Novel

1章 3

 ソレーンは東方司令部のある街。つまりクローヴルのヴォストク州州都だ。
 トッドはソレーンの中心から、少し離れたところにある食堂へとサイを引き連れて行く。そこには、「食堂」という看板がかかっていたが、サイには店名は読めなかった。ドアを開けると、からころとドアベルが軽やかな音を立てる。なかはこぢんまりとしていて、暖かみのある場所だ。馴染みであるらしいトッドが奥に声をかけると、十ぐらいの少女が現れた。くすんだ金髪を、肩のあたりで切りそろえている。トッドが標準クローヴル語で何事か尋ねると、彼女は愉快そうにトッドに何か話しかける。それに対して、トッドは、違うというように首を振った。
 そうしてサイを自分の前に突き出して、何か言った。どうやら少女にサイを紹介したいらしい。少女が雨のように語りかけてくる。まるで聞き取れない。
「何?造船所に行くんじゃないの?」
 お互いだけに通じる言葉を、小声でトッドに言うと、万全の体調じゃないだろうが、と諌められた。
「まあ、お前を泊めてもらうんだし、顔合わせは早いほうがいいだろ」
「そうね」
 小声でのやり取りを終え、不思議そうな表情をした少女に向き直る。
「こいつはナージャ、ここの看板娘だ。――こっちはサイ。あー、俺の幼馴染み。変に勘ぐるなよ」
 二つの言葉を使いこなし、サイとナージャの橋渡し役となるトッドは、どこか頼もしく見えた。
 そうなの、とナージャは頷き、にやにやとサイとトッドを見比べた。トッドがそれを否定すると、表情を切り替えて、片手をホールの方へ広げ、言った。
「ようこそ! Черный кот」
 ようこそ、の次に続いた言葉は聞き取れなかった。多分店名を言ったのだろう。
 ナージャはカウンターテーブルに駆け寄ると、マールファ、と声をかけた。すると、厨房の奥から女性が顔を出す。彼女がこの店の女主人なのだろうか。
 トッドはマールファの方へ歩み寄ると、何事か話しかけた。おそらく、というか確実に、サイを下宿させる件についてだ。
 しばらくして、トッドが戻ってきた。だが、その表情は決して晴れやかなものではない。
「いいってさ。ただ、服が……」
 その言葉に、サイも表情を曇らせる。
「そうだったわ」
 新しく服を買おうにも、金がない。ほとんどの財産をあのトランクに入れていた。宿は見つかったが、足りないものは減らない。と、そんなとき、不意に裾を引っ張られた。そちらの方を向くと、金髪の少女がにっかりと笑っていた。
「私の、貸す!」
「え、ちょ」
 手を引っ張られて、そのまま二階へと引きずられる。階下を見ると、トッドが手を振っていた。引きずられるまま、彼女の部屋らしきところへ案内された。
 そこで、ナージャの着せ替え人形になること三十分。酔った体には少しきつかった。途中からマールファも参戦してきて、余計に堪えた。衣裳部屋には時計がなかったからあくまで体感だ。だから本当は違うかもしれない。
 サイに宛がわれたのは、ほとんどが男ものだった。だから少し体に合わない。シャツはチュニックのようになっている。
 多分ナージャの兄弟か何かの服だろう。その現状に、ナージャは訝しげな表情で、サイに何事か問いかけてきた。聞き取れないから、応えることが出来ない。仕方なく首を振る。
 ナージャは立ち尽くすサイの手を引いて、一階のホールへと駆け戻った。トッドの名前が聞こえたから、多分お披露目がしたいのだろう。
 ホールでは、待ちくたびれたようなトッドが、ちびちびとコップの水を飲んでいた。
「トッド!」
 ナージャが溌剌(はつらつ)とした声でトッドを呼ばう。その声にトッドが振り向いて、目を見開いた。
 サイはチュニック代わりのシャツに、青いベスト、チュニックの下にはズボンを穿いて、ズボンに被せるようにブーツを履いていた。――これは自前の物だ。少年のような、ださい格好だ。腰にはベルト、それに挟み込むようにしてレイピアを佩く。これは、トランクが盗まれた後も残った、サイのたった一つの財産だった。
 サイのこの格好を指差して、ナージャはどう? とトッドに問う。トッドはしどろもどろに、いいんじゃねえの、と答えた。微妙な格好だから、良し悪しの判断がつけづらかったのかもしれない。
 自分がほめられたような気になったのか、気分よさげに喋るナージャを押しのけて、マールファがトッドに何かを言った。それを聞いて、トッドがサイの方を向く。
「お前、細すぎるって。なんかの病気かって心配されてるぞ」
「えー、これが私の標準よ。だってあなたたちとは骨格からして違うじゃないの」
 そう言ってサイはトッドを指差した。そんなサイの言葉に、トッドは同情したような表情で頷いた。
「お前、龍(ロン)人だもんな」
「そうよ、あなたたち大陸人と違って、龍人は小柄なの。そう伝えて」
 トッドはそれに頷いて、ナージャとマールファに伝えた。それでもマールファは疑わしげな表情をサイに向ける。今にも、ちゃんと食べてないんじゃない?と言いだしそうだ。
 ナージャとトッドはその件でもめているようだった。ぼうっと眺めていると、抑えていたものが再び噴き出してきたようで、どんどん気分が悪くなってくる。歩き回ったり、ずっと立っていたりしたせいだろうか。そうぼんやり考えていると、視界が暗転した。