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平成4年3月31日付、10月生まれだから、まだ51歳だった私はフリーライターとして身を立てることになった。オーディオ界での活躍と相対論の勉強に没頭することになる。
一例を書くと、この年1992年の日本放送出版協会「エレクトロニクスライフ誌」11月号のDCCの大特集、12月号のMDの大特集はNHK放送技術研究所の竹ケ原さんと二人で(他にもメーカーの専門技術者も応援記事を書いてくれたが)、歴史に残る保存版大記事にした。
1ページ目のタイトルのところに、企画/構成:窪田登司、竹ケ原俊幸とある。嬉しい!実際には編集部のご苦労だったのだが、取材で駆け回った私たちへの敬意を込めての表示だろう。とても嬉しい!
DCCはデジタル・コンパクト・カセットの略で、従来のカセットは再生できるし、録音・再生はメタルテープを使ってデジタルで行う、という二刀流のデッキだ。松下電器が開発した。これは音声を圧縮せずにリニアである。
一方MD(ミニディスク)はソニーが開発した圧縮技術を使用して直径64mmの光ディスクをケースに入れたまま出し入れする最大74分の録音も再生もできるメディアである。
大阪と東京の対決となった。どちらが勝ったかは歴史が示す通りだ。
翌年平成5年1993年には「エレクトロニクスライフ誌」3月号〜5月号連載で、拙筆「相対性理論の意外な見方」を発表。世界初の相対論への疑問を投げかけた記事となった。物凄い反響で、編集部には連日クレームの電話がひっきりなしに鳴り響いたそうである。
この記事だけで相対性理論は間違っている事に気がついた人は、私よりも遥かにアタマはよい。校正ミスでプラスとマイナスが逆であったり、文面も私のアタマの中が整理されてない。
その後、5月に徳間書店から、一週間で書き上げた「アインシュタインの相対性理論は間違っていた」が出版された。このタイトルは編集部の石井さんが付けたもので、私は「アインシュタインへの疑問」か何だかだったが、インパクトが弱いと言って石井さんが付けたのである。この時も編集部石井さんあてにクレームの電話が絶え間なく続いて、石井さんはデスクから逃げ出したそうだ。
(なお、この本の帯に<マイケルソン・モーレーのミスを発見>とあるが、私が何を勘違いしたのか、そういうキャプションを付けてしまった。マイケルソンとモーリーはミスはしてない。目的の実験をかなりの精度できちっとやった。そして、この実験は非常に大切な歴史に残る分光学・干渉計の源泉となった。)
この拙著によって、「今まで相対論に対してもやもやしていたのが一気に吹き飛んだ、目からうろこだった」という読者は多い。例えば岐阜大学の後藤 学教授は、徳間書店に「わたしも相対論には長い間疑問を持っていた。今後この類の本が出版されるときは、自分も参加させてください」という内容の手紙を出した。石井さんは、「これはチャンスだ」と、後藤教授と私の共著で企画刊行したのが『「相対論」はやはり間違っていた』である。
これに反論したのがK大学M物理学教授である。科学朝日に『「相対論」はやはり間違っていたはやはり間違っていた』というタイトルの原稿を投稿し掲載された。この記事は、冒頭から、相対論とは、こういう理論だという、どの相対論の本にも書いてあることを述べているだけで、c’=c−Vcosθ の発見を理解出来ている記事ではない。
じつは、この記事は掲載される前、小生に同編集部から「こういう原稿が同教授から送られてきたが、掲載していいですか?」と、全文のコピーを送ってきた。すぐに全文を読み「結構です。どうぞ。c’=c−Vcosθ の発見をご理解出来たらいいですね」との返事を出した経緯がある。
私は、『相対論』も 『c’=c−Vcosθ 』も両方理解している。しかし同教授は片方の相対論しか理解してない。数式で書くと、
私は x=ct、x’=ct’ も
x=ct、x’=c’t も両方を理解しているが、
同教授は x=ct、x’=ct’ しか理解してない。そして、これはあり得ない式であることに気が付いてない。
