大学時代に学校であまり勉強をした覚えがない。殆どが相対性理論の本を読んでいた。試験前には友人のノートを見せてもらう。調子の良い男だった。
 もう一件恥ずかしい話だが、仕送りのお金もままならぬ状況に陥って二年生のとき休学してアルバイトを1年間やって書籍代にした。だから僕は五年間でやっと卒業したのだ。
 このアルバイトは東京電力銀座支社だったが、私の人生で社会的に大きく成長した時期でもあったと思っている。上司の言うことはてきぱきと実行し、オートバイ(自動二輪)の免許を取ることも勧められた。すぐ免許は取れた。鮫洲試験場だった。
 電柱を建てたり、道路を掘り起こすには、その許可を警察署の道路保安課に届けないといけないのだが、その図面などを書いた書類を管轄署に持って行き、許可のハンコを貰う仕事を初めはやっていた。その時にオートバイを使用していた。
 
 が、ある日事故を起こしてしまった。相手はいかにも都会風の黎明婦人だった。ちょっとハンドルが引っ掛かって転んだ程度で、かすり傷もなく洋服が汚れた程度であったので、すぐ抱き起こし、東京電力でアルバイトをしている苦学生であることを告げて、銀座支社であることや所属科を書いたメモを渡した。東京電力の作業服を着ていたので、身分はすぐ分かる。
 大きな事故ではなかったから良かったのだが、もし、この婦人がクセのある人で、ギャーギャーと騒ぐ “魂胆のある” 人だったら、この程度でも、すぐ110番〜パトカーだっただろう。そして、この苦学生は告訴されて前科アリと記録され、アルバイトも即刻クビになり、一生暗い人生を背負うことになる。婦人には慰謝料など大金が転び込む。このシナリオは平成であろうと、令和であろうと現代社会の特徴の一端である。
 以下、時代の変化(空気)も読んで欲しい。
 
 この時、ご婦人は「明日でいいから、私の家に来なさい」といって、名刺のようなものをくれた。<のようなもの>というのは、何かのグループ名らしきものだったので、よく覚えてないのだ。
 会社に戻り、係長に事故の話をして、丁寧に謝った。係長は「分かった、あした一緒に行こう」と言って、婦人の家に電話をし、時間を決めた。この係長も、今から思えば立派な人だ。僕の事故についてくどくどと文句を言わなかった。本社員ならひと言くらいは「注意しろ!」と言ったのかも知れないが、僕には何も言わなかった。係長自身の責任だと認識したのかも知れない。頭が下がる。
 次の日、指定された時間に婦人の家に行ったが、婦人は出て来ないで旦那様らしき人が出てきた。「上がってくれ」と応接間に通された。係長は丁寧に詫びの挨拶をして、手土産を渡した。僕も「すみませんでした」と頭を下げた。
 すると、おもむろに「私の目を見なさい」と、太く低い声で言われたので、姿勢をただして、その人の顔を見た。いわば “拝顔” だ。
「君は美しい目をしている。今回の事故はなかったことにしよう」と、ゆっくりと、おごそかな声が響いた。僕はびっくりして返す言葉もなかった。
 あとで分かったことだが、昨日もらった名刺を係長に渡したとき、係長は<あ、これは今話題の新興宗教の何々だ>とすぐ分かったそうだ。
この<何々>が、どうも思い出せない。ただし思い出しても、ここに書いてよいかは別問題となる。
 このご主人は、その会長だそうである。話は、その宗教の布教の説教で終わり、一件落着となったが、初めてのアルバイトで大変な経験をしたものだ。
 
