Novel

刹那 フィリクス・オンニ・S・ノリネン

 空は気がおかしくなりそうなほどの快晴だ。雲一つない。
 澄みきり、乾燥して凍てついた空気を吸い込んで、白い息を吐いた。口の中が凍えて寒い。小屋の屋根の雪下ろしは、ようやく四分の一が終わるかという頃合いだった。
 見渡すと、白いばかりで何もない。それがまた頭がどうにかなりそうなぐらいに。
 ここはクローヴル北部の国境警備小屋だ。だが、今まさに領土戦争が起こりそうな西部の永久氷とは違って、小屋が一つあるだけで他は何もない。
「当然だよな、北には宗主国様がいるんだもの」
 独語する。ここには自分自身ぐらいしか話す相手がいなかった。休めていた手を、また雪下ろしに向かわせる。あまり小屋の周囲を見たくないのもあった。小屋の周囲はだだっ広い雪原が滅入るくらいに広がっているのだ。
 それにさっさと雪を下さないと小屋が危ない。積もった雪の重みで潰れてしまうかもしれない。所詮はありあわせで作られたあばら家だから、強度のほどは期待できないのだ。皮肉にも積雪のおかげか、隙間風が吹きこまないだけまだましと言えよう。
 魂が吸い込まれそうな青空に向かって、おもむろに口を開いた。こぼれ出たのは、故郷で歌われる民謡だ。
「On Suuri Sun?Rantas Autius……」
 選曲が悪かったろうか。声は物悲しく響いた。いや――、と思い直す。こんなところで民謡を歌ったって、虚しいだけだ。そう首を振って、雪下ろしに集中する。これを下ろせば、半分が終わる。
 雪を下ろすと、白い息を吐いてその場にへたり込んだ。疲れと、凍えで体が動かない。もう一度息を吐いて、どうにかこうにか地上に降りる。降りる途中で、足を滑らせてこけた。下が雪でよかったと、頭の片隅で思った。
 そのままぼんやりと空を見上げる。真っ青だ。
「もう、何日晴れなんだっけ」
 数えてないからおもいだせない。少なくともここ一週間は晴れ続きだった。晴れたまま雪が降らないから、雪が凍って余計に重く感じるのだ――と疲労の原因に当たりをつける。フィリクスだって軍人だ。下士官だけれども。
 いや、むしろ下士官だからこそ、それなりに鍛えているはずの体がきしむのは、やはり自然のせい。雪が凍っているせいだ。
 のろのろと体を起こして、昼食を食べるために小屋に入る。
 小屋に入って、気付く。食料を切らしていることに。けれどそのことを、誰にどう伝えればいいのだろう。この小屋にはそりが常備されていない。電話はあるが、かけたところで向こうがそれをまともに受けてくれるかどうか。
 ――つまりここは隔絶されたも同然だ。
 フィリクスは薄っすらと笑みを浮かべた。自嘲の笑みだった。自分が惨めだと涙を流すよりかは、笑っていた方が体力温存的にもまだましだ。ああ、本当に頭がいかれたのかもしれない。気分を紛らわすための酒は、随分前に切らしていた。
「誰が見つけてくれんだろ」
 こんなところで死んだら、きっと誰も見つけてくれないだろう。その事実が、一層惨めさを煽った。
 フィリクスに両親はいない。二人とも軍に対する反逆罪で殺されてしまっていた。一応兄がいるが、あれはこんな僻地にいる弟に構う性格じゃない。
 つまりフィリクスは今独りだった。
 思考はどんどん暗いほうへ暗いほうへと導かれていく。空腹なせいだろうか。視線は台所へ向いた。あそこには包丁がある。こんなところで人一人いなくなろうが、だれも構わない。
 ふっと我に返ると、可笑しさがこみあげてきて、四角い小屋に一人の笑い声が響いた。自分の思考の突飛さに笑いが止まらない。まるで夢でも見ていたかのような心地だ。
 一通り笑うと、腹が空腹を主張する。少なからず腹筋を使ったせいだ。どこをどう探しても食料がないのは