親戚から「・・・たかしちゃんの記述は若干時系列が違うよ。太平洋戦争は人々の心を打ちのめしたからね」との書き出しで「大阪から吉塔に戻って来たのは昭和20年ではなく、たかしちゃんが4歳の時、昭和19年です」とのお便りがありました。有り難い指摘です。この際、戸籍謄本を取り寄せて出生地も確認してみました。次の記述が訂正した正しいものです。
戸籍謄本には出生:昭和15年10月13日、出生地:岡山県邑久郡太伯村(現岡山県岡山市東区邑久郷)とある。家屋内の座敷である。父の名は窪田修、母は純子。この村は郵便物など通称は<邑久郷吉塔(おくのごう・きとう)>であった。
次の年昭和16年に太平洋戦争が勃発するわけであるが、昭和15年にはすでに軍国国家として、その命令は吾が家庭にも及んでいたようだ。父母は赤ん坊である私と3歳年上の男の子を連れて大阪に引っ越した。吉塔(きとう)には祖父と祖母の二人を残して。
大阪に赴いたのは父が早稲田大学の金属関連の研究室にいたこともあり、使用する鉄など金属類の強度の設計に使える人間だと軍部は目をつけたからだろう。現在も吉塔の家の屋根裏部屋の倉庫に父の残した金属関連の専門書や鉄の顕微鏡写真が多数ある。
ちなみに、この昭和15年には、広島県の呉で<戦艦大和>を秘密裏に建造中であったそうだ。戦艦大和の主砲の設計者は親戚にあたる菱川万三郎博士・東京大学航空力学の教授である。
大阪の造船所がどこにあったかは私は知らない。戦争中に一度造船所の関係で引っ越したのをウッスラと覚えているだけであるが、親戚の話では初めは大正区鶴浜町であったが、引っ越したのは西成区千本通1丁目1番地だったそうである。
終戦は昭和20年だったが、その前年昭和19年(4歳のとき)、吉塔に戻ってきた。吉塔から幼稚園に通ったのも覚えている。父は居なかった。ということは母は父を残して兄と私を連れて疎開というか、故郷の吉塔に一足先に帰ったわけだ。
父が吉塔に戻ってきたのは、終戦直後の私が5歳の時である。「お父ちゃん!」と飛びついたのを覚えている。なお、弟が生まれたのは翌年の6月。私は小1(6歳)の時だ。これで時系列が合った。
その後、3年生頃だっただろうか、西大寺にある大蔵省印刷局に勤めるようになったが、それまで就職先はなく(岡山の鉄工所でパートで働きながら “就活” をしていたという親戚の話がある)、戦後混乱期であった当時の生活は厳しかったようだ。
軒下に竈(かまど)や、お風呂に使う薪(たきぎ)がある。
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