Novel

ある北国の物語改_二章 12

 茶番はアルファードがため息をついたことで終わった。
「もういいですよ。こうしているだけ時間の無駄だ」
「そうか、有り難い」
 腕をさすりながら、まるで反省の様子を見せずにトッドが返す。
「駅の外に迎えのそりが来ています。行きましょう」
 それだけ言うと、アルファードは再び列車の外に姿を消す。
 サイは軽いトランクを片手にアルファードの後へ続く。その後ろで、トッドのくしゃみと、彼がのろのろとした足取りで着いてくる音が聞こえた。
 駅の外は、まだ半分雪が積もった大地が広がっていた。丁度石畳が終わるところに、馬車もとい角鹿車が停まっていた。
 ソレーンやモントレビーで凍った川の上を走っていたトナキアとは違って、人が乗る箱の下はそりではなく車輪が付いている。紛うことなき角鹿車だった。
「そりじゃないのね」
 そのことを口に出して呟くと、どうも聞こえたらしいアルファードが、流石に雪か溶けますからね、と答えた。
「五月ともなると、雪国クローヴルでも雪融けが始まる時期ですから」
「へえ」
 道中の景色からは、そうは見えなかったが。サイはあえてそれを言おうとは思わなかった。
 確かに、そりは泥濘(ぬかる)んだ土の上を走れない。これだけ寒ければ土も凍っていそうなものだが、そもそもそりは土の上を走るものではない。アルファードが言うには、北方のトナキアは季節によってそりの部分を車輪に付け替えているのだという。どこか上機嫌に語るアルファードに、サイはへえ、とだけ相槌を打った。
「早く行こうぜ」
 寒さに震えるトッドが、体全体を震わせながらサイの後ろでそう言った。
 トッドに急かされ、二人はいそいそと角鹿車へ乗りこんだ。
 全員が乗り込んだそりは、ゆっくりと動き出す。
 角鹿車はまずプーリャニジェに向かった。視察に向かうアルファードに、サイたちが便乗している、という態をとっているからだ。
「それで」
 大して広くないそりの中を、銅(あかがね)色の瞳で見回したトッドが口を開いた。そりの中は馬車のような形をしていて、大人三人が乗り込むと少し窮屈だ(サイをこの数に入れるのは少し間違っているかもしれないが)。
「あんたはあんたの仕事があるんだろ。それが終わるまで、俺たちはどうしていればいい」
 そうアルファードに問うトッドの声は、寒さのせいかたどたどしい。
「その件だが、プーリャニジェに居酒屋があるからね。そこで少し待っていてもらいたいんだ」
「へえ、それは御大層なこって」
 トッドのわかりやすい皮肉に、アルファードは視線を逸らせた。わかってくれ、という車輪の音にかき消されそうな声が、言い訳がましく返されるだけだ。
「あくまでこれは『僕の』北方視察任務だ。だから余計な金はかけられない」
「へいへい。軍人さんは大変ですねえ、と」
 軽口を言いながら、トッドの視線はアルファードのトランクに向いていた。その態度に、なんとなく、サイにもその中身の検討がついてしまって、元から悪かった気分が更に悪くなる。
「本当に、お金は出せないのね?」
 念を押すように訊くと、アルファードの視線は怯えるようにうろうろと彷徨った。
「公費ですから」
 呟くような声は角鹿車の外の雪に吸い込まれていくようだった。
「ねえ、訊いていいかしら」
「何でしょう」
「どうして列車を動かしてくれたの」
 サイの銀色の瞳がアルファードの象牙色の双眸を射抜く。あからさまに敵対するわけでもなく、かと言って積極的に味方するわけでもなく。どっちつかずなアルファードの対応に苛ついた。
 「公費だから金は出せない」と言い張るこの態度を見る限り、この男は間違いなく軍の人間だ。だが、それでもこうやって中途半端にサイたち(正確には友人であるトッド)の手助けをしようとする。けれど、それは転んで血を流している子どもに、ああ痛そうだね、可哀想に、という口だけの慰めを与えるようなものだ。
 そんなもの善意にすらならない。そんな半端な行動を取る彼の真意が、よくわからない。わからないから苛々する。
「その質問には答えかねます」
 アルファードは目をそらして、先延ばしの答えを返してきた。
 それきり会話が途絶えた。そりは土砂混じりの雪原を行く。時たまそりが氷塊に乗り上げてひどく揺れることはあるが、行程そのものは順調だ。お陰で気分が悪いことこの上ないが。
 きまずい空気が取り払われぬまま、角鹿車は北都プーリャニジェへと辿り着いた。
