大石内蔵助の真意…敵討と御家再興

田中光郎
本稿の内容は、その後の論考と重複するところも多く、また内容的に訂正を要する箇所もある。ただ、全体的な見通しを示したものであり、他の考証の出発点となったものでもあるので、ほとんど修正せずに再掲した。個々の論点については、関連する別稿を参照されたい。(2000年1月記)
これまでとかく「忠臣蔵」事件の記述は、当初から吉良上野介への復仇という歴史摂理のごときものがあって、赤穂家中の混乱や動揺、いわゆる「不義士」の逃亡や脱落は、すべて、結合の前の分離であったかのように書かれているが、事実そんなことはない。大石内蔵助はある時点まで決して本心を見せていないが、それとても終始一定不変の「本心」があったとは思えない。大石の心情は揺れ動いていた。もっと正確には、いくつかの、そして何段階かのオプションがあって、その分だけ決意の幅があったのである。吉良邸討入りは当初からの計画にはなかった。手段がそれしかないまでに狭められていった結果なのである。最初は敵討ちどころではなかった。(『忠臣蔵』ちくま新書83頁)

 野口武彦氏は、赤穂事件についてこのように述べている。前半はなかなか重要かつ痛切な指摘であると思う。たしかに、結末を知っているからこそ、すべてがそこに向かって動いていたかのような錯覚にとらわれやすい。現実の物事の進行がそのようなものでないことは、経験的に知っているはずなのに、ついついそういう説明をしてしまうのは、歴史家の悪い癖なのだろう。大いに自戒すべきではある。しかしながら、それでは赤穂事件について、野口氏の言い分が百パーセント正しいかというと、どうもそうではなさそうである。
 なるほど、最初から敵討ち一本であったというのは、大石がある時点までは御家再興運動に熱中しているという事実経過から考えて無理がある。しかし、それを揺れ動いていたためとするのはどうだろう。尾藤正英氏は「大石の考えでは、浅野家再興と吉良邸討入りとは、相互に矛盾するものではなく、武士としての『一分』や『面目』を守るという意味で、同一の目標を追求することであった」(『元禄時代』小学館日本の歴史19、312頁)と指摘している。この線で考えるなら、心情の動揺ではなく、情勢に応じた対応の変化だと見ることができるはずである。史実の解釈に相違が現われたら、史料にもどって考えるしかあるまい。

(1)嘆願書の2つのテキスト

        まず検討するのは、元禄14年3月29日、大石が多川九左衛門・月岡治右衛門に持たせた幕府目付への嘆願書である。周知のように、これには2系統のテキストがある。

A 此度内匠儀、不慮不調法之儀ニ付、切腹被仰付候。因茲城地被召上候之段、家中之者共奉畏候。当日之次第、江戸ニ罷有候年寄共鈴木源五右衛門様被仰渡候趣、其以後土屋相模守様ニ而戸田采女正殿・浅野美濃守へ被仰渡候次第、奉承知迄ニ御座候故、相手上野介様御卒去之上、、内匠切腹被仰付儀と奉存罷有候処、追而御沙汰承候処、上野介様御卒去無之段承知仕候。家中之侍共ハ不忽之者共、一筋ニ主人壹人を存知、御法式之儀ヲも不存、相手方無恙段承之、城地離散仕候儀を歎申候。年寄共了簡を以難申定候間、不顧憚申上候。上野介様へ御仕置奉願と申儀ニてハ無之候。御両所様御働を以、家中納得可仕筋御立被下候ハゝ、難有可奉存候。当地御上着之上言上仕候而ハ城御請取被成候滞ニも罷成候処如何奉存、只今言上仕候。已上。 (『岡島常樹覚書』=『赤穂義士史料』上、66〜67頁)
B 此度内匠頭不調法仕候に付、御法式之通被仰付候段、奉畏候。然れ共、上野介殿御存生之由承伝候。左候得ば当城離散仕、何方へ面を向可申様無御座候。此段家中一同之存念に御座候付、色々教訓仕候得共、田舎者にて御座候得ば、不通に承引不仕候。乍去若離散仕、安心可仕筋に御座候はゞ、各別之儀に御座候。奉対上毛頭御恨ケ間敷所存無御座候得共、於当城餓死可仕覚悟御座候。此段申上候。 (『堀部武庸筆記』=『近世武家思想』岩波日本思想体系、182〜83頁)

