その前日の城内検分の際に大石は目付に嘆願を行い、江戸に報告するとの言質を得た。
 ところで、3月29日付けの嘆願書では「家中納得可仕筋」を立ててほしいというだけであったのが、目付への嘆願では「大学御奉公相勤候程之首尾」になるように、という内容に変わっている。もっとも抜け目なく「大学蒙御免、面目も御座候て人前をも相勤、快く御奉公をも申上候様に」と付け加えており、嘆願の真意がここにあったことを示している。“家中納得仕るべき筋”が“大学の人前”と言い換えられたのであるが、これを主張の変化と見るのは適当であるまい。元々が「鬱憤」を書き付けたものにすぎなかったのに対し、いくらか具体的な要求になってきたと考えられる。しかしながら、誓願内容はまだ十分に具体的ではない。

 再び祐海宛書状を見てみよう。吉良と大学が一緒に勤仕するようでは、大学の人前は成らない。しかしながら、吉良の厳しい処分を願うわけではない。今さらそんなことができる訳はないことは承知している。ただ一緒に勤仕することのないようにしてほしい。これが大石の主張である。大石の願いを容れようとしても、幕府がこれをどう実現できるのだろうか。具体的な方策まで提示しないのは、幕府に対して指図がましいことをしないという礼儀でもあろうが、大石にも明確な考えはなかったように思われる。
 最後の一段落は大石の覚悟の程を示す。吉良が無事であるかどうかは「大学様御安否」次第である、ここを考えれば(幕閣が)吉良びいきでも聞き届けてくれるだろう、という表現は、この運動の際に「存念」=「敵討」をほのめかすことを認めて(または求めて)いると考えられる。大石の覚悟のほどは明確である。しかし、その覚悟をもって実現しようとするものは、具体的な解決策を伴わない、浅野大学の「人前」なのである。

(2)浅野大学の地位について

これで見る限り、大石は浅野家再興を願っている訳ではなく、浅野大学の「人前」が成るようにすることを願っているのである。「人前」が成る云々は浅野家再興を前提としている、と反論されるかも知れない。しかし、それほど単純ではない。先に保留しておいた「大学様御安否」という表現の問題がある。
 周知のことに属するが、浅野大学長広は刃傷事件の7年前、元禄7年に3000石を分地され旗本寄合に列していた。兄の事件に連座して閉門の処分を受けたのだが、「閉門」処分ということは、浅野大学はこの時点では旗本身分を失っていなかった訳である。それでは、大学の将来はどうなるのか。二つの前例を見ておきたい。

【事例一】内藤伊織忠知の場合
延宝8年(1680)、増上寺で四代将軍家綱の法事の最中に、鳥羽城主・内藤和泉守忠勝は永井信濃守尚長を殺害した。そのために忠勝は死を賜り、城地は収公された。忠勝の弟・忠知は延宝元年に2000石を分知されていた。事件後、采地を移されているが、旗本家としては存続した。(『寛政重修諸家譜』13 p.p.231-2)

【事例二】松平斎宮信通の場合
 元禄6年(1693)、大和郡山城主・松平日向守忠之は発狂したという理由で領地を没収された。弟・信通は貞享3年に1万石を分知されていたが、兄を預かると同時に2万石を加増されて備中に移った。(『寛政譜』1 p46)

 松平家の場合は名門中の名門ということで優遇されたようであるが、ともかく、この二つの事例では、分家は領地は移されたものの安泰であった。この前例に倣えば、浅野内匠頭家は断絶しても、浅野大学家は存続が認められる公算が大きいはずである。もちろん、そのまま大学の身の上に適用される保証はないが、事件の当事者の念頭にあったことは間違いない。内藤兄弟の姉は、浅野長矩・長広の母であり(ちなみに忠知は甥・長矩の事件にも連座して出仕を止められている)、松平兄弟の姉は、戸田氏定の妻である。「大学様御安否」は、必ずしも赤穂浅野家の再興を意味するとは言えず、旗本浅野大学の最終処分を問うているのである。

