更新したのでコントロールキーを押しながらF5を押してください
 
 MJで書いている頃を含めて1995年から2016年まで、21年間、音響芸術専門学校に講師として勤めた。きっかけは同じ評論家仲間の加銅鉄平氏が同校に講師で来ていて、私を紹介したのだった。
 初年度は教務から「窪田先生は数学の免許も持っていますね。数学を担当してください。特に微分方程式を解けるよう詳細に授業してください」と頼まれた。音響工学では、磁気の変化は電流を生じることがMM型マイクロフォンやカートリッジの原理になっているので、こういった微分方程式を解く事は必須である。特に電磁気学では過渡現象でも交流理論でも微分方程式は重要である。この講座を希望したのは男女合わせて15人ほどだった。優秀な学生ばかりだった。
 
 その後、私はオーディオ評論家であることから、アナログをデジタルにする、“デジタル技術” も担当する事になった。この<録音PA技術科>は他の講座も含めて希望者は多く、教室の関係で約60人と約30人の二つに分けていたので、私は週二日通った。
 
 夜間部も担当したことがある。何人かは昼は大学に、夜は本校に来る、という学生がいた。「大学では本校のようなエンタメ系の授業がないからです」と話していた。昼間部とは日を変えて、数年間は担当したので、結局その頃は週回通ったことになる。
 
 ここで懐かしさも手伝って当時の<期末試験問題>を紐解いていたら、次の問題がCD−ROMに残っていたので、問だけ紹介しておこう。90分なので、全部で22問もあった。
 その中の問である。回答は別紙回答欄に書くことになっている。CD−ROMから直接コピー&ペースト。自分で作った問題だから “盗作” ではない(^_^)。
)次の回路は微分回路か、積分回路か。
)出力の方程式を書きなさい。
)その方程式を解いたら、次の(a)、(b)、(c)、(d)のうち、どの図となるか。
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 普通、専門学校は無試験で入学できるが、本校は現在でも続いている “入学試験” がある。理事長が精鋭少数主義であったからだ。理事長の知り合いには女優の草笛光子さんや国際ジャーナリストの兼高かおるさんなどがおられる。私はお逢いしたことはあるが、話をした事はない。
 私の話し相手になってくれた親しい教務部長は、キングレコードに在籍ご活躍されていた頃、『江利チエミのテネシーワルツ』を録音し大ヒットさせた菊田俊雄先生である。また『ペギー葉山の南国土佐を後にして』も録音した事でよく知られている。録音部長であられた頃は菊田先生はクラシック音楽も担当されていたそうである。その後本校で教務部長として就任され、録音技術の講座や実習なども担当されている。
 
 この講師時代も人生で楽しい時期だった。学生たちが「先生のお宅のオーディオルームを見せてください。CDやレコードを聴かせてください」と、毎週日曜日、と言えば大げさだが、人づつ学生が来訪。拙宅で授業しているようだった。
 事実、学校ではやってない「デジタル技術検定級」の問題集の分からない部分を、あらかじめチェックして来て、朝から夕方まで二日間やった事がある。合格!優秀そして可愛い子だった。他の講座も成績が良かったそうで、東京ディズニーランドに就職した。
 
 2004年と2008年の回、同校で年に一度開催している「ヨーロッパ研修旅行」に参加させてもらったのも、嬉しい思い出である。もちろん参加代金は学生と同額である。ある学生が「先生は無料ですか」と、失礼な事を(多分気になったのだろう)言ったので、「全額払いだよ。飛行機の燃油サーチャージ代金も払ったよ」と諭した会話があったのを思い出す。
 定員は30名で職員が4人、学生は男子6〜8人、女子20〜18人だったと記憶している。定員は申し込み順なので早い者勝ち。もちろん前もって、今年はどこそこに行く、という説明会がある。10日間であるが、往復で飛行機泊になるので、実質日間である。毎回月の終わりから10月の後期授業の始まる前まで。季節的には非常に良い時期であろう。暑くもなく寒くもなく。旅行業者が良いホテルを予約していたので、毎回満足であった。
 
 音響関連の会社の工場見学では、例えばロンドン郊外にあるB&W本社。ここは度行ったが2004年度は「日本からオーディオ評論家Mr.Kubotaが来る」というので、本社では非常に神経質になって、お偉いさんのお出迎え。そして研究室その他重要な部署は見せてくれなかった。
 じつは社長の故ジョン・バウワーズ氏は東京・青山で同社の発表会があった時、お会いし、名刺交換後、少し親しみを込めた挨拶をしたことがあったが、その後、癌でお亡くなりになった。
 
