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1章 幕間・下

 アルファードは、アニーシヤの命令で定期的に中央の実情を彼女に伝える役割を担っていた。その代わりに、アルファードは東部に住む里子の無事が確保される。二人は実にビジネスライクな関係で結ばれていた。
 そこで一端言葉を切って、アルファードは周囲の気配を探った。これから交わされる会話が、他人に聞かれても大丈夫だとは、とても思えなかった。
 ぴくり、アルファードのアイボリーの目が神経質に動く。
「大丈夫だ。人払いはしてある」
 その言葉に絶対の自信を乗せて、アニーシヤは掌でナイフを玩ぶ。一体どこから取り出した。アルファードはその光景に冷や汗をかいた。
「――分かりました、続けます。やはり上層部はあちらに戦争をふっかけるそうです」
「ふむ?」
「少し前に、フォルトブルクとの間に首脳会談が行われていたんです」
 フォルトブルグとは、隣国の名前だ。永久氷の所有権を争って、今までに三度の領土戦争を繰り広げていた。
「早いな。新聞にも載ってないぞ」
 感心したように言って、アニーシヤは口元を釣り上げた。続けますよ? というアルファードの問いかけに、何やら考え込むような表情になって頷いた。
「まあ、首脳会談があったはあったんですが、無駄に終わりまして」
「どうせ『永久氷はこっちのものだ』って、言い合いになったんだろう」
「伯父さんからの伝手なので、細かいことは知りませんが」
「いや、違いない」
 いやに自信満々に言い切るアニーシヤに、アルファードは苦笑を浮かべた。
 時期に新聞に載るでしょうね。アルファードはそう締めくくった。その新聞よりも早い報告に、アニーシヤは鼻を鳴らす。
「まあ、永久氷の真下は豊かな漁場だからな。国益になる。――しかし」
 戦争か。アニーシヤは呟いて、短く息を吐いた。アルファードは、それに吐息のような声で頷いた。永久氷――隣国との国境に広がる凍った海。彼女は僅かに俯き、額に手を当てた。
「上も馬鹿なことを考える。結果に見合わぬ被害を受けたらどうするというのか」
「珍しく大佐が弱気ですね」
 アルファードの指摘にアニーシヤはああ、と呻き、その紅色の前髪を掻き上げた。
「永久氷くらい、向こうにくれてやっても良いと思ったまでだ」
 よくもまあ、こんなことを言ってのける――。アルファードは戦慄いた。仮にもここは軍部である。もし、このことを上層部に密告でもされたら「消されて」しまうかも知れないと言うに。
 神経質に周囲を見回すアルファードを、アニーシヤがせせら笑う。
「おや、お前がこんなことで怯えるのか? 何のためにこの情報を仕入れてきたんだ」
「それは……」
 アルファードは答えに窮した。
 この会話が他に知れてはならない。もし誰かに知れた時は、そのときはきっと反逆罪で死刑だ。だったら最初からこんなことしなければいい。アニーシヤの切れ長の瞳が言外にそう言う。
 どう答えれば良いのかわからなかった。何のためと言われても、里子は交渉の手段の一つだから保護するのであるし、目の前にいるアニーシヤのように、国家に復讐したい訳でもない。
 つまり、アルファードには命を賭けてまでアニーシヤの手駒になる理由はない。
「今の政府が、許せないからです」
 思いつくものがなくて、仕方なしにアニーシヤが喜ぶであろう答えを述べる。
 これは本当に本心だろうか。疑念から、声が陰った。
 アルファードの答えに、アニーシヤは真意の見えない笑みを浮かべた。もしかすると、アルファードに信念がないことなど、お見通しなのかもしれない。
「甘っちょろい。甘っちょろいが、まあ、いい」
 アニーシヤはそう言って、薄暗い笑みを浮かべた。眩しい青の瞳がふっと細められる。相変わらず手はナイフを弄んでいた。
 部下が粗相をしたら、いつでも罰せられるようにしているのだ。もしもの時を思うと、背筋が冷える。
 ふわり、コイントスの要領で、ナイフが宙を舞った。
「まあ、今のところ上層部が馬鹿を考えていることが分かった。ああそうだ」
 何かを思い出したらしくアニーシヤは両手を合わせた。ナイフが手に挟み込まれる形で収まった。
 血まみれになった先輩の手を幻視した気がして、アルファードはめまいを覚えた気がした。
「なんです?」
「あー、なんて名前だったか、お前の弟の件だ」
 フィリクス? とアルファードは気の抜けた声を出した。どじで不運な弟の顔を思い描いて、アルファードは、はあ、魂の抜けそうなため息をつく。急に緊張が解けたような気分だった。
「あいつが一体何やらかしたんです?」
 まあ黙って聞け。そう言うアニーシヤの声は平坦に響いた。
「お前はこれから北部へ行く予定があるはずだ。無かったら作ってやる。そこで司令のノーベルフ少将にこれを渡してこい」
 アニーシヤが引き出しから取り出したのは、札束だ。およそ一万ルスはあるだろうか。
「もちろんお前が向かうときまでに、この十倍は用意する。ついでに弟に栄転の知らせを届けてやれ」
 最早つっこむ気力すら失せるほどの金遣いだ。だが、そんなことよりも、アルファードには気にかかることが二つばかりあった。
「あいつが栄転?」
 途端に、顔の真横をナイフが過ぎった。
「口の利き方に気をつけな」
「は!」
 遅れて、冷や汗がどっと溢れてくる。心臓がバクバク騒いでいた。アニーシヤは大丈夫だというが、正直当てに来てる気しかしない。彼女の趣味に付き合って怪我をした人間はいない“はず”だが。
「まあ、お前にも前に話したろ。例の件だ」
「……ああ。了解しました」
 先程よりも幾分か暗いトーンで応えて、アルファードは最も気がかりなことを問うた。
「僕はいつ中央へ帰れるんです?」
「聞いてなかったか。お前しばらく東部の預かりになったから」
 アニーシヤの暴君発言に、アルファードは硬直してしまって、しばらく返事をすることができなかった。