Novel

亡国の獣 序

 その日は、雨が降っていた。
 雨はざあざあ音を立てて地面を打っている。
 勇丁(ユウトウ)は、ふらふらおぼつかない足どりで路地裏を歩いていた。
 ――足下で、何かが動いた。
 気配の方向を見る。荷車が放置されているだけだ。
 否、違う。
 そこにいるのは屍体(したい)だ。死んだものが、風か何かで動いたのだ、と。
 そう結論づけて勇丁が去ろうとしたときだ。
 荷車に隠れるようにして、雨を凌いでいた屍体――否、辛うじて生きている人間――は、こんどこそがたり、と荷車を動かした。
 ぼんやりとその人間をじっと観察する。人は嫌いだ。人は裏切る。けれどこれは、獣だ。
  ――これは手負いの獣の目だ。
 獣はその強い眼(まなこ)で、荷車の下から勇丁を睨めつけてくる。
 よくよく見れば、獣は虫の息だった。それでも勇丁を力強い眼で見上げている。
 人であるはずなのに、そのさまは、本当に獣のようだ。獣のような人間だ。
「お前は何?」
 どんな返答を期待していたのだろう。私は獣だと言って欲しかったのか。それとも名を名乗って欲しかったのか。いずれにせよ、答えは予想に反していた。
「分からない。けど、私は、私」
 不安そうな声ではなかった。芯の通った声だ。だからこそ、好ましく思えた。
「助けてやろうか?」
 声をかけると、獣は驚いたように目を見開いた。口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。だって人はすぐに裏切るじゃないか。そう思って、獣を見下ろした。雨で紙が顔に張り付いていて、余計に相手の眼光の鋭さが増しているように思える。
 こいつは獣だ。裏切るも裏切らないもない。
 獣は律儀に首を傾げる。思案しているようだった。その様が何だかおかしくて、勇丁はくくっと喉を鳴らす。
 獣のまとう雰囲気が、少し和らいだ気がした。
 獣はしばらく思案げに勇丁を見てから、荷車の陰から物音を立ててはい出でる。その姿に勇丁は息を呑んだ。
 やせすぎていて、性別はよくわからない。風に揺れる枯れ木のようだ。
 髪が顔に張り付いていて余計に細く見える。もう少し肉が付けば端整な顔立ちになるだろう。目が落ちくぼんでいて骸骨のようだけれど、そう思わせる風格があった。
「あり、がと」
 見かけに似合った掠れ掠れの声で、獣は言った。目だけは炯々と輝いていた。
 雨降る日のことだった。