 さて、この2種の内どちらが原文に近いのであろうか。岡島八十右衛門も堀部安兵衛も討ち入りに参加した同志であるが、この時期に赤穂城にあって藩札の処理にあたった岡島の方が、江戸にいた堀部よりも確実な情報を持っていたであろう。多川・月岡両使が江戸についたのは4月4日、堀部らは翌日江戸を立って赤穂に向かっているから、この嘆願書の趣旨を知っていたかも知れないが、江戸家老は情報を秘匿していた(『武庸筆記』187頁)から原文は見ていないだろう。 「当城離散仕、何方へ面を向可申様無御座候」という表現は、赤穂についてからの堀部らの発言として繰り返し記録されている(同187・188頁)から、これは大石ではなく堀部安兵衛の言葉であると思われる。つまりB系統は堀部安兵衛による要約であり、A系統とのニュアンスの違いは大石と堀部の微妙なズレを反映していると考えられるのである。
 もちろん、大まかにいえば同趣旨であることは間違いない。しかし、堀部の方が「相当カゲキ」ではある(野口氏前掲書92頁)。Aでは篭城を示す文言はなく「滞」という表現にとどめてあるが、Bの「餓死仕るべき覚悟」は抗戦の意思表示である。野口氏の言うとおりこの段階では既に篭城する可能性はなかったと思われる。大石の真意は「家中納得仕るべき筋」を立ててくれということにあり、「上野介様へ御仕置願ひ奉ると申儀にてはこれ無く候」とはいうものの実際には「大いに願いたてまつっているのだ」(海音寺潮五郎『赤穂義士』講談社文庫80頁)と考えられる。このあたり、嘆願書の趣旨を理解するためには、その成立の事情を復習しておく必要がありそうである。

(2)嘆願書提出まで

 浅野長矩が刃傷に及んだのは3月14日のことであるが、赤穂に兇変の知らせが行くのは同19日のことである。それと同時に藩札の処理が舎弟大学から命ぜられ、その通りに実施されている点から考えて、当初はすんなり物事を運ぶ予定だったであろう。しかしそれは嘆願書にある通り、吉良が死んでいるという推定のもとである。どうもそうでないらしいという話が伝わって、事態は複雑になってくる。
 吉良が死んだのなら処分は当然だが、生きているなら納得できないということは、江戸の堀部安兵衛らも同様の考え方をしており(『武庸筆記』186頁 )、当時の武士にとってはある程度当然の感覚であったと思われる。だからこそ、江戸家老らも意図的に情報を隠蔽していたのであろう。

 赤穂の城中会議は、不確実な情報の中で混迷をきわめた。藩の意思を決定する二人の家老、大石内蔵助と大野九郎兵衛との間で意見の対立があった。従来ともすれば大石を英雄視するあまり、大野を小人物のように扱いがちであるが、中々そうではない。少なくとも藩政の主導権をめぐって虚々実々の権力闘争を展開し、途中までは大石以上の政治力を発揮しているのである。
 両者の意見の違いは、今更いうまでもなかろう。大野は無事開城して大学の取り立てを図ろうとし、大石はむざむざ開城できないので切腹しようというのだ。公平を期すためにいうなら大石の意見は感情論にすぎないが、城内の意見は武士としては「正論」である大石派に有利であった。原惣右衛門が大野らを一喝して退席させたという逸話はそのあたりを物語っているだろう。そこで大野は実弟の伊藤五右衛門を吉良の生死情報確認のためと称して(『江赤』などにはその趣旨であると書かれている)三次浅野家に送り、城中の情報を洩らして(『浅野綱長伝』所収の書状、『赤穂義士史料』中564・570頁)自派の後押しをさせようとしている。結局これが功を奏して、事態は九郎兵衛の思惑通りに進んでいく。
 伊藤五右衛門が赤穂を発つのが3月25日の夜で、戻って来るのが4月1日。この間も吉良の生死の確認のためにあれこれ手を尽くしているが、どの段階でまたどういう経路で確認できたかは判然としない。恐らくは3月28日に江戸から着いた戸田源五兵衛一行からではないかと思われるが、明証はない。ともかく、3月29日までには何らかの方法で吉良が存命であると確信し、嘆願書を認めて多川・月岡を派遣したのである。