 もちろん大石は、大学による浅野家相続を希望しているのであって、その限りでは再興運動と呼んで間違いではない。並んで勤仕しては「人前」がならないという主張は、大学が相続人であるという認識を前提にしている。それは同時に吉良上野介が浅野大学にとっては養父でもある兄の敵であるということを意味している。単純な意味でなら、旗本・浅野大学の閉門が許されて出仕することは考えられなくなかった。しかし、そこに長矩の相続人としての「人前」を持ち出せば、問題は複雑になる。極端に言うなら大石の再興運動は大学赦免妨害を意味していたかも知れない。
 そもそも、大学の立場に配慮して開城を主張していたのは大野九郎兵衛であり、大石は大野の意見にも一理はあるとしながらもそれでは「不本意」だと言っていた。単純な意味での御家再興に転向したとする方が不自然である。少し後になるが、大学にわずかでも所領が与えられたら「敵討」ができなくなると心配する原惣右衛門らに対し、大石は「面目・人前の成らぬようなら、穢れた名跡を立てて置くよりも打ちつぶす方が本望だ」と答えている(元禄15年2月3日付け大高源五書状、『堀部武庸筆記』)。目的はあくまでも浅野家の名誉回復なのである。恐らくは戸田氏定の説得を受けて開城に踏み切るところで、大学の「安否」に「人前」まで読み込むことによって、家中納得すべき筋を立てるという当初の目的に適合するように理論武装をしたものであろう。江戸で戸田家臣・中川甚五兵衛が多川・月岡両使に語った「段々采女正殿より被入御念、被申達候段、御聞届無之と申事有之間敷」という言葉**から考えて、妻の実家・松平家の先例から大学に名跡を相続させる可能性を示唆した可能性がある。氏定がそれで家中の納得する筋が立つと考えたとすれば、大石はそれを逆手に取ったと見ることができる(この点、戸田氏定のことばを「とっこにとった」とする野口武彦氏は慧眼であろう)。

伊藤五右衛門の言葉として三次藩士が記している(『史料』中p564)。
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多川・月岡の口上書。『江赤見聞記』所収のものの方が分量が多く、原形に近いものと考えられるが、中川の言葉については『岡島常樹覚書』所収のテキストの方が意味を取りやすいので採った。

 閉門中の大学とは接触できないまま、大石は大学の「人前」を要求する。大学の意思がどうであったか、知る手がかりを我々は持っていないが、大石ほど「人前」に拘泥してはいなかった可能性は少なからずあるだろう。現実に存在している浅野大学の意思は問題ではない。大石にとっては、大学は失われた赤穂浅野家の名誉を託す名目人に過ぎないのである。

 すでに述べた通り、元禄15年7月18日に大学は閉門を許されると同時に旗本身分を失い、安芸の本家に引き取られる。この決定に大石の運動がどれほど影響を与えたかは不明である。ただし、この時に老中・阿部正武の家臣から本家の臣・明石吉大夫が聞かされた「大学殿御事、何卒被仰付候品も可有之事に候得共、一旦長矩君養子と有之候故、右之通被仰出候」という事情は興味深い。単純な分家旗本であったら存続できたが、長矩の養子であったから、大学家は存続できなかった。旗本としての性格よりも赤穂浅野家の相続人としての性格を強調されることは、大学にとって不利に働くのである。

『浅野綱長伝』(『史料』中p536)。無批判に信ずることは慎みたいが、広島浅野家の正史の本文に採られていることだから、全くの無根とも思われない

 結果として、浅野大学の「人前」回復はならなかった。しかし、大石の論理の半分は認められた。浅野大学は兄・内匠頭の相続人であって、吉良と並んで出仕することはできない。それを認めたからこそ、幕府は「罪人ではないけれど」という注釈付きで広島に追い払った。自由の身で江戸にありながら吉良を討たなければ、面目が立たない。大学に吉良を討つ意思があったかどうかはわからない。しかし、実在の大学がどう考えどう行動するかとは無関係に、赤穂浅野家の名誉(または不名誉)を託された名目人として、処分が決定された可能性は否定できない。

