懸命に相対論に食い付いていた頃、母が亡くなった。昭和63年(76歳死没)、昭和最後の年の10月だったが、その半年前に一回目のくも膜下出血で倒れた。その時、急いで帰郷し見舞いに行ったら、一命は取り留めて話が出来る程であった。入院中の母に会ったら大変喜んで「たかしじゃのオ、よう来てくれた。忙しいじゃろーに」と、病人とは思えないほど元気な声だった。「僕のことは心配せんでええ、それより、この程度で良かったよ」
「たかしを生んだのは、この母ちゃんじゃよ。こねんに(こんなに)なってしもうーた」と、右腕を一所懸命に上に上げようとしたが、真上まではいかず、途中でストンと落ちた。思わずその腕を支えて手も握った。
「大丈夫、大丈夫、無理すんな」と手を下ろし、しばらく懐かしい思い出話をした。
 
「たかしは、小学校、中学校、高校とも優等生じゃったのオ」
「いやいや小学、中学はそうじゃったけど、さいこう(西高:県立西大寺高校の通称)に行ったら凄いのばかりおって、びっくり。西大寺中学校と山南中学校のレベルの差なんだよ。ウチでは、そんな話は口にした事ないけど、入学後、それに気づいて、負けてたまるかと猛勉強したよ。でも負けてたなア、上にゃ上がいる」と笑った。
「・・・・・せーでーじ(西大寺)の久山薬局の坊ちゃんは東京に行ったそうじゃったが、今はどうしょうるかのオ」
「3年前に東京に来たもんだけで同窓会やろうって、久山のモッちゃんにも久しぶりに逢ったよ。東京外国語大学を卒業後マレーシア航空に就職して活躍してるよ。何カ国語も話せるからなア。・・・彼にはいつも負けてたよ。彼はアタマが良すぎる、フフフッ」と笑って見せた。
「せーでーじには和菓子の専門店で有名な旭堂があるじゃろ、あそこの坊ちゃん、何ていうたかのオ、ウチに来たことがあるじゃろう」
「ああ、東島のターちゃんじゃ。裏山にマツタケを採りに行った時じゃったなア。しゃーけど(しかし)、あの年は松茸は全然なくて採れんかった・・・」等々、10分、20分だろうか、昔話に花が咲いた。細かい事をよく覚えている母にびっくりした。
 
「東京に行くとき、村の集会所に二十人ほどの人たちが集まってくれて、ぼくがギターを弾きながら何を唄ったか、覚えているかなア」と言ったら、「おべーとる(覚えている)よ、三橋美智也をうとーたがな。おわりに故郷(ふるさと)をうとーた。もう一度聴かせておくれ」。なんと母は覚えていた。
「・・・こころざしを はたして、いつの日にか帰らん・・・」、ここまで小さな声で唄ったが、喉が詰まって声が出なくなってしまった。
 しばらく僕をじっと見つめて歌を待っていたようだったが、静かな声で「たかし、世の中の、役立つ人に、なられーよ」と途切れ途切れに言って、疲れたように目を閉じて眠った。
 この言葉が僕にとって最期となった。およそ半年後二度目の脳出血で瞬時に帰らぬ母となった。葬儀に行って母を見たら安らかな顔をして寝ていた。そう、ぐっすりと寝ていた。二度と目が覚めない眠りだ。
 <たかしを生んだのは、この母ちゃんじゃよ>が、耳から離れなかった。<必ず恩返しをする>と手を合わせた。
 
 
三橋美智也「おさらば東京」を歌った若き日の窪田くん