 私としては取材旅行だったので、この年のロンドン、オックスフォード、スペイン国立音楽ホール、オランダ・アムステルダムなどは、MJ誌の2004年12月号、2005年1月号、2005年2月号と連載で記事にした。
 
 スペイン国立音楽ホール(マドリッドの中心部から北へ4kmほどの閑静な場所にある)の取材では、特別な感謝すべき思い出がある。ちょうど休館日だったので、館内は薄暗い状態だった。その中での説明である。音響効果や1988年完成の
最新型スペイン最大のパイプオルガンなど詳しい説明があった。このホールは国営で、多目的ホールではない。音楽専用で、
日本からもNHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団が演奏会を開催したことがあるそうだ。
 説明が終わったあと、私はホールの全景を撮影したくて、通訳さんを通じて「日本のオーディオ関連と音楽の評論雑誌に写真を掲載したいのですが、ホールの電気を点けてくれませんか」と恐縮しながらお願いしたら、担当の女性職員が「どうぞ、少し待って」と言って、奥に入って行き、パッ、パッ、パッと全館の照明を点けてくれた
 おかげでプロが写したほどきれいな館内全景写真(階席最後部の中央から正面に向けて狙い撮り)が掲載されている。
 
 アムステルダム・コンセルトヘボウは世界大、音の良いホールの一つとされているが、なぜそんなに音がよいのかは、
「天井に秘密がある」ことなど1月号で詳しく書いた。天井裏まで連れて行かれて説明を聞いた時には(通訳付き)、驚愕の思いだった。天井は重構造になっていて(覗いて見た目測だが1mくらい深さがある)、私たちが歩いている天井と、客席から上を向いて見えている天井とは異なるわけだ。この見えている天井そのものが可聴周波全域で振動するように設計されているのだ。
 ちょうど私たちが狭いハシゴを上っている時、ホール内のあちこちでピストルの空砲を鳴らして、その反射波をコンピューターのディスプレーに映して解析し、<どの辺にマイクをセッティングするか>の測定をやっていた。この日の夜の演奏は現代音楽で指揮者はロジャー・ノリントンだった。私たちも鑑賞した。小編成のオケなので、マイクロホンの位置は重要だ。
 マイク本が天井から降りていたが、「あれだけ大変な測定をして、ここに決めたんだ。定在波が生じない場所だ」と思ったら興奮した。私なりの特別な興奮である(*^_^*)。
 
 日本の有名なホールも音は良いが、天井はタイトで振動する事はない。美しく反射するように作られている。この違いが
“音楽性” の違いにも表れるのだろう。
 私見だが、日本では上記のような重構造の天井には出来ない。たぶん建築基準法にも定められていると思うが、地震の多い国なので、震度でも、あれでは天井が落ちてくる。だからである。
 
 次の日は夕方まで自由時間だったのでゴッホ美術館に行った。ゴッホの描いた<ひまわり>は生涯で計点あるが、その一つがアムステルダムゴッホ美術館にある。
 
 次に、数人の学生と一緒に行ったのが<アンネの日記>で有名なアンネ・フランクの隠れ住んだ屋根裏部屋である。ここで13歳から15歳まで年以上少女時代を過ごしたのかと思うと心を打たれた。この日記は世界のベストセラーとなっている。私も日本訳を読んだことがある。日記は突然終わっている。1944年8月1日 火曜日だ。そして同15歳にナチスドイツの収容所で、流行していたチフスにより病死した。先に歳年上の姉マルゴー(マルゴットとも訳される)が、続いて数日後アンネが死亡。読みながら幾度も目に涙が滲んだ。そして彼女が非常に強い意志を持っていて「戦争が終わったら」という希望を捨てない子であったのを知っていた。それ故か、当時のそのまま残っている屋根裏部屋を見たというのは、ひとしお大きな感激であった。
 なお、アンネの日記が無事に【註】、のちの世に出る事になったいきさつは、隠れ家の階下階の事務所と階の事務所で働いていたオランダ人従業員がアンネなどユダヤ人が逮捕、連行されたあと、すぐにアンネの部屋に行き、日記を探し出し、隠しておくことに成功したからである。アンネの死亡が確認された時、それを知らなかったアンネの父オットー・フランクはアウシュビッツで194527日にソ連軍によって救出され、一人でオランダに戻った。その時従業員がアンネの父に、日記を渡したのだった。
【 註:<無事に>という語句に奇異を持つ読者がおられるだろう。少し説明しておこう。連合軍とドイツの激しい戦闘中、英BBCラジオ放送が何度も戦況を報じている際「この戦争の惨事を後世に残すため、日誌や日記、戦争による被害などを記録したものをまとめて戦後出版する予定である。ぜひとも協力して欲しい」という内容のアナウンスが幾度もされた。それを聞いていたアンネが、それまで通常の日記だったのが、徐々に<人々に訴えかける文面>に変わっていった。
「アンネの日記」を読むと、それが如実に表れている記述がある。そのため、ここで<無事に>と書いたわけである。】
 アンネはドイツ語、オランダ語はもとより英語、フランス語などをよく勉強していたし、日記にはドイツ語と英語を混ぜた
“造語” も作って書いた部分がある(文中に翻訳者が<括弧詰め>で説明しているのを引用した)。
 手元に1959年度アカデミー賞部門受賞した20世紀フォックスDVD「アンネの日記」がある(製作・監督:ジョージ・スティーブンス)。この中に1944日未明 開始された「ノルマンディー上陸作戦」が映画化されている。
 隠れ家生活していた人がラジオを聞きながら歓喜に酔い、「もうすぐ戦争は終わる!」と涙しているシーンがある。
だが、アンネらがドイツ兵に連行されたのは、そのケ月後だった。・・・戦争が終わったのは翌1945月である。
(以上の話は2004年度、下記は2008年)
 