 この段階では大石派と大野派の争いが続いている訳だが、この嘆願書が大石派の主導でしたためられたことはほぼ間違いあるまい。大石の主張は、吉良が生きているのに城を明渡すのは残念だが、といって幕府に弓を引くわけにもいかないので切腹しよう、ということである。なにも切腹すること自体が目的ではない訳で、「家中納得仕るべき筋」さえ立てばよいのである。「家中の侍共は不忽の者共」で「年寄共了簡を以て申定め難」いというのはもちろん修辞であって、「年寄」の大石がまさに「不忽の者」の代表として行動しているのではある。しかし、大野の立場はまさにこの嘆願書にいう「年寄」であり、その意味では全く嘘のない、実に正直な嘆願書なのだ。

(3)大野九郎兵衛の逃亡

 その上で、問題になるのが上述の通り「上野介様へ御仕置願ひ奉ると申儀にてはこれ無く候」とはいうものの実際には「大いに願いたてまつっている」点である。しかし、その点についての詮索はしばらく後回しにしておこう。

 3月下旬から4月上旬にかけて、浅野本家・三次浅野家・戸田氏定家から使者がやってきて、無事に開城するように説得している。4月9日に着いた本家使者の覚書によれば、綱長の説諭を伝えられた大石は「当然の御請」はするけれども(つまり“聞きました”けれども)、多川・月岡の戻らないうちは、「聢と御請」はできない(つまり“わかりました”とは言えない)と返答している(『浅野綱長伝』所収、『赤穂義士史料』中575〜76頁)。嘆願書の返事を待って態度を決定しようというのだ。ある意味では官僚的な手続重視の発想であり、これが大石の基本的な姿勢である。
 大石らが期待を寄せていた嘆願使であるが、4月4日夜江戸についた時には荒木・榊原は出発した後(両目付の江戸発足は4月2日)だった。江戸家老の藤井又左衛門・安井彦右衛門を通じて、戸田氏定の指示を受け、結局何の使命も果たさぬまま4月11日に戻ってきたのである。
 これで材料は出そろった。戸田家はじめ主家親類からの圧力に抗することはできない。大石らは「此上は無是非候間、御城首尾能引渡可申。其上にて了簡も可有之儀」(『江赤』202頁)として、引き渡しの準備に入ることになる。4月12日には戸田家の説諭に従う旨の回答をしている。

 この間の経緯を政争として見れば、大野九郎兵衛の完全勝利である。ところが、その直後に大野は赤穂を逃げ出している。これが11日夜か12日夜かはっきりしないのだが、ともかくそのあたりである。『江赤』によれば札座奉行岡島八十右衛門とのトラブルが原因であるが、恐らくそれはきっかけに過ぎないであろう。大石派にして見れば大野の政治工作にしてやられた格好で、むざむざ城を明渡すのは忿懣やる方ない。血の気の多い者の中には大野を害せんとする者もないとは限らない。城中会議で大野を一喝した原惣右衛門の実弟岡島八十右衛門がそういう側にあったとしても不思議はない。で、身の危険を感じた大野九郎兵衛が逐電する。筋書としては自然である。
 しかし、さらに一歩を進めてみよう。直接の証拠はないが、これを大石によるクーデターと見ることは可能ではないか。状況証拠なら挙げられる。もう少し後だが、受城使の脇坂家に家蔵の大砲を売却した萩原兄弟が、血気盛んな連中の血祭にあげられそうになっているのを知った大石が彼等を逃がしたという事件がある。この話を『江赤』が大野逃亡の記事に続けて書いているのはすこぶる暗示的である。大石が大野の家財などについて温情ある配慮をしたことが知られているが、意図的に(あるいはおためごかしで)逃げさせたとすれば当然のことのように思われる。そして、大野の逃亡後は大石は唯一の家老として行動できたのであり、両目付への嘆願を邪魔する者はなかった。「もし」は歴史にないのではあるが、もし大野が家老として城に残っていたなら、事情は変っていたかも知れない。大野を排除するのは、大石にとっては好都合だったはずである。