もし、あの時「窪田は一体何を考えたのだろう」と冷静になって、深く研究しておられたらと悔やまれるところである。
長くなった自伝も終わりに近づいた。決定的な話をしよう。1992年(平成4年)の春。自由の身になった私は相対論に食い付くことになる。
初心に帰って勉強しようと初歩から勉強しているとき、著名な数学者であられる矢野健太郎著の「相対性理論」(至文堂刊/奥付の下の方に昭和39年9月26日購入とメモってある。私が24歳のときだ)を再読していると、「・・・これらは互いに矛盾するものである」が目に止まって釘付けとなった。注意深く前後を何度も読むと、簡単なことで、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」は互いに矛盾しているということだ。<これは!>私の心は躍った。この2つの原理(アインシュタインの単なる仮定である。原理と称するのは日本くらいで、欧米の原書では assumption と書いてある)は、すでによく知っていたが、<矢野健太郎先生が矛盾するものだと、ちゃんと書いてある。これだ!>
ここから、ありもしない間違った直角三角形を作って、ローレンツ変換式が出てきて、特殊相対性理論が構築されているのだ。奇妙なことに「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を使えば代数的にもローレンツ因子は導出できるが、分母と分子が逆となる。これでもローレンツ変換式か? 特殊相対性理論は間違っていると確信したのは、この時だった。
<よし!それなら、どうすればマイケルソン・モーリーの実験を説明できるかだ!>
ここが最も重要なところだ。
「相対論は間違っている」という場合、「ならば、どういう理論でマイケルソン・モーリーの実験を説明するのか」であろう。それを示さないで、「とにかく相対論は間違っているんだよ」では話にならん。
考えに考えぬいた。2ヶ月以上かかっただろうか。<そうだ!運動系のベクトル V を投影すればいいんだ、そうすれば2つの座標が数学的に繋がる。c’=c−Vcosθ だ!これでマイケルソン・モーリーの実験を説明できる!>
M−M実験では、 θ ≒ 兀/2 だから、c’ ≒ c となり、干渉縞は極少となる。実験精度が高くなればなるほど、
c’=c に近くなり、M−M実験を完璧に説明できる。c’ =c−Vcosθ は一般式であり、c と V のなす角度 θ は任意で成り立つ。
このとき相対性理論がわたしに語りかけた。「長い間、この日が来るのを待ち望んでいました。やっと苦しみから解放されます」と。
この式を発表したのは1993年の「エレクトロニクスライフ誌」3月号〜5月号の連載記事であったが、1992年には次に述べるように、多くの大学物理学教授に知られてしまった。
というのは、私の不測の致す所だが、以上の内容を簡潔にまとめた論文調の原稿を国内数社の科学雑誌、物理学関連雑誌に投稿したら、一社を除き、ほかは完全無視、ナシのつぶてだった。その一社とは『ニュートン誌』で、「本誌は大学物理学教授によって構成されているので、貴殿の原稿は採用されません」との付箋と一緒に原稿が送り返されてきた経緯がある。よく見ると原稿用紙を綴じていたホッチキスは外されて、もう一度留め直してあった。これは何を意味するか。
ちょうど、この頃、日本放送出版協会「エレクトロニクスライフ誌」からDCCとMDの大特集を持ちかけられて、没頭することになる。
あれから28年経ったが、いま思い起こせば、当時1992年の自分の行為を苛み(さいなみ)続けたが、私は取り越し苦労していたように思う。日本の科学者は、<ジャン・ラディック著、深川洋一訳、丸善>の『アインシュタイン 特殊相対論を横取りする』のような○○な事をする民族ではないという誇らしい気持ちになっている。
いくら<特許局の事務員ではイヤだ、学校の先生になりたい>と思っても【註:講談社学術文庫の『相対性理論の誕生』(ハンス・ライヘンバッハ著)に書いてある。ハンス・ライヘンバッハはアインシュタインの講義を聞いた5人のうちの一人である】、人の論文を○○ような事は日本人はしない。民族性に違いがある事を悟った。
