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 二年生が終わり、三年生になる春休みに僕の一生を左右する話が持ち上がる。この児童が書いたメモを大切に母は箪笥の奥にしまっていた。
 18歳高校卒業して上京する際、母はそれを見せてくれた。ノートの切れ端である。「ぼくわこれからまえわどんななるでしょう」、文書校正するとこうだ。「ぼくは、これから先は、どんなになるでしょう」
 二年生、三年生というと、ウチが最も貧困窮まる貧乏家庭だったときだ。当時は全国的に “口べらし” というのがあったのをご存知だろうか。兄が11歳、私は歳。歳下の弟が歳。窮地に瀕していた頃である。
 母が着物を売って、お米を買って来たのを知っている。卵個を自分は食べないでつに切って父と子供達の “おかず” に入れたのを知っている。畑では季節野菜をしっかり作っていた。魚が出ると大変なご馳走である。お肉は高学年になるまで食べたことはなかった。
 
 当時、遠い親戚で山田のおじさんと呼ばれている人がいた。山田というのは地名である。その人は小学校の校長先生で娘さんも嫁がれて、奥さんと二人だけの暮らしだったため、ぼくを引き取りたいと申し出てくれたのである。父母はおそらく悲痛な思いで話し合っただろう。
 上述した私のメモは、その頃書いたものだと、母が教えてくれた。結婚した時、これを見せてくれたと家内も言っている。
現在もタンスの奥に仕舞ってあるようだ。
 
 三年生になる春休みだった。ある日、山田のおじさんから「週間でいいからウチに泊まってくれないか」との誘いがあった。もし僕が引き取られて行く事になれば転校の関係で「三年生から」という事でスムーズに事が運ぶからだろう。
 母が「行く?」と言うので「うん」と返事をして、週間という話に乗った。
 おじさんの家の裏山からウグイスの声が聞こえたのを鮮明に覚えている。
 お家(ウチ)に入った途端に僕の人生は変わったと言って過言ではない。玄関を入るなり目に留まったのは本、本、本、書棚がずらっと並んでびっしりと本があるのだ。びっくりと言うより茫然とした。吉塔(きとう)のウチには父の学生時代の難しい本が何冊かあるだけで、子供用の本は冊もない。
 それから週間、おじさんの書斎に入り浸りで、夢中で読める本を読みまくった。これらの本は娘さんに子供の頃買ったものである。
「外で遊んできなさい」と何度も言われたが、「いいです、ここで本を読みたい」と、アンデルセン童話、イソップ物語、グリム童話、アラジンと魔法のランプ、少しくらい難しいものでもフリガナが付いているので読めるし、漢字を覚えてしまう。
<本って、こんなに楽しいものなのか>と、生まれて初めての体験だった。どの本を読んでも、物語の中に自分が入って行くのだ。
1980年代の始めだったか NeverEnding Story という映画がヒットした。まさにあの少年バスチアンだった。
この映画「NeverEnding Story」には “自分の本当の姿が写る鏡” が出てくる。私はどんな姿に写るだろうか。悪魔だろうか、彦星だろうか、真実を追究する目をした人間だろうか】
 
 あっという間の週間だった。「吉塔に帰るかい?」「うん」。優しくしてくれたおじさんに、わんぱく坊主が別れるとき、寂しくて泣けそうになったのは、今から思えば夢のようだ。そして、この週間の読書が後々の僕の人生を決めた。
 
 おじさんに連れられて吉塔に帰った時の母の優しい言葉「どうだった?」、「毎日、本を読んでいた」、「え?本を」、「うん」。会話はそれだけだったのを覚えている。
 ぼくがいなかった週間、随分と父母は話し合ったようだったが、 “口べらし” の話だったため、僕が引き取られて行くことは覚悟していた事を後々に僕に話したことがある。
 結局、ぼくは山田のおじさんの所には行かないことになった。僕としては行きたかった。児童三年生であっても家の貧困は身にしみて感じているが、そういう “口べらし” という大人の感覚での「行きたい」ではない。<本を読みたい、美味しいご馳走が毎日食べられる>、その程度の子供らしい理由であった。
 歳年上の兄が強く反対したから行かない事になったそうであるが、だからといって兄を憎んではいない。現在の私を鑑みれば、やはり、どんなに貧しくても家族は一緒の方が良い。自由奔放に育った私に悔いはない。
 
 その後、山田のおじさんは小学館の月刊雑誌「小学三年生」、・・・「小学六年生」と贈り続けてくれた。毎月の付録も楽しかった。思い起こせば、この付録がぼくの “物作り” の手腕を養っていったのではないかと感謝している。