 私たちが度目のB&W本社を訪問した際、ロンドンから真南に向かって無料の高速道路を大型バスで行ったのだが、運転手が面白い人で「このまま真っ直ぐに行くとイギリス海峡に突っ込みます」と笑って言った。で、B&W本社は、その手前のワーシングという町にある。B&Wとの約束の時刻より早く着いたので、運転手が「このワーシング海岸の浜辺で少し遊びましょう」と言ってみんなを降ろしてくれた。その時運転手が「ちょうど真向かいに長い海岸が見えるでしょう。あの長い浜辺が有名な『ノルマンディー上陸作戦』の海岸です。北フランスのノルマンディー海岸です」との説明があった。みんな喜んでノルマンディー海岸をバックに写真を撮ったり、ワーシング海岸の浜辺で遊んだのが記憶に新しい。
 
−−−−−−−−−−
 
(以下は再び2004年度の続き)夕方、コンセルトヘボウに集まるようになっていたので、間に合うよう帰ってきた。夜の部のコンサート鑑賞だった。常任指揮者のマリス・ヤンソンスによるベートーベンの「田園」。この時の思わぬハプニングを記しておこう。
 ご存じと思うが<サントリーホール>はステージの後部は音の反射壁があり、その後部が2階席となっていて、楽員達との距離が隔壁によって仕切られている。ところが、このコンセルトヘボウは、そういう隔壁はなくて、後ろの階席は楽員達とは殆ど繋がっているほど目の前である。演奏が始まる前、楽員達がステージに入ってきた時、私のすぐ前にティンパニーがあり、背の高い楽員が来た。
「どこの国から来たのですか」とオランダ語ではなく、英語で訊かれたので「Japan」、「Thank you」などの会話があった。と、ここまではどうって事のない話であるが、面白いのは演奏中の出来事である。
 「田園」には何楽章だか忘れたが、ピカッと雷が光って(シンバル)、つぎに雷鳴が鳴り響くフレーズがある。この雷鳴がティンパニーである。私のすぐ目の前でドドドドドっとやった。私はびっくりしてのけぞる程だった。それを1階席の前の方に座っておられた理事長が見ていたのだ。あとで「窪田先生、ティンパニーの音にびっくりしていたね。見たよ」って笑いながら仰った。以上吾が赤面のひとこま。
 参考までに:チケットは日本円で約1万円(先に述べたロジャー・ノリントン指揮による「現代音楽」も含む。この曲の方が第部、第部が「田園」)。
 
 度目の2008年度のB&W訪問は学校側に頼んで、私の事は伏せてもらったら、前回とは全然違う工場内や研究室を見せてくれたが、記事にはしなかった。
 
 ビートルズの録音で有名なアビーロードスタジオ、各国の有名音楽ホールと楽器の温度・湿度を保つ部屋の見学、ロンドンでは国立劇場とその楽屋や小道具置き場など、見るもの、聞くものすべてが珍しく勉強になるものばかりであった。上記のようにイギリスはもとより、スペインやオランダ、ベルギーその他何カ国も訪れた。
 
 オランダには度行ったが、2008年度はロンドンからドーバー海峡の海底を高速列車で走り、トンネルを抜けると、そこは雪国・・・ではなくベルギーだった。列車から降り観光バスに乗り換えて、ベルギーからオランダへであるが、この道筋には一生忘れられない光景が目に焼き付いている。遙か彼方まで、平原また平原である。日本では北海道サロベツ原野を車で走った事はあるが(前章§18の写真参照)、平原と原野は異なる。かすかな起伏はあるが、とにかく “平原” である。
 
