その日の夜のことだ。
再び月桂が県令に喧嘩をふっかけた。屋敷はその話題で持ちきりだ。また暴れているらしいぞ。なんだと。だいたいそんな内容で、男どものうんざりしたような声、がちゃがちゃと得物の鳴る音がひしめいている。
勇丁は、屋敷の中でじっと息を潜めていた。どたどたと慌ただしく人が行き交う音がする。そして荒い足音が遠ざかっていくのを十分に確認した上で、勇丁は暗がりから這い出した。
廊下の金銀宝玉が、勇丁を嘲笑っているかのようで、無性に腹が立つ。
ここは県令、つまりは官吏の屋敷である。昨日の復讐だ。あそこまで弟分を傷つけた県令を許すわけにはいかない。
こきり、首を一度鳴らして、足を忍ばせつつ歩く。うなじの辺りで結ったばさばさの黒い髪が揺れた。
「さすが県令さまのお屋敷だ。凝ってやがる」
意味のない装飾を見て、勇丁は吐き捨てるように呟いた。きらびやかに飾り付けられた廊下、梁には丁寧な細工が為されている。廊下のいたるところに陶磁の壺が置かれている。
ぴかぴかに磨かれた壺を見れば、まるで姿見のように勇丁の姿を反射する。片目を覆い隠すほどに伸びきった癖毛気味の前髪、かつては「山荒(やまあらし)」とまで言われた癖だらけの後ろ髪はどうにか結われている。反射された人物は猫背で(おそらく壺に映っているせいだろう)、黒髪にうつろな黒い目。似合わない若葉色の衣を着ていた。
苛ついた。
勇丁を囲む煌びやかな装飾の財源は街人の血税だ。税金という名の苦行なのだ。
すべてをぶっ壊してやりたい、そう思って行動するのは容易だった。
がしゃあんと、耳に響く甲高い音が辺りに鳴り響いた。どうせ人はいないだろう、と当たりをつけて。
けれど勇丁の浅はかな思い込みとは裏腹に、廊下の奥から人が駆けてくる音がする。
まずいと心のうちで叫びながら、勇丁は周囲を見渡した。自分が隠れられそうな程の大きさがあった壺は、先ほど自分が壊してしまった。
さあどうする。
勇丁は周囲を見渡し、とっさに足を動かした。
口に手を当てて、ぐっと息を殺す。
「あら?」
「まあ! 壺が……。なんてこと」
侍女たちが壊れた壺を検分している。
勇丁は元いた場所で彼女たちが去るのを待った。そこは分厚い壁にあいた穴のようなところで、半分地面に埋まっている。まず見つかる心配はないだろう。
「とにかく、早く戻りましょう。賊が入り込んだのかもしれないわ」
鋭い指摘に、勇丁は心臓が縮んだような錯覚を覚えた。
早くどこかに言ってくれと、心の底から願った。もしかしたらここがばれてしまうかもしれない。
「そうね」
検分を済ませた侍女たちは、廊下を駆け戻っていく。
そっと顔だけを出して周囲を伺う。相変わらず頭上では金銀宝玉が眩しいくらいにきらめいている。
もう誰もいないようだ。安心して、ほうとため息をついた。穴から這い出でると、意外に疲れていたのか、その場にずるずるとへたり込みそうになった。そんな体を叱咤して、屋敷の奥へと駆ける。物音を立てないよう、誰にも見つからないよう。
目的の部屋を探し出し、戸を破る。
中には金子銀子が山のように積まれていた。街人からせしめた税金の山だ。そう考えると反吐が出る。
けれど、冲和はこの中に一銭も入れていないのだと思うと、さすがは我が弟分だと誇らしい。
勇丁は持参した麻袋に入るだけ金子銀子を詰め込んだ。じゃらじゃらと金属の擦れあう音がやかましい。
勇丁はずっしりと重くなった麻袋を肩にかけて、片手を金庫部屋にかざした。その掌から炎が迸る。ごうごうと音を立てて、部屋が燃えていく。
炎とともに部屋を出て、煙に隠れるように廊下を走る。使用人たちの悲鳴など聞いて聞かぬふり。
屋敷の表に出てみれば、屋敷は半分業火に包まれていた。火の粉が舞い、屋敷が崩れていく。夜闇の中燃える屋敷は、いっそ幻想的に見えた。
それが自分の作り出した炎の仕業であると思うと、おかしくてたまらない。あの不愉快な金銀宝玉が燃えているかと思うと、腹の底から笑える気がした。
勇丁は炎に照らされる頬を皮肉気につり上げて、言った。
「ざまーみろ」
言うだけ言うと、勇丁は金子銀子の詰まった麻袋をじゃらじゃら鳴らしながら、焼ける屋敷に背を向けた。
・ ・ ・
それに最初に気がついたのは、乱闘を傍観していた冲和だった。普段は穏やかで滅多に声を荒げない彼だが、このときばかりは違った。
「みんな見てごらんよ! お屋敷が燃えてるよ!」
冲和は高台にある県令の屋敷を指さした。
驚喜の声が、群衆の動きを停止させた。皆が瞠目して、目を疑った。
県令の屋敷。彼らを虐げる強者の象徴。
それが燃えている。
県令は顔を真っ青にしている。
やがて、今日一番の歓声が町中に響いた。
・ ・ ・
「今日の収穫だ」
卓子(つくえ)の上で、金子銀子がじゃらじゃらと音を立てた。
それを見て、月桂は、はあ、と嘆息する。
「んだよ、約束通り倍以上だろ。文句あんのか、月桂」
「文句、ない。ただ、やりすぎ」
何も燃やすことはなかった。と月桂は言外に告げる。月桂の苦言に勇丁はただ鼻を鳴らすだけ。弟分の恨みだ。
「これを、明日、ばらまく?」
「すげえことになるぞ」
月桂の問いに、勇丁は歪んだ笑みを浮かべた。