 プーリャニジェは北方司令部所在地だ。そこは、東都ソレーンと比べると堅牢で雑多な街、という喩えが正しいように思える街並みをしていた。
 実際、中央都とソレーンで敢行された都市計画が、プーリャニジェでは自然の猛威の前に潰えた、という記録があるので、雑多なのは仕方のないことなのだろう。
 寄せる吹雪を防ぐために、街の四方は壁が建てられていた。家々も、ソレーンに比べればより堅固な造りをしている。
「なんか寒々しいわね」
 街を見渡して、サイは言った。
「それはそうだろう」
 自分で自分を抱きしめるようにしながら、トッドが返す。
「北方にいるから寒いっていうんじゃないわよ。私が言いたいのは、人が少ないわねって」
 街はあのがらんどうの駅のように閑散としていた。街を歩く人間は一見して見当たらない。
「だから、寒いから、人が出歩かねえんだろが」
 全くの正論だった。それもそうかと頷いて、再び静かな街並みを眺めた。人のいない街は、こうも冷えて見えるものだろうか。頭の中に賑々しい職人街を思い描いてみて、その温度差にくしゃみをしそうになる。あの騒がしい街は、人のぬくもりであんなにも暖かかったのに。
「行きますよ」
 振り返ると、少し先でアルファードがぽつねんと立っている。トッドには到底真似できないであろう芸当である。
 早足でアルファードのところまで辿り着く。流石に怖くて駆け足は出来なかった。転んで骨を折ったなんてことになったら笑えない。他人よりも体が弱い自覚はあるのだ。
 そんなサイから少し遅れて、トッドがアルファードのもとへ辿り着く。この幼馴染みの場合は、転ぶのが怖いというよりは、ただひたすらに寒さからの鈍行だ。
 そうしてサイたちはアルファードに案内されて、街の一角にある居酒屋へと足を踏み入れたのだった。
 街も閑静だが、そこにある店も街の気質を表したかのように静かだ。客の少なさは黒猫亭並みだろうが、何故か黒猫亭以上に静かであるような感じがする。
「なにか食べるかい」
 カウンターで話をしていたアルファードが立ち去ると、入れ替わるように厨房の奥から厳めしい顔の親父さんが姿を現した。きっと彼がこの店の店主なのだろう。
「他に従業員はいないの?」
 トッドと二人して隅のテーブルにかけながら訊いた。サイとしては単なる話題提供のつもりだったのだが、思いの外際どいところをついてしまったらしい。向かいからトッドのため息が聞こえ、店主の顔には厳しい皺が刻まれた。
「雇えると思うかい」
「そうね。失礼したわ」店主の皮肉のような言葉から目を逸らすように、机の上に放られたメニューを見た。
「そういえば、料金は誰持ちなの」
 言外に当然アルファード持ちでしょうね、という意味を含ませながら、トッドと店主を見比べる。二人とも肩を竦めるばかりだった。トッドは苦笑に失敗したような顔で言った。
「あいつ『自分が払う』とは言ってなかったからな。あんま高いもんは食うな」
 訝しく思って、サイがだんまりを続けていると、軍人と約束するときは「証拠」がいるもんだ、と相好を崩しながら言った。
「今一番欲しいのは証人だな。おいおやっさん、あいつ金を払うって言ってたか?」
「いいや」
 店主が首を振るのに、トッドが再び肩を竦めて見せる。
「最低でも言質は欲しい。が、何も言ってなかったからなあ、自分持ちじゃねえの」
「なるほどねえ」
 サイからしてみれば、単純に軍人は「敵」である。だが、もし「敵」と約束事を結びたいなら、これは随分新鮮で重要な「技術」だ。
「そうやって相手を計(はか)るのね」
「人聞きの悪い」
「お客さん、なんにします」
 若干苛立ったように店主が訊いてくる。その質問に、トッドは少し黙ってから、一番安いメニューを、と答えた。
 じろりと睨むような店主の視線がこちらを向いた。言外に、早くしろと言っている。
「じゃあ、彼と同じものを」
「へい」
 そう言ったきり、店主は店の奥の厨房へと引っ込んでしまった。
「お前さ」
 唐突にトッドが口を開いた。だがそのあとは続かなかった。彼が思案するように口を閉ざしたからだ。顔色を見るに、どうも話題の取っ掛かりを探しているようだ。やがて幼馴染みはおもむろに口を開いた。どうもサイの繊細な問題に触れることを危惧しているようで、言葉は途切れ途切れだったが。
「その、『ワン・サイ』って名乗ってたけど、違ったろ。名字」
「ええ」
「カルベ、だったか」
「カリベよ」
 サイの些細な言い直しに、トッドは僅かに表情を引きつらせたが、結局何も言わなかった。