(4)堀部安兵衛らの到着

 ともかくも、大石は4月12日以降は城明渡しの準備に入る。江戸から堀部安兵衛・奥田兵左衛門(孫大夫)・高田郡兵衛がやって来るのはその後、4月14日のことである。
 『武庸筆記』によれば、安兵衛らは当初吉良が死んだと思って騒動を鎮める側にいたが、存命であることを知って、吉良の屋敷に切り込むことを考えた。これは割合重要なことで、吉良邸討ち入りは選択肢として十分考えられるものだったことを意味している。ただし同意者はなく、赤穂に行って一緒に篭城するか(もっとも赤穂の方に篭城の可能性はなかったのだが)、討ち入りの同志を募るか、と考えていた。そうこうする内に4月4日の多川・月岡の江戸着である。江戸家老らは嘆願書の内容を知らせなかったが、恐らく噂である程度広まったのであろう。堀部らは赤穂に行けば、少なくともむざむざ開城したくないと考えている人間はいることを知った。もっとも『武庸筆記』には多川・月岡が着いたことと自分たちの行動を結びつけて書いてはいないので、因果関係を断定するのは躊躇われる。

      

 赤穂に着いた3人は大石を訪ね所信を述べる。ここでの3人の主張は城を枕に討死という篭城説である。それに対して大石は「此度之篭城相止、大学殿一分立候様に可罷成歟、安否之程暫く可見届儀」と述べている(『武庸筆記』188頁)。納得しがたい3人は物頭連中に相談するが「大学殿一面目も有之、人前も罷成候様不被仰付候はゞ是切に不可限、已後含も有之」(同)ということで大石に同意していた。そこで彼等も大石に従うことにする。大石はじめ一同の共同認識として、城は明渡すが浅野家の面目(一分)が立つようでなければ、後の含みがある、と考えられているのである。後の含みとしてはもう討ち入りしか考えられまい。つまり、少なくとも開城の段階からは、事態の進行によっては敵討も当然ありうる事になっていたのである。
 そして、それは吉良の処分問題ともからんでくる。「家中納得仕るべき筋」は、「大学殿一分立候様」とか「人前罷成候様」という、より具体的な表現をとってきている。しかし、どうすれば浅野大学の一分は立つだろうか。

(5)いわゆる「御家再興運動」について

 大石の行った「御家再興運動」は単に浅野家再興を目指すものでなく、浅野家の面目を守ることを目的としている。だから、4月18日荒木・榊原の両使に浅野家再興を願った時にも「大学蒙御免、面目も御座候て人前をも相勤、快く御奉公をも申上候様」にと述べている(『江赤』212〜3頁)。その後の再興運動でも、その趣旨は変らない。煩瑣のようだが、大事な事なのでいくつか証拠を挙げておこう。

1 上野介殿御事、御役儀等御免之由承及候得共、存生ニて其侭被有之候得ハ、大学殿閉門御免之期、難計奉存候。閉門限有テ御免を蒙候共、何之品も無之候得而ハ、勤難成儀奉存候。就夫家中之者共ハ、閉門御免之時節ヲ考罷有儀御座候。…大学殿被罷出候上、面目も有之様に仕度奉願儀ニ御座候。(『岡島常樹覚書』史料上67頁)

 大石の意を受けた原惣右衛門らが浅野長澄・綱長に提出した嘆願書である。なお、これをめぐる事情は『江赤』に見える(229〜30頁)。そして、原の行動を妨害しようとした大野九郎兵衛の書状も見え、両派の対立の根深さを伺わせる。