 この平原を抜けて町中を通り、オランダに入る。間もなくハーグを通りかかった時、運転手さんが速度を落としてゆっくり走り、ガイドさん(日本人)が「左手に見えるのが国際司法裁判所です」と指さして、どういう裁判をしているのかなど詳しく説明した。大きな御殿のような立派な建物だ。
 今にして見ると、この裁判所の通達を無視して他国の領海を乗っ取っている国がご近所にあるのが恐ろしい。
 
 2004年度はロンドンからオランダ・スキポール空港経由でスペイン入りだった。なぜ直接スペインに渡航しないのか不思議だったが、イギリスとスペインは仲が悪く、空輸の相互乗り入れはしてないからだそうである。
 このスキポール空港での乗り換えではちょっとしたトラブルがあった。全員が持ち物を運んで乗り換えなければならないわけだが、理事長のスーツケースが無くなってしまった。付き添い旅行業者さんが探したら、フランスに行ってしまったのが判り、翌日にマドリード・バラハス空港に届いた。
 
 記憶が2004年度と2008年度が前後しているようで、申し訳ないが、覚えている範囲で印象深かった所を記しておきたい。
 
 ベルギーでは皇帝ナポレオンの最後の戦い(181518日午後時過ぎに幕を閉じた日間)<ワーテルローの戦い>があったラ・エイ・サント平原にも行った。ここには1815メモリアルという博物館があり、戦場の様子が描かれた72サイズの大きな情景セットが地下に作られていて、それを階から観ることが出来る。凄まじい戦いの様子が手に取るように判る。
 みんなで「ナポレオンはどこに居る?」と探す。白い馬に乗って指揮をしている凛としたナポレオンには憧れさえ覚える。
ときに46歳。
 しかし、じつは、この激戦終幕の直前、ナポレオンは「俺一人でも戦う!」と叫んで敵陣に突っ込もうとしたそうだ。
それを下士官が「殺されます!」と必死で止めたという逸話がある。事実かどうかは不明だが、実際、日間不眠不休だった
ナポレオンは心身ともに不調をきたし、思考力も低下、異常な判断と行動になったのだろうと私は推測している。
 なお敗因そのものについては歴史書に多くが語られているが、主な原因は天候が悪く足場がぬかるみなどで良くなかった事と、連合軍(イギリス、オランダなど)が、ナポレオンの戦術を過去の戦争から学んで、よく知っていた事などが挙げられる。
そのため、この泥沼化した平原にナポレオン軍兵士を誘導する戦法を連合軍は采(と)ったのではないか。大砲を載せた馬車なども動けなくなる。私が連合軍司令官なら、そうした筈だ。
 この平原にはライオンの丘と呼ばれる高さ45mのピラミッドがある。何段あったか覚えてないが、石段を登って頂上に着いたら大きなライオンの像があった。フランスの方を向いて睨み付けている。
 
 ベルギーでは、ブリュッセル王立美術館にも行って、その建物の圧倒的な美しさに我(われ)を忘れる程であったが、知っていた画家はレンブラントくらいだった(*^_^*)。
 ブリュッセルには1619年に作られた<小便小僧>があるので見に行った。観光名所として有名である。記念写真を撮ろうと順番待ちが列をなしていた。ただし、この小便小僧は1747年、1817年、1963年と回も盗まれたり壊された事があるので、現在建っているのはレプリカで、本物はブリュッセル市立博物館に保管されているそうである。
 ベルギーといえば、有名な「フランダースの犬」とルーベンスを思い浮かべるだろう。あとで写真を載せたい。
 
 スペインではプラド美術館に行った。ここは高校のとき習った有名な画家が揃っていた。エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤなど。すばらしい作品にひとときを過ごせた。
 ただスペインでは何処に行った時だったか忘れたのだが、怖かった話を一つ。女子4人と私の5人であったが、ジプシー
(日本では放送禁止用語/物乞いのこと)に取ッ捕まってお金をせびられる事件があった。40代ほどのおばちゃんだった。
「逃げろー」で一斉に地下鉄の中に逃げ込んだ。追っかけては来なかった。「ホッ!」(^_^;)
 