(3)堀部安兵衛との論争

 大石の論理を以上のように整理してみれば、堀部安兵衛との論争(『堀部武庸筆記』所収の往復書簡など。以下同筆記からの引用についてはいちいち注記しない)についても、これまでと違う解釈ができるように思われる。通説的な理解では、譜代の家老である大石は浅野の家の存続を第一に考え、これに対して堀部は長矩個人への忠誠を行動の原理としていたために復讐を主張し、対立したと考えられている。しかしながら、長矩個人への忠誠は、開城前に目付に差し出そうとした嘆願書に「一筋に主人一人を存、御法式之儀も不弁」云々という大石にも見られる。堀部のリライトでは「何方へ面を向可申様無御座」と、むしろ藩士の面目の方に重点がおかれ、長矩への忠誠に関わる文言はない。これは、何も大石だけが忠義の臣であり、堀部は自分の名誉にのみ関心を持っていたということではない。忠誠心も名誉欲も、多かれ少なかれ共通して持っていたと考えた方がよいであろう。

刃傷事件当時江戸にあった堀部安兵衛は、奥田兵左衛門・高田郡兵衛とともに赤穂に向かったが、到着した時には既に開城方針が決定した後であった。堀部らは大いに憤慨したが「是切には不可限、以後之含も有之候」と言われて大石に従うこととした。この時点で「大学殿一面目も有之、人前も罷成候様不被仰付候はゞ」という条件付きだったのだが、その意味を深くは考えなかったらしい。江戸に戻って間もなく、一ヶ月も経たないうちから、大石に下向を促し始める。これは大石にとっては意外であった。赤穂での申し合わせは「大学様御安否之様子次第、存念可申談覚悟」であったはずである、もしも大学の人前がなるような結果が得られれば出家してもよい、これが「亡君様・大学様へ忠義」であり「一筋に大学様御為宜様」ばかりを考えている、と返事を書き送っている。
大石の論理は、開城時からの連続でとらえなければならない。「吉良が生きている以上城をむざむざ明け渡したくはない。大学による浅野家再興(名誉回復)ができるならば納得できるので、取りあえず城は明け渡したが、これで終わりではない。大学の人前がならないようなら、後の含み(復讐)がある」。しかし、開城決定後に赤穂に到着した堀部には、この論理の全体を十分理解できなかった。「吉良が生きている以上城をむざむざ明け渡したくはなかった。開城はしたが、これで終わりではない。後の含み(復讐)がある」。確かに聞いていたにも拘わらず、大学の問題はすっぽり抜け落ちていたのである。大石の返書に接した堀部は「最初の御所存よりたがひ御座候故、相違之様にも被思召候哉と、今更愚察仕候」と開き直った上で、大学の立場を「日本に天竺を添被下候共、上野存生におゐては御見遁に被成間敷候間、御免之程如何難計趣に存候」と論じる。世人の評として「赤穂其儘五万石被下候ても、兄親之切腹を乍見、百万石被下候ても中々人前は相成間敷」と言っているのも同趣旨であろう。大学の問題を論理に組み込んだ場合、大石と異なる位置づけがある訳ではない。大学は浅野家の名誉を担う相続人であり、吉良をそのままにしては大学の「人前」はならない。

