2人は連れだって病院から出て行く。そうして表通りをまっすぐ歩いて、橋の横にできた煉瓦造りの階段を降りる。すると、川が凍り付いたような場所についた。
そこには、角鹿そりが停まっていた。そりは凍った川の上に置かれていて、サイは自然、子どもの頃に読んだ本に載っていた、ゴンドラ船の写真を思い出していた。形は違うが、似たようなものに思えたからだ。
「これ何?」
指さして聞くと、打てば響くように答えが返ってくる。
「氷上そり、トナキアだ。ここでの移動手段。ま、乗合馬車みたいなもんさ」
軽い説明をしながら、トッドがそりに乗り込んでいく。サイはその時トッドが顔をしかめていたのに気付けなかった。幼馴染みに続くように、サイも乗り込んだ。中の座席はクッションがごわごわしていて、あまり乗り心地の良いものではない。
また吐くんじゃないだろうか。そんな不安が、一瞬脳裏をかすめる。
「手紙が届いていたと思うけど」
ドアを閉めながら、サイは言った。それには粗末ながらも人が落ちないようドアがついているのだ。
サイの言葉に、トッドは顔をしかめた。
「そりゃあお前、無茶ってモンだろ」運転手に行き先を伝えながら、トッドは呆れたように言った。
「ああ、そう、頼みます――お袋さん体調悪いんだろ? さっさと帰れ」
言いくるめられているようで、腹が立つ。だから、トッドの言い分はサイには通用しなかった。
「母さんはもういない。帰るのだってお金がかかるわ」
がたん、大きく揺れてそりが動き出す。サイの意趣返しのような言葉に、トッドはわずかに目を見開いた。低い、悪かった、という謝罪にサイは顔を背けて気にしないで、と返した。変に湿っぽくなるのは嫌だった。加えてそりの揺れだ。空船ほどではないが、外の空気を吸っていないと、また戻してしまいそうだ。
幼馴染みもその意を汲んだのか、静かに話の続きを始めた。
「……あのな、船で雲の上に行くなんてのがどんな無茶だと思ってる。夢を見んのも大概にしてくれよ。それを実行すんのだってどんだけの金が必要だと。それに……」
トッドは半ば自分に言い聞かせるように言っていた。その拳は膝の上で強く握られ、顔は俯いていた。それは決して寒さからくるものだけではないだろう。サイはトッドの言葉尻を捕えるように言った。
「つまり、お金があれば行けるのね。造船所に支払う分ならここにあるわ」
自分の隣を叩く。そこには何もなかった。そこで初めて、トランクを盗まれたことを思い出した。
「どこに金があるって?」
怪しむようなトッドの声に、サイは椅子を叩いた拳を握った。
「盗まれたのよ」
出てきたのは掠れた声だった。単に聞き取れなかったのか、サイの言葉の意味を理解しかねたのか、トッドの口から出てきたのは、は? という一音のみだった。
「盗まれたのよ! 置き引きよ! 船酔いして体調悪かったの、しょうがないじゃない」
急に激昂して怒鳴るサイに対して、トッドはぽかんとしている。
「本当か? 金がないっつうのは」
「ええ」
悔しいが、本当だ。サイは唇を噛んだ。あそこでトランクを抱えるなりしていれば、こんなことにはならなかったものを。弱い自分に腹が立つ。
「てことは、帰る金がないってことか」
「着替えもないわ」
「まじかよ」
トッドが頭を抱えてああっ、と唸る。自分だってそうしたいが、今下手に姿勢を変えると余計に気分が悪くなりそうなので、しない。できない。
トッドはその銅色の前髪を掻き上げて、呟いた。
「これ造船所のみんなにどう説明すんだよ」
「どうって」
サイの言葉に、返事はなかった。独語しただけのようだった。ともかく説明はトッドに任せ、これからの身の振り方を考えよう。そう思って、窓の外へ視線を投げる。この町は白と赤の煉瓦の建物が混在して建っている。何故だろう。トッドならなぜか知っているかもしれないが、今は考え事の真っ最中だ。
ため息を吐いてその疑問を押し殺し、自分のこれからを考える。だが、金のない外国人が異国でどうやっていけばいいものか。
――言葉も通じない、金もない、宿もない。
ふうっと息を吐いた。あんまりにもないない尽くしだ。
窓の外を見れば、そりは緩いカーブを曲がろうとしていた。揺れがきつくなった気がして、気分が重くなる。
「どうしよう」
「宿なら知り合いンとこに紹介してやる」
トッドの言葉に、ゆっくりそちらを向くと、何やら覚悟を決めたような顔の幼なじみと目が合った。
「お前帰れないんだろ? だったら、俺が面倒見るしかねえだろうが」
その声はどこか、何かを諦めたようにも聞こえる。決めつけるようなその言葉に、怒りが沸いた。けれどトッドの言い分は正当なものだ。遣り切れない怒りを、膝の上で拳を握りしめた。
悔しくて、いきどおろしくて。掠れ声で私の、と呟いた。
「私の知ってるトッド・ノルドハイムはこんな奴じゃなかった」
こんな、夢を諦めきったような奴じゃなかった。サイの独白に、トッドが目を伏せる。そのまま、彼は言った。そりの中に、僅かな風が巻き起こる。
「お前は、船を作るって簡単に言うがな。船に強度を持たせたり、防寒対策したり……。つまりそう簡単なことじゃねえんだぞ」
俯いていて、詳しい表情はよくわからない。声にも大して感情は乗せられていなかった。事実を淡々と述べている、と言った印象だ。
そんなことはサイも知っている。伊達にトッドの幼馴染みをやっていたわけではない。トッドは空船の種類から、作り方、材料に至るまで、サイに事細かく語っていたのだ。だから、サイは自分が盗難にあったことがどれぐらい重要なことか理解しているつもりだ。
「わかってる、わかってるから、あなたたちに託したんじゃない」
サイの言葉に、膝の上で堅く握られていたトッドの手が、一瞬ほどかれ、再び握られた。気分が悪い。それはそりの揺れだけが理由ではなかった。窓が開いているせいだろうか、風が酷い。
「あんたは、やってみたいとは思わないの?」
弾かれたようにトッドが顔を上げてサイの銀の目を見た。サイもトッドの銅色の目を見つめ返す。それほど速く走っているわけではないのに、風がひどい音を立てていた。無言のやり取りの後、トッドが首を振ることでサイに答えた。
「確かにやってみたいねえ。成功したら世界初の偉業だぜ?」
言葉に反して、声音は諦念に満ちていた。サイはそれに唇を噛んだ。それを見て、トッドが呟く。
「世界にはさ、出来ることと出来ないことがあるんだ」
先ほどの沈黙の半分もしないうちに、そりは青皮造船所のあるソレーンへと到着した。