「その、なんでって、聞いていいか」
「別に構わないわ」
 少なくともサイの考える限り、世間一般でいう繊細な理由――例えば、両親の離婚とか――ではないので、特に気にしてはいなかった。サイとしてはむしろ、親の遺志を引き継いでいる分そんな理由よりもよほど誇らしいと思っていた。
「父さんが死んだからよ。しきたりで、父さんの名前を――つまり父さんと同じ苗字を名乗れなくなったってだけ」
 サイの言葉に、トッドはフードの下で、痛ましげな、あるいは同情のような表情を浮かべた。
「いつ」
「あなたが旅立って一年後くらいかしらね」
「ずいぶん前じゃねえか」
 詰問するような低い声でトッドが言う。サイはそれに首を傾げた。幼馴染みが何に対して怒っているのかわからなかった。流石に長い間離ればなれだと、齟齬が出てくるらしい。
「そうかしらね? 十年も前のことじゃないし」
「そういうことじゃなくてだな!」
 かっとなったトッドが立ち上がるのと、店主が甘ったるいにおいと一緒に、二つのマグを持ってくるのは同じだった。どうやら甘いにおいはマグの中から発せられているようだった。どうやら甘いにおいはマグの中から発せられているようだった。
「パタールチャイおまちどう」
 マグの中には茶色くてどろどろとした液体が入っている。「お茶(チャイ)」には到底見えない代物だ。トッドは先程までの怒りを忘れたように、椅子に力なく腰を落とした。茶色くて見た目が相当悪いうえに、見てくれに似合わない甘ったるい香りが、食欲を減退させるのに、確実に一役買っていた。
「これ、なんだ?」
 トッドが恐る恐るといった様子で店主に尋ねる。訊かれた店主は、驚いたように目を瞬かせてから、今までの強面をくしゃりと崩して滔々と語り始めた。
「お客さんこの辺初めてかい? ならパタールチャイ初めてなのも仕方ないね。でもせかく北部に来たなら飲まなきゃ損だよ」
 パタールティーは乾燥させたパタールの木の枝が煮崩れるまで煮詰め、それを煮汁ごとペースト状にしたものであること。味については、慣れない者にとってはただ甘いだけなので、濃厚な砂糖水を飲んでいるような気分になることは確実だということ。
 砂糖が採れない北部で、パタールチャイのペーストが砂糖代わりに使用される現状から、その甘さは推して知るべしであるということ。
 そもそも、パタールチャイは健康食品である。なぜかというと、北部において数少ない糖分補給源なのだということを店主は語った。
 全体的にパタールチャイの負の側面しか語られていない気がするのは、間違いではないだろう。
 そして店主の言葉が正しければ、このお茶は相当甘い。それも歯が溶けそうになるくらいには。
 サイはトッドと一瞬視線を合わせると、マグの中の澱みを一気に飲んだ。舌に襲い掛かる、噎せ返るような甘さに、サイはそれでもマグを傾けるのをやめなかった。途中でやめたら二度と飲めなくなる気がしたからだ。飲み干したときには、口の中にはただ甘いのが残っていて、喉の奥は灼けたように熱を持っていた。そこからさらに甘いのが遡ってきて吐きそうだ。鼻は甘ったるい匂いで馬鹿になっていた。
 もう二度と飲まない。そんな決意を固めながら、サイはテーブルにマグを叩き付けた。
 その雄々しい様に、眺めていた男二人から称賛の拍手を送られた。全く嬉しくない。
「次はあんたの番よ」
 一気飲みをしたせいで若干声が枯れていた。
「いやあ、遠慮しておく」
 トッドは爽やかな笑顔でそう言い放った。逆の立場だったらサイだって同じことをするだろう。その心理はわかる。だが、自分だけがこんなゲテモノを飲んだという事実が理不尽でむかついた。
「пить(飲め)!」
「そうだよ。お客さんもたいねえよ、せかくのパタールチャイだよ」
 吼えたサイに便乗するように、訛り気味の店主がまくしたてていく。トッドは二人の顔とパタールチャイとを見比べ、何か決心したように眉を寄せた。
「わぁーったよ、飲みゃいいんだろ、飲みゃあ」
 こんなもんに怯んだら青皮造船所筆頭の名が折れるわ、と独り言ちて、トッドはマグを煽った。途中でパタールチャイの甘さに顔を顰めたようだが、それでも飲み干すまでマグを口から離さなかった。
 そうして咳き込みながら、トッドは空になったマグを、サイと同じようにテーブルに叩きつけた。その雄々しさに称賛の拍手を送る。
「嬉しくねえ」
 げんなりと項垂れたトッドの姿がやけにおかしくて、サイは声をあげて笑った。