 次の日から自転車になったのは当然の成り行きだ。そして仕事も変わった。
当時は関東電気保安協会という会社はなく、すべて東京電力内で家庭の漏電検査や苦情を見に行く。苦情といっても大抵はヒューズが切れているくらいだが。
 銀座支社であることは先に述べたが、管轄は千代田区、中央区、港区の三区で、各家庭の漏電の検査をまかされた。大口のビル内の電源関連は正社員のベテランが回るが、家庭はアルバイト程度で十分な仕事である。もちろん東京電力の作業服を着ているので、それなりの責任を背負っている事はいうまでもない。
 当時は現在のようなブレーカー方式ではなく、単純なヒューズ式である。陶器でできた小さい箱型のボックスの蓋を開けると、家庭内のすべての電気が消える。その状態でメガーという測定器で、どのくらいの絶縁になっているかを測定する。何MΩ以上ならOKとなり、戸別カードにハンコを貰って次の家に行く。
 これだけの仕事だが、物には順序というものがある。洗濯機を回しているとき、電源を切ったのではサマにならない。猛烈に怒られる。当時TVも普及してきて(普及率7〜10%くらいかな)、TVの観賞中であることもある。これらを確かめるため、必ず「おウチの電気がすべて消えますが、よろしいですか?15秒ほどです」とお断りする。ダメだと言われたら、時間を指定されて、もう一度訪問しなければいけない。こういう苦労は日常茶飯事。しかし苦労とは思わなかった。仕事だから。ほかにも苦労はある。それは自分チのヒューズボックスがどこにあるかを知らない人も多い。大抵は玄関から入ったら、すぐ上、台所、洗面室などであるが、大邸宅では探すのに時間がかかる。
 なお、「ヒューズボックスは天井に近い、上の方にあるだろう、小さい “脚立(きゃたつ)” みたいなものを持ち歩くのか?」という御仁もおられるだろうが、当時のヒューズボックスは便利にできている。引っ掛ける輪っかが付いていて、測定棒が長くて、それで引っ掛けて蓋を開ける。測定が終わったら、再び、その測定棒で蓋をギュッと押して閉める。これだけの作業があるので、平均15秒はかかるわけだ。
 一年間春夏秋冬やったので、いろんな事があったのを懐かしく思い出す。暑い夏の日「ご苦労さんだねエ」と冷たい水やジュースをくれたり、寒い寒い冬、「寒いところをご苦労さん」と言って暖かい甘酒やお茶の一杯をくれる。どれほど美味しかったか。目に涙が滲んだこともあった。100円くれたおウチもあった。当時としては大金である。ラーメン一杯が60円程だった頃だから。
 逆もある。玄関から入ろうとすると、「裏口から入れ!」と怒鳴られた事もある。長ーい塀をぐるーっと回って行く。
 
 とても気の毒な思い出もある。千代田区だった。庭の広い大豪邸、若奥様で非常に綺麗な美人であったが、顔の右半分にぐるぐる巻きの包帯をしているのだ。思わず「どうなさったんですか?」と聞いてしまった。「お台所の湯沸かし器を点火した途端に爆発して耳の辺りを大やけどしたの」と可愛い声で応えてくれた。僕と同じくらいのお歳なら現在八十過ぎだ。お元気だろうか。・・・
 
