Novel

二章 7

 翌日目が覚めてみると、それは地獄のようだった。頭が痛い、気分が悪い。しかもなんだか吐き気がする。これは二日酔いだと当たりをつけるまで、時間はそうかからなかった。
 ふらふらする体をどうにか叱咤して、階下のホールに顔を出した。顔を出した途端、シードルが気まずそうに目を逸らしたのは、一体どういうことだろう。
「あー、ねえ、シードル。私、何かした?」
 なんせ窓辺でトッドと語らっていた辺りからの記憶がない。もしかすると、うっかり度のきつい酒でも含んでしまって、彼に何かしたのかもしれない。……いや、絶対にそうだ。
 サイの問いかけに、シードルは無言で首を横に振ると、いそいそとキッチンに引っ込んだ。
 ナージャに比べれば、確かにシードルとは仲が良いとは言えないが、ここまで他人行儀にされるほどだったろうか。
 不意に吐き気がせり上がってきて、サイは咄嗟にトイレへと駆け込んだ。
 中身を戻したせいで、余計に気分が悪くなった気がする。頭の痛みもがんがんと鳴るようだった。
 というか、二日酔いするまで飲んだだろうか。その辺も曖昧だ。
「大丈夫?」
 口の中に残った気持ち悪いのをゆすいでいるところで、背後からナージャに声をかけられた。そう言えば彼女は酒が嫌いなのだったか。昨日の宴会にはいなかった。
「大丈夫よ」
 言って、酒気が多分に染みているだろう服を見下ろした。これはシャワーしたほうがいろいろと手っ取り早い。
「ナージャ、その」
「あ、シャワーするんでしょ。着替え、用意するから」
 やや表情の優れない顔でナージャはそう言うと、着替えのある二階へとぱたぱたかけていった。やはり酒の臭いが嫌だったんだろう。申し訳ないと思いながら、シャワールームへと向かった。
 慣れない形式のシャワールームで四苦八苦しながら、どうにか昨日の汚れを落とすことに成功する。
 そして用意されていた着古されたシャツに袖を通す。シャツの下には紺色のセーターが置かれていた。
 シャツもセーターも大きくぶかぶかで、サイが着れば袖は余るし、セーターに至っては丈が膝まである。一応袖に関しては修正が入っていたが、それでも余るこれはなんなのか。ため息をつきながら次にかかる。着られればそれでいいのだから。
 セーターの下には茶色いズボン。その下にはブーツやベルト、レイピア、それに新品の白いマフラーが並べられていた。ズボンとブーツを履いて、セーターの上からベルトを巻く。ベルトにレイピアをはさみこんで、最後にマフラーを巻けば――若干着込み過ぎな気もするが――完璧だ。
 鏡で全体像を見れば、ナージャが(もしかするとマールファかもしれないが)、サイに女の子らしい格好をさせたいらしいというのがよくわかる。
 丈の長いセーターは、こうしてみればワンピースのように見え、なるほどただ長いだけの丈が、充分に役に立っていた。
「サイ、終わった?」
「ええ」
 ドアの外からナージャからためらいがちに声をかけられる。それに返事をすると、しずしずとドアが開いた。ナージャは一目サイの姿を認めるなり、歓喜の声を上げた。
「サイ綺麗!」
 子ども特有の、悲鳴のような甲高い声でナージャは誉めたてる。何を言っているのかわからなかったけれども、言葉の端々から聞き取れる「間違いはなかった」、「さすがマールファ」、「見立て」などの言葉を聞く限り、やはり着せ替え人形にされたのだろう。なんだか腑に落ちないけれど。
 ナージャを宥めながら、サイはホールへと戻った。ホールではマールファとシードルが昨日の片付けと、今日の店開きの準備をしていた。サイがカウンターにつくと朝食が差し出される。昨晩どんちゃん騒ぎをしたせいだろうか、それともサイの二日酔いを慮ったのか、差し出された朝食は質素だ。
「あ、ねえ。そう言えばトッドたちは?」
 工房にいるかしら、サイが何の気なしに呟いた、いつも通りの状況確認は、なぜかその場を凍りつかせた。サイの言葉が、まるで彼らを凍り付かせる魔法の呪文であったかのように。
 やがて魔法が解けたナージャとシードルは、どういうわけか視線を逸らした。マールファも表情を強張らせていたが、いつも通り、いや、いつも以上に丁寧な様子でお茶を煎れた。
「ええ、そうよ。その通りだから、何もそこまで気にすることないんじゃない?」
「いいえ、確認しなくちゃ。私、何か変なことしたかも」
 もしそうだったらこの先延々とトッドにからかわれ続けるのだ。だから昨日何があったのか早く問い詰めなければならない。
「何もなかったわよ」
「そう?」
 おっとり諭すようなマールファの声に、うつむき加減だったサイの顔が跳ね上がる。自分が変なことをしていないのであれば安心だ。何より嫌なのは、記憶がないうちに粗相をやらかして、それをトッドにからかわれたり、後々弱みとして握られたりすることだ。その心配がないなら問題ない。
 問題がないなら、二日酔いの頭痛を押してまで造船所に行くこともない。
「駄目」
 それまで静かに事態を眺めていたナージャが、唐突に口を開いた。そこには、さっきサイを着せ替え人形にしていた溌剌さは消えて、なにか痛ましいものを見る目があった。
「サイ、行かなきゃ、駄目」
 その声は震えていた。
「黙りなさいナージャ」
 マールファが焦ったように叱りつけたが、少女は怯まなかった。
「黙らない! サイ、駅に行って。引き留めてごめんなさい。でも、わかって!」
「ナージャ!」
 激昂しかかったマールファを、シードルが無言で押し留めるのを横目に見る。どうも尋常でないことが、凍った水面の下で、しかも自分の足元で起こっているらしかった。しかもその氷には罅(ひび)が入っているとみた。
「行って、サイ。ソレーン中央駅! じゃないとあなた後悔する」
 訳の分からない焦燥と、足場が崩れていくような恐怖。駄目押しでナージャに叩き出され、サイはとにかく駆け出した。
 行き先はソレーン中央駅。予測が正しいなら――北部行きの列車の出発地だ。