堀部の主張は、大学の「人前」が成る可能性はなく、また幕府への遠慮もあって大学が討つ訳にもいかないのだから、家臣達が即刻吉良邸に踏み込むべきだということである。大学の「人前」がならなければ、吉良を討つというのは大石自身の考え方であるし、「人前」の成るようにすることが殆ど不可能なことも承知をしている。この無理難題を幕府につきつけたのは、他ならぬ大石なのである。吉良への処罰なしで、どう浅野家の名誉が守られるのか、大石が一貫して幕府に問うているのはここのところであり、事実上は不可能なことを嘆願していることを誰よりも知っている(祐海宛の書状と堀部らへの書状で、大石の主張はほとんど変わらないのだが、一カ所だけニュアンスの違うところがある。祐海宛では「吉良父子急度被仰付被下候様に奉願にても無之」と言いながら、堀部らには「仙野ト一之助(吉良)方へ品無之ては文公(大学)人前難立」と述べる。これは大石が嘘を言っている訳ではなく、そもそも不可能なことを幕府に要求しているということを、大石が意識していたと見るべきであろう)。堀部はこの論理をそのまま頂いて、これは不可能なのだからすぐ行動すべきだと主張する。それができないのは「身をかば」うものだという堀部の論理は、第三者からすれば明快である。
 これに対し、大石は「元之趣意を立」てる、即ち開城時の論理に従って行動すべきだという。自分たちが今こういう状態になっているのは何故か、そこを考えれば世間の批判も気にすることはない、と彼は言う。大石の立場に即して言えば、決死の覚悟を以て大学による浅野家名誉回復を願うかわりに開城したのである。ボールは幕府側にある。「能事は万に一つも有之間敷とは覚悟申候得共」そのボールが返ってこないうちに事を挙げることは、誰が何と言ってもできない。この論理は大石にとっては必然であるが、他の人間にとって必ずしも解りやすいものではない。大石は自分の考え方が堀部に十分通じないのは筆談で意を尽くせないためだと思っていたようだが、文通という制約が両者の乖離を大きくしたという側面はあるとしても、それだけではない。一藩の代表として開城=降参という屈辱を体験した大石から見れば、堀部の言い分は「我意」「私」に過ぎないのだが、大石と立場を共有できる者は必ずしも多くない。後人も大石の本当の主張に十分理解を示してきたとは言えないのである(大石が浅野家再興に力を入れそれができなかったので敵討に踏み切ったという図式を、最も明瞭に示して影響が大きかったのは、やはり室鳩巣『赤穂義人録』であろう。『義人録』が名著であることは疑いないが、鳩巣は自分の理想を大石に投影する癖があるので、注意を要する)。

ただし、それでは堀部の方が優勢になるかというと、そうでもない。この一党はあくまでも大石に誓紙を提出して、大石の下に集まったものである。堀部は大石を説得しようとして成功せず、さりとて大石の方針に納得もしないまま、従って行かざるを得なかった。この後、原惣右衛門らいわゆる上方急進派と連携を深めていくことになるが、その経緯の検討は本稿の課題を超えるであろう。重要なことは、大学の閉門赦免まで一挙は動き出さなかった、という事実である。

むすびに

 一般的に言って、「閉門」という処罰はさほど長期にわたるものではない。一年四ヶ月に及んだのは、大石にとっては予想外のことだったろう。しかし、「いつにても御免之節、首尾能人前も被成候様に御面目も在之候段、願申」していた大石にとっては、待つしかなかった。閉門御免の節、牢人となって浅野本家に預けられる(この預けが刑罰でなかったことは前述の通り)という処分が「人前」の成るものでなかったことは言うまでもない。この時点で大石は吉良を討つ大義名分を得た。大石の論理ではもう他の選択肢はない。いよいよ「敵討」に向かうことになるが、皮肉なことに、開城時から行動を共にしていた奥野将監・小山源五左衛門・進藤源四郎ら大石の親類でもある重臣が脱盟していく。大石の論理を正しく理解し、これを行動まで結びつけることのできた同志は、必ずしも多くはなかったのである。
 大石の論理は、幕藩制の根幹に関わるものであったかも知れない。将軍を頂点とする軍団に組織されたのが近世国家である。その軍団の秩序を維持するために私闘は禁止され、それを保障するのが喧嘩両成敗法であるが、武士の戦闘者としての体面を維持するために例外的に敵討という私闘は認められていた。浅野の刃傷が喧嘩=私闘にあたるかどうか、議論の分かれるところではあるが、少なくとも大石は私闘と位置づけた。私闘を禁止する以上、裁定を公平に行うのは幕府の責任である。大石は、これを幕藩制秩序と矛盾しない範囲で主張しなければならなかった。それが閉門赦免の節の「人前」要求であり、それがならないという前提のもとでの「敵討」行動だった訳である。後人の理解(誤解)の状況から考えれば、そこまで気にしなくともよかったのではないかという疑念は残る。しかし、それはむしろ物語としての「忠臣蔵」との関わり合いの問題になろう。事件渦中の大石としては、自分の納得する行動しかとれなかったのである。