2 何とぞ於江戸御役人中様方え手を求、大学閉門蒙御免候上、人前も宜敷相勤候様に仕度候。(5月12日大石内蔵助の普門院宛書状、『江赤』232〜3頁)

 これは京都普門院に再興運動への協力を依頼しようとした書状である。結局相手に届かなかったが、大石の本心だと考えてよいだろう。

3 大学様御安否之儀、赤穂にても申候通、御閉門急に御赦免乞願候事にては毛頭無之候。いつにても御免之節、首尾能人前も被成候様に御面目も在之候段、願申儀に御座候。何様の品にても、吉良氏勤役にて大学様と御ならべ置候ては、大学様人前不成事に候。此所迄存考、御目付中様へも人前罷成候様にと申上たる事にて候。こゝは少六ケ敷事に候へ共、大体右之通に無之ては、大学様いか程結構に御成候ても無詮、人前之不成事に候。雖然、吉良父子急度被仰付被下候様に奉願にても無之。其上急度被仰付候事は今更不罷成事に候。此段も考、了簡仕候。只出勤も無之様に、扨大学様も御赦免候へば、人前交りも成申面目に候。ならび候て御勤に候ては、人前不成と申にて候。…如何成申事に候へ共、吉良殿無恙所は、大学様御安否次第と存候。 (7月22日大石の遠林寺祐海宛書状、『日本史蹟赤穂義士』146頁)

 これは再興運動に協力する祐海に色々と運動方法などを伝えた書状の一部である。「面目」「人前」を問題にしているのはこれまでと同じだが、吉良の処分問題にもかなり具体的に考え方を示している。「急度仰せ付けられ候事」すなわち切腹などの重い処罰は無理としても、吉良と大学が並んで勤めることはありえないのだから、彼を退けなければ「面目」「一分」は立たない道理である。

 大石の「御家再興運動」なるものがどういう性格を持っていたかは明らかであろう。既に分家して旗本となっていた浅野大学は、その身分のまま閉門処分を受けていた。閉門は長く続くものでなく、それが終了した時に赤穂浅野家の継嗣としての大学長広がどうなるか、大石はそこに注目していた。そしてその次第によっては吉良をつつがなく存在はさせないという決意を、確かに持っていたのである。

      

(6)堀部安兵衛とのやり取り

 大石に計算違いがあったとすれば、大学の閉門赦免までの時間が長すぎたことであろう。しびれを切らせた堀部安兵衛らはしきりに早急な決心を促すのだが、大石は動かない。この間のやり取りが『武庸筆記』に見られ、大変興味深いのではあるが、ここまでの議論を覆すような考え方は示されていない。
 江戸に戻った堀部らは、すぐにも行動を起こしたいという動きを示すのだが、大石はそれは赤穂での合意事項とは違うとつっぱねている。「大学殿御安否の様子次第、存念可申談覚悟に御座候。御安否承り不届内には、何様之存念有之候共、御為宜様にと幾重にも心底を尽し可申候」(14年7月13日付、『武庸筆記』199頁)という趣旨での説得は何度も繰り返される。堀部らはそれで満足しないのだが、大石の意思は固い。12月には吉良が隠居する。堀部らはこれで吉良の処分は有りえず、大石はじめ一同の開城時の考えは吉良の処罰がなければ「前後不被顧時節、欝憤散申存念」(同筆記213頁)だったのだから、すぐにも行動に出るべきだと主張した。しかし大石は、堀部らの言い分を一応は認めながらも慎重な対応を求めている(12月25日付、同筆記220頁)。さらに、原惣右衛門・大高源五らが大学による御家再興後はかえって事を起こしづらいというのに対しては「縱いか程に高祿に御取立候共、先方之事、何卒木挽町(大学)之御面目にも成、人前も被成能程之品に於無之は、迚穢たる御名蹟を立置候半よりは、打つぶし申段本望」と語っている(15年2月3日付大高書状、武庸筆記244頁)

