Novel

二章 6

 軍からの返事のないままの一年は、確実に職人たちの不信感と焦燥を煽っているようだった。空を覆う分厚い雲に蓋をされたせいで、それが職人たちは苛立ちを溜め込んでいるようにも見えた。黒猫亭での飲み会も、苛立ちの発散には足らないらしい。 普段は二、三日しかソレーンに滞在しないと言うアルファードが、立ち去る気配がないのも、苛立ちの原因の一つだろう。
 ――どうして奴はここにいるのに、返事の一つもないんだ! 鬱屈とした工房の中、そんな声が聞こえるかのようだった。
 サイはあの怒鳴り込み以来、ちょくちょく造船所に顔を出しては、手伝うようになっていた。あのあと、どうも機嫌の悪かったらしいトーボーグと大喧嘩になり、結局トッドに宥めて貰ったのはいい思い出である。
 そのせいでトーボーグとの間に若干の溝ができてしまったが、まあ、気にすることではないだろう。
「おいお前ら!」
 今日は非番で、その代わりに配給にでかけていたはずのトッドが、慌てた様子で帰ってきた。があん、とドアが盛大な音を立てた。
 トッドはやけに息を切らせていてた。重い荷物を背負って全力で走って来たからだろうが、どうしてそんなことをする必要があったのだろう。
 その疑問は、トッドの雄叫びによって消し飛んだ。
「北部行きの列車が、出るぞ!」
 一瞬何を言われたのかわからず、誰も何も言わなかった。列車が出る。どこへ? 北部へ。そんな情報が、遅れて頭の中へ伝わってくる。
 じわじわと歓喜が五臓に染み渡るように伝わって、まなじりには涙が滲んだ。
「本当に? 嘘じゃないの」
 そんなことはないだろうが、これが職人たちを見かねての嘘だとしたら、流石のサイでも容赦ができる気がしない。
「嘘じゃない。今日アルファードに訊いたんだ。そしたら、ようやく許可が下りたって!」
 トッドの言葉に、よっしゃあ! と工房中に歓喜の渦が湧き上がった。職人たちは、今夜は祝い酒だ! と騒いでいる。
 そうして、その日の夕方は祝いに費やされた。その夜は誰かの宣言通り、祝い酒であった。
 黒猫亭のカウンターに安酒が並ぶ。居酒屋じゃないんだけどねえ、とマールファは苦笑するけれども、結構嬉しそうに笑っているように見えた。酒が苦手なナージャは早々に二階に引き上げてしまったが。
 当局に目をつけられない程度に騒いで呑む。話によると、口封じのために近所の住民にも酒を振る舞っていたそうだ。
 酒の席となればある程度無礼講となる。サイもそれを承知して、回ってきた酒は拒まず口に含んでいた。トッドは宴の主人公として、あちこちに引っ張りだこだ。
 彼に降りかかったのはまず職人達から賛辞の雨。具体的に言えば、酒を頭から振りかけられたのであった。
「やめろよ、全部が俺の力って訳でもねぇだろう」
 トッドがそう言っても、職人達からの賞賛は降り止まない。
 そうして近所の住民や、共同で船を作る赤鳥織布所の面々から労いの声をかけられた。
 サイはそれを遠目に眺めながら、酒を飲んで火照った体を冷ますために、窓を開けて涼んでいた。背後では、未だ喧騒が尾を引いて騒がしい。
 冷たい夜風が頬を撫でて心地良い。サイが快い涼しさに浸って微睡んでいると、不意に窓が閉められた。こんなことをする奴は一人しかいない。
「ちょっと、トッド」
 振り向くと、眉を寄せたトッドがぼんやりと立っていた。トッドの像がぐらぐら歪んで、焦点が合わない。
 ああ酔っているな。頭の中の、冷静な部分がそう判断する。
「寒いだろうが」
 いつものように、いつも通りにトッドは言う。
「むしろ暑いじゃないのよお」
「酔っ払いが……」
 呆れたようにトッドは言った。どうも他人の面倒を見るために酒を控えているようだった。ご苦労なことである。
 トッドはそのまま窓を閉めた。こっちは暑苦しくてかなわないというのに。そんな視線をトッドに投げかけると、いつの間にか隣に並んでいた幼馴染みは、苦笑して肩をすくめるだけだった。
「なあ、サイ。もし俺が」
 トッドの言葉は途中で途切れた。背後でがしゃあんという大きな音が鳴り響いたからだ。
 どうもそれが酔っ払ったトーボーグが、グラスを放り投げた音であるらしいと分かると、振り向いていた二人は元通り前に向き直る。そのタイミングが妙にぴったりなのがおかしくて、笑ってしまう。
「何がおかしい」
「いや、ちょっと」
 どうもやはり酔っているようだ。些細なことがおかしくておかしくて仕方がない。ひとしきり笑ったあとで、そう言えばトッドが何かを言いかけていたことを思い出した。
「ねえトッド。さっきなんて言ったの」
「……あれか」
「もしかして、俺が消えたらどうするーとかそんなん?」
 隣で体を強張らせる気配がした。サイはそれに構わず話し続ける。
「あんた、クローヴルに行くときも、似たようなこと言ってたじゃないの」
「……そうだったか?」
「そうよ。けどね、五年前から答えは決まってんのよ。私は私のやるべきことをやる、あんたはあんたのするべきことをする」
 そうだな、と喧騒に紛れて消えそうな声で、トッドが呟き返した。サイはそれに満足して、その場にあったグラスを僅かに傾けた。気分が高揚して、思考がふわふわとまとまらなくなっていく。
「そもそもねえ、先に雲の上に行くべきは私なのよ」
「は?」
「私じゃなきゃおかしーの。あのときは負けたけろお、こんどは、じぇーったいに、私が」
「お前、飲み過ぎだ!」
 そう言うトッドにグラスを奪い取られた。あにすんらー、そう抵抗しても体がふにゃふにゃになったようにうまく力が入らない。
 グラスの中身を見たらしいトッドの、げえっという声が聞こえた。なにか拙いものでも飲んでいただろうか。
 段々と瞼が重くなっていく。ああ、眠い。
 呼びかけてくるトッドの声が遠い。サイはぼんやりとした思考のまま、ふわふわとした浮遊感に身を任せた。