拙論を理解出来ない学者先生は残念だが、当時、理解した学者先生は多数おられたと思う。その方達が上記のような○○な事はしなかった。これが日本民族の誇らしいところだ。私は現在、心底そう思っている。
私のような一介の単なる “物書き” と学者先生では雲泥の差がある。やろうと思えば一瞬のうちに私などゴミ箱入りとなっただろう。それをやらなかった学者先生を心より尊敬したい。
こうして歴史に残したい自伝を書けるのも、ご理解された学者先生方々の賜物である。
むしろ物理学の発展にとって逆効果だった事案が続いていた。それは相対論派物理学者がテレビ、新聞、雑誌等のメディアを使って「窪田を潰せ、相対論が間違っている筈はない!」と幾度もやった事である。笑い話になるような内容をテレビや大新聞が平然とやるのだから、私は内心嬉しかった。
特にK大学M物理学名誉教授の私への猛攻撃は、<相対論はおかしい>と気が付いた他の優秀な物理学者の方々への影響が大きく、口封じしてしまった。M物理学名誉教授が学会で、どれほどの権力を振るっているのかは私は知らないが、優秀な物理学者先生方の口を封じてしまったのは事実であろう。
余談だが思い出した事がある。何百年も物理学は <物体と物体の相対運動しか考えなかった> が、<光を基準にして物体の運動を記述する> という私の基本的な発想は、昔オーディオ評論家として活躍していた頃、すでに小さな芽生えがあったように思える。それは、ある日、三菱電機の郡山スピーカー工場の研究室を取材した時、レーザーを振動板に照射して、その反射波を受信してディスプレイに映し出して強度や歪みを解析していたのを見た時だった。これは!という強烈な印象が脳裏に叩き込まれていた。これが物体の運動ベクトルと一定光速で飛ぶ光の性質の関係を思いついた原点だったかも知れない。
拙著「アインシュタインの相対性理論は間違っていた」(1993年5月徳間書店刊)が出版された時、編集部が、時の著名人約100人に献本送付した。返事が来たのは3人で、<あなたは頭が混乱している。相対論が間違っている筈はない>、
<アインシュタインに疑問を持つことは許されない>と、もうお一人が矢野健太郎先生であった。
ハガキで <この問題に参加したいが、病床の身、残念です。・・・> とあり、入院中であられて、その半年後12月にお亡くなりになられた。私は矢野先生は最期まで、相対論には疑問をお持ちだったのではないかと思っている。もし私が矢野先生の御著「相対性理論」に出会えてなかったら、現在の私は存在してなかったかも知れない。
だが、現時点で相対論は擬似科学であったことが直ちに世に定着することはまずない。理由は簡単だ。すべての相対論物理学者が失職するし、相対論やアインシュタインの名で得ている多額の寄付金や予算がゼロになる事はあり得ない。
(註:この記事は2020年10月時点での記述です。現在2022年度ノーベル賞は混乱することなく相対論を封じました。
量子論と相対論の対決が数十年以上続いていましたが、量子論が勝った事をノーベル賞が認めたのです。
ただ、相対論派物理学者が今後どう出るかは不明です。しかし、私の発見した特殊相対性理論の盲点『0=0という方程式の中に時間が縮む式が入っていた!』(2022年12月発売の拙著30頁)を黙殺出来ないでしょうから、現在の物理学は曲がり角にあると言えます。それを踏まえて次の記事へとつなぎます)
相対論の崩壊には時間がかかる。何百年もだ。徐々に徐々に雲によって日陰が出来るように、薄れて行く。
神が地動説を認めたのはガリレオ・ガリレイが没して350年後、1992年だった。さらに世界的に地動説が認知されたのは、じつに2009年であるが、現在に至っても相対論による天動説(すべての銀河は地球を中心に遠ざかっている)が、
まかり通っている。
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