 スペインでの最大の観光はトレドだった。男子は全員サッカーの観戦に行ったが、私たち教員と女子全員は大型観光バスでトレドが一望できる丘に登った。運転手が親切な人で「通常のツアーでは、ここまでは来ませんよ。ここから観るトレドは最高です」と、その狭い丘に登って降ろしてくれた。全員の叫び「わ〜!」。
 このトレドの町はU字型に曲がっている大きな川(タホ川)に挟まれた高地である。その中世の町全景が鳥観できる。この川が自然の要塞となっているわけで、中世以前の昔から敵の侵略を拒んできたのだ。
 しばし堪能のあと、降りて町中の探索をした。狭い路地にびっしりと中世の建物が並んでいる。古都トレドそのものが世界遺産に登録されているが、有名な建物としてはサンタ・マリア・デ・トレド大聖堂やサント・トメ教会がある。この教会には上述したエル・グレコが16世紀に描いた傑作『オルガス伯爵の埋(まい)』が展示されている。この作品は門外不出となっているので、ここでしか見れない。私のような絵画に疎い(うとい)人間には勿体ない話だ。絵心のある人にはトレドの訪問を是非勧めたい。ただ迷子になりそうだから気を付けて。ジプシーは居ない。
 
 トレドの思い出の一つに面白い事件があった。それをここで記念に書いておこう。
 旅行が終わり、帰りはロンドンヒースロー空港からであったが、私たちの飛行機は500人以上乗れるスーパージャンボジェット機だった。それが30分以上も遅れて、まだ乗れない。乗客待合室に英語で「Japanese・・・・・」と呼び出しの声が流れた。「え?」っと言うわけだ。旅行業者さんと、呼び出された女子学生が二人で検問室に連れて行かれた。あとで聞いた話。
「このスーツケースを開けてください」、「どうしてですか?」、「調べたいものが入っている」、しぶしぶ開けたそうだ。中身を全部ひっくり返して調べられたら、なんと拳銃が出てきた。業者さんが彼女に訊いた。「どこで買ったんですか?」、
「トレドです。弟へのおみやげです」。もの凄く精巧に作られた木製の拳銃だった。一件落着。
 飛行機が遅れたせいか、シベリアの上空付近で “日の出” が見られた。私たちは安い後部座席だったので、主翼が邪魔をしながらも、非常に美しい見た事のない日の出だった。水平線から昇る日の出と違って、高度万メートル以上の高さからの、
いわば下方に見える日の出である。もう二度と観ることはないだろう。
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 次の写真はグリニッチ天文台の入り口での記念写真。入場料無料だが、国名と人数を窓口で告げる。
「Japanese 7 students and me」とワケの分からない事を言ったら(^_^)、「OK please」と言って扉を開けてくれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 入場したら、真っ先に目に止まったのがレーザー光線。地球を東西に分ける経度のゼロ線である。学生達は喜んで右足は地球の西側、左足は地球の東側にまたがって「先生、写真撮って〜!」である。
 
 次の写真は「フランダースの犬」で有名なベルギーのアントウェルペン聖母マリア大聖堂にあるルーベンスの三連壇画である。その中の<キリスト降架>を観たあと、力尽きたネロ(女子学生)が倒れて、パトラッシュ(私)が寄り添って啼いているシーン。
フランダースの犬
註:写真撮影OKとのこと。特に日本人に対して警備員も、館内のお土産店の店員さんも非常に親切であった。
このアニメは日本での放送後、世界各国でこぞって放映された。最終回の、ルーベンスの絵の前でネロとパトラッシュが天国に召されるシーンでは、日本中の子供達が泣いたと言われている。
 ネロの最期の言葉「ぼく疲れたよ・・・とても眠いんだ・・・」
 ただ海外の反応では「ネロが絵のコンクールで位だった事で、こんな悲劇的結末にするのは、子供達に与える影響があまりにも悲惨だ。もっと強く生きる少年にした方が良かった」との報道が多く占めていた。
 
 
 次の写真はルーベンス像の前での記念写真(ルーベンス広場)。後方にアントウェルペン聖母マリア大聖堂が見える。
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
お元気だった頃の大山のぶ代先生とツーショット
 
 当時は大山のぶ代先生(ドラえもん)が学校長だったため、時々お話をしたり(いやいやお茶を持って来てくれた事がある、恐縮!)、エレベーターの中では若山源蔵さん・ショーン・コネリーと話をしているようだった(^_^)、佐野浅夫さん・水戸光圀ご老公様と話をしているようだった(^_^)、等々親しくお話し出来て、楽しい思い出として残っている。
 学生は男女半々で(少し女子の方が多いかな)、高卒以上の者ばかりで、勉強もよくするし、やりがいのある21年間であった。私はレクチャーだけであったが、アナログ技術も関連させながら、上述のように主としてデジタル技術の基礎を担当した。
 辞めたのは健康上の理由と、もう歳だから、ということで引退させてもらったが、現在も学校経営に関わる評議員として在籍している。