 このあたり、大石与党と堀部ら江戸急進派、それに原・大高ら上方急進派の動きについてはなお研究の余地があるが、当面の課題ではない。大石の真意は明白だろう。先にも書いたように、大石は官僚的に手続きを重視する。自分らの嘆願がどうなったか、大学の閉門が赦される時に浅野家はどうなるか。それを見届けなければ次の行動には移らないと言っているだけで、決して動揺してはいない。主張は一貫しているのである。
 嘆願の結果がどうであったか、今更いうまでもなかろうが、元禄15年7月18日、大学は閉門を許されたものの本家預りの身となる。罪人としてではなく、浪人した訳で生活に困るだろうからの本家預けである。再興はならなかったので、まして「面目」や「一分」の立つ状態ではない。「御家再興」自体が目的なら、まだまだ粘り強い運動は可能であろう。しかし手続きとしては締切になってしまった。あとは敵討ちあるのみである。

(7)復讐と相続

 ここまで述べたことと重複するが、いくつかの点について整理しておきたい。
 第一に、吉良が死んだのなら浅野家の処分は当然だが、生きているなら唯々諾々と従ってはいられないという感覚である。いわゆる「喧嘩両成敗法」との関係で問題になるところではあろうが、こむずかしい理屈はさておいて、当時の武士の感覚としてそうだったということである。
 第二に、堀部らがすぐに考えたように、吉良邸に切り込む(討ち入る)というのは、当然の選択肢の中に入っているということである。よく知られている通り吉良は浅野の敵ではないという議論があるが、そんな理屈の入り込む余地のないほど単純に、武士としての行動パターンとしてはあり得ることだったのである。
 第三に、浅野大学が吉良と一緒に勤めていては面目が立たない、という考え方である。父の敵は倶に天を戴かず、というような教養が先行しているのではあるまい。これも、理屈よりは感覚に近い部分であろう。
 こういった感覚が、この事件の根底にある。この事件を「敵討としては異例な性格をおびており、むしろ長矩によって始められた私闘の継続とみたほうが、事態の真相に適合している」と喝破したのは尾藤正英氏である(前掲書312頁)。卓見であるが、さらに進んで敵討ち全般について同様の、「闘争の相続」という性格を認めることはできないだろうか。

 敵討ちの定義が、AがBに殺された後、Aの子(または妻・弟・孫・家臣など)がBを殺す、ということに限定されているのは、いわば法律上のことであって、武士社会に生きているルールは必ずしもそうではない。「諸国敵討」を集めた『武道伝来記』のうち、先の定義にあてはまらないものも少なくない。しかし闘争の継承と考えれば、例外はない。多分、死者にかわって戦うことが、江戸時代に生きている「敵討」の概念なのである。
 武士の意地、戦闘者としての名誉にかけて、闘争は継続されなければならない。これは恐らく相続の問題と連動する。よくあるような、父が殺された後、子は浪人して敵を討つために諸国を歩き、首尾よく敵を討ち取ると帰参がかなう、というケースを考えてみよう。殺されるということは戦闘者としての能力に欠ける点があったことを意味し、復讐に成功するということはその能力が十分であることを立証したことになる。敗北によって失った名誉を回復することによって、武士の家の相続は可能になる。
 逆に言えば、当然討つべき敵を討たなければ、武士社会では生きていけない。浅野大学がもし赦免になったとしても、吉良と一緒に城中の勤めはできないのだ。法的にはともかく、社会的には吉良は大学にとって敵なのである。

 羽柴秀吉が織田家の後継者の地位をしめたのは何故か。主君信長の「敵討」に成功したという実績ではなかったか。もちろん事情は単純ではないが、そのことが当時の武士社会で大きな評価を得たのは確かだろう。秀吉は織田家を相続した訳ではないが、信長の戦いを相続したのである。
 大学の処分が決定し、浅野家の存続は認められなかった。法的な家の相続が叶わない時点で、自力で闘争だけでも相続する。これが大石のとった行動だった。大石もまた浅野家を相続した訳ではないが、長矩の戦いを相続したのである。その戦いの原因が何だったのかも知らないまま闘争を相続し、これを完結せしめたのである。