Novel

亡国の獣 一章 一

 あれから五年が経った。
勇丁は十五歳になっていた。
大安国最西、浦西県。
 風を切って街角を駆ける影がある。
 くすんだ街は、その心臓部を異様に沸き立たせていた。
 大通りの開けた場所に、人だかりができている。勇丁が人を押し退けて前に出ると、濃茶髪が美しい、十五、六の少女、阿茶が男を睨みつけている。睨まれているのは県令、つまり県の長だ。阿茶はこの街で知らぬものはいない、乱暴者の”獣”。五年前にこの町にやってきたらしい。彼女の名を知るものはこの街にはいない。なので愛着を込めて「阿茶」と呼ばれるのが日常だ。
 彼女の目の前には細身の青年が官吏(やくにん)に縛り上げられている。
 冲和(ちゅうわ)! 弟分を呼んだ声は人々の歓声にかき消された。
 県令が街人に難癖をつける理由は様々だ。態度が気に入らない、この県令様に盾をついた――他諸々。そうして相手が謝罪するまで、暴力を振るう。
 そして商人の冲和は税金の滞納で人一倍県令の目の敵にされていた。何もしない官吏に払うぐらいだったら、貯めておいた方がよっぽど身の為だ。とは、当の冲和の言である。確かに勇丁もそう思う。
 だが、その結果が、これだ。
 どうやら縛り付けられたまま何度も殴られたようで、座っているのもやっとのようだ。痩けた体をふらふらと揺らしている。
「冲和を、放せ」
 阿茶が言った。声は低く掠れていた。
「とうとう冲和も潮時さね」
 誰かが言った。反論したいのをぐっとこらえる。確かに彼らの言うとおりだ。
 彼らに冲和を助ける気なんて無いのだろう。みんな我が身がかわいいのだ。次は我が身――だったら辛い日常の中に現れた「処刑」という名の娯楽を人々は見逃さない。冲和がいなくなったところで、少し不便になったな。と思うだけだ。
 腹が立つ。
「悪人小茶め、今日こそ捕らえて、監獄の中にぶち込んでやる」
 官吏の間から、鼻息荒く低く唸った県令は、でっぷり太っていて、その贅沢な暮らしぶりが知れようというものだ。
 街人は、その日暮らしが精一杯だというのに。
 腹が立つ。
 阿茶は普段は無口で冷静だが、気短なのが、いかんせん玉に瑕(きず)である。
「その前に、余興と行こうではないか」
 県令の残忍な言葉に、人々がざわめいた。
 冲和の首に斧が振り下ろされる。
 冲和! 勇丁はそう叫んで官吏と冲和の間に飛び込んだ。そのまま官吏に当て身を食らわせる。官吏が斧を取り落とした。
 阿茶が一瞬瞠目した気配がしたが、すぐに斧を拾って県令に突きつける。
「行け、者ども、行け!」
 県令がわめいた。言うとおりにならないのが許せないのだろう。
 阿茶が剣戟を披露している後ろで、勇丁は冲和の縄を解いていた。
「ありがと兄貴」
「阿呆、死ぬところだったじゃねえか」
「それでもアイツに金を渡すのは嫌だね」
 そう言って冲和は県令を示した。太った体を縮こませて、目の前の殺陣に無様に怯えきっている。
 阿茶に向かって、二人の官吏が襲いかかった。
 それを阿茶は片方を斧で殴り、もう片方に投げつけていた。
「阿茶! 阿茶!」
 人々の歓声がやかましい。もういっそ怒声とも取れる勢いではやし立てている。
 阿茶は周囲の音を振り払うかのように首を振り、低く構え、県令に突進した。
 阿茶の突きだした拳が、県令の腹を刺した。
「流石だねえ」
「そうだな」
 冲和と勇丁の感嘆と、官吏のうめき声とが重なった。
 途端ワッと人垣から歓びの声が上がる。
「阿茶が極悪県令を倒したぞ!」
 誰かが言った。人々が雪崩を打って阿茶と県令の方へ押し寄せる。県令からはぎ取れるだけはぎ取ろうという腹だ。人一人は踏みつぶせそうな勢いに、県令たちはあっけなく飲み込まれた。
 退け、退け! 県令がわめく。それは猛獣の群れに飲まれた子供のようだ。いち早く人ごみから離脱した阿茶はそれを冷ややかな目で眺めていた。
「二人とも、うちへ上がりなよ」
 勇丁と阿茶に向かって、人ごみに苦笑しながら冲和が言った。
 そもそも冲和の店の前での出来事だったから、勇丁も阿茶も冲和の案に否やはなかった。
 商店の奥、質素な茶色い箱のような冲和の家に上がると、当の家主は足をもつれさせて崩れ落ちた。あれだけ殴られていたのだから当然だ。勇丁は阿茶に合図する。
 阿茶は頷いて、薬の入った箱を取ってきた。勇丁それを開いては冲和の手当を始めた。勝手知ったる何とやらだ。
「申し訳ないねえ」
 あははと笑いながら冲和は言う。悲壮感はみじんもないが、見ていて痛々しい怪我人の笑みだった。まぶたの上が腫れ上がっていて、こちらが見ていられない。
「だったら早く怪我を治すんだな」
 作業する手を止めずに、念を押すように言った。
「そうだね、そうじゃないと治療費かさむしね」
「……お前は」
 勇丁は呆れたとため息をついてから、月桂、と阿茶の本名を呼んだ。
「なんだ」
「茶、淹れられるか」
 一服したいだろ、という勇丁の提案に、月桂は動かない。ただ勇丁の顔をじっと射貫いているだけだ。
「なんだよ。言いたいことあんのかよ」
 居心地の悪そうな勇丁の言葉に、月桂は是、と頷いた。
「お前、動かない、はず」
 しゃがれ声と真っ直ぐな視線が糾弾する。作戦を無駄にしたのか、と。
 勇丁と月桂の関係は、幼馴染のそれに近いかもしれないが、少し違う。二人の間には少なからず「利害の一致」がある。
 作戦では、月桂が陽動している間に勇丁が行動を起こすはずであった。
「……それは、様子見に行ったら弟分がぼこぼこにされるんだぜ? んなの黙ってられっかよ」
「そうか」
 月桂はただそう応えて、茶を淹れるために厨へ立った。
「なんだ、嬉しいこと言ってくれるねえ」
「兄貴分として当然の義務、それだけだ」
 月桂を見送ると、兄貴分と弟分は自然と雑談に興じ始めた。
「そういや冲和、わかってると思うが一応薬師にかかっとけよ」
 そんな兄貴分の忠告に、弟分は顔を盛大にしかめることで返した。
「嫌だよ、ここらの薬師はみんなぼったくりじゃないか」
「お前金と命とどっちが大事なんだよ」
「そりゃ命も大事だけど、生きてるうちは何よりも金が大事だと思うよ、僕は」
 そうきっぱりと言い切った弟分に、勇丁は半眼で頬をつねり上げた。腫れ上がっているものだから痛い痛いと悲鳴が上がる。それを見て、勇丁は溜飲を下げた。