 ある日、仕事が終わって夕方、くたくたになって文京区の四畳半ひと間のアパートに帰る途中、住宅が建ち並ぶ狭い路地にある一軒の家の前を通りかかった時、中から聞こえてきた女の子とお母さんの声。「ママ、牛乳ある?」「あるわよ、冷蔵庫のなか」「はーい」。たったこれだけの会話がどれほど僕の心に響いたか。どーっと涙が出て来て「いつかきっと!、いつかきっと僕も、こんな幸せな会話のある家庭を持ちたい」と思ったことか。・・・長くは語るまい。この日が僕の原点だったのだ。
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 このアルバイト中に1日だけ休暇をもらった事がある。母から親戚に当たる菱川万三郎さん( “さん” と呼ぶにはおそれ多い。東京大学航空力学の教授で博士だったから)が、東大から僕の母校東京電機大学に移っていたので、挨拶に行きなさい、と言われた時、ご自宅の目黒区・柿の木坂に行ったことがある。12畳ほどある立派な書斎にびっしりと、専門書があった。圧倒されて目を見張るばかりであった。何を話したか全然覚えていない。そして大学では一度お会いしただけだ。別世界のお人だったからだと思う。
 三度目にお会いしたのは僕が33歳の時、お亡くなりになって葬儀に行ったときだ。香典を持参して行ったら、ご家族が丁寧に博士の書斎に連れてきて「ここでお待ちください」と言われた。84歳だったとも聞いた。
 葬儀に参列した人々は殆ど東京大学関連の偉い人ばかりだった。東京電機大学の教授連もいたが、僕は一人後ろの方でひっそりと立っていただけだ。
 この菱川万三郎博士は戦艦大和の主砲の設計者の一人であった。何人の専門家で設計したのか知る由もないが、とにかく、かの有名な戦艦大和の主砲を設計した人ということだけで、身震いをした。戦艦大和の話はひと言も聞いたことはなかった。葬儀のとき周りにいた東京大学教授連の方々が話をしているのを聞いて、初めて知ったのだった。
 この記事を書いている際ネットで調べたら<昭和15年の海軍辞令公報に呉海軍工廠砲熕部長海軍造兵少将 菱川万三郎>と載っていた。昭和15年といえば僕の生まれた年だ。
 のちに、郷里に電話をして訊いたら「そうじゃよ」と教えてくれた。更に後々の話であるが、なぜ教えてくれなかったのかと問うた事があった。「戦争に関わることだから」とのことだった。・・・・・二十年ほど前だったか、父母の法事で親戚一同が集まったとき、従兄弟の一人が「菱川のおじさんは呉の造船所に出入りする時、多くの部下を従えて “敬礼” 一つで出入りしていたんだよ」と話した事がある。その時はお酒も回っていたため、ピンとこなかったが、無関係ではないと思われる奇異な思い出がある。中学生だったか父母が留守の時、ウチの屋根裏部屋の倉庫を物色(?)していたら、奥の方の古い箪笥の中に、もの凄く立派な飾りの付いた “サーベル” があったのを発見したことがある。なぜ、貧乏だったウチに、あんな立派なサーベルがあったのだろうか。
 そのまま元に戻して階下に降りた。のちに親に聞くことはしなかったし、見たことも言わなかった。見てはいけない物を見てしまった、という思いだった。
 小学校1年生のとき、“兎のえさ盗み未遂事件” があった事を冒頭の §2で書いたが、そのとき、母に、“お仕置き” で、この屋根裏に閉じ込められた所である。
 “万年筆” を思い出した。県立西大寺高校に合格したとき、<おめでとう>とパイロットの高級万年筆customを贈ってくれたのが菱川のおじさんだった。現在もある!大切に持っている !
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 大学では殆ど勉強しなかったことを冒頭で述べたが、母が口癖のように「教員の免許状だけは必ず取っておきなさい」と言っていたのを思い出した。
 事務室に行き、成績表を交付してもらったついでに、「この成績で東京都の教員免許状が発行されるでしょうか」と尋ねてみた。優、良、可がバラバラにある成績だ。「ちょっと待って下さい」と言って規定の書いてある書類と僕の成績表を見比べていたが、「体育の単位が取れてないですね。これではダメです」との返事だ。ガーン。
<そういえば体育の授業出てなかったなア>。「どうすればいいでしょうか」と、ワケのわからない事を口走ったのを覚えている。そうすると別の事務職員の女の人が「体育は瀬野先生でしたね。先生に相談してみてください」と言う。<オッ、望みはあるかも>。「有難うございました」と礼を言って、一目散に瀬野先生のところにすっ飛んで行った。ちょうど、居(お)られたので、お願いをしてみた。
「君みたいのがおるから困るんだ」と笑いながら「いいだろう、夏休みに合宿で伊豆の戸田湾で水泳のテストをする、もう一つ6千mの遠泳もする、それに合格したら単位をやろう」。
<やったー!水泳はお手の物だ、ただ6000m も?>、ちょっと困惑したが、「宜しくお願いします。合宿の参加名簿に追加お願いします」と頭を下げた。
 合宿は総勢十五人ほどだったが、実際に単位取得のために来たのは十人ほどで、あと数名は明日の遠泳の際、ボート二台で6000mを誘導する前方斑と、脱落者を引き上げる係りの後方斑ボートに乗る学生だった。
 初めの泳ぎテストは、自分の好きな泳ぎでやればいい。僕はクロールだ。猛スピードで皆を離した。初日はこれだけで、あとは遊んでおればいいとなっていた。翌日いよいよ6000mの遠泳だ。
 初めは<何だこれくらい>とタカをくくっていたが段々ときびしくなってきた。足が引きつって思うように動かない。
<やばいナ>と思いつつ必死で立ち泳ぎも使いながらボートに付いていった。・・・
 やがて「ターンする、戻る方向だ、がんばれ!」と、メガホンで泳いでいる学生一人一人に叫ぶ。<よし、ここまできたら、やるしかない>、気力はあるが、体が動かないのだ。自分だけではない、泳いでいる全員のスピードが落ちてきた。なおも「がんばれ!もう少しだ!」とメガホンの声が聞こえるが、<もう限界かも知れない>と思ったとき、一人の脱落者が出た。船に引き上げられているのを見た。
<自分はあーはなりたくない>、本当に必死だった。<この苦しみを乗り越えないと単位をもらえない!>
・・・やっと砂浜に着いた。みんな砂浜にバタンと倒れている。自分もだ。普段鍛えているアスリートたちは、このくらい平気なんだろうが、僕たちは普段は机に向かっているだけの、いわば都会のお坊っちゃんだ。メガホンは一人一人に「よく頑張った!」と声をかけていた。
 おかげで東京都の教員免許状が卒業式にもらえた。東京都知事 東 竜太郎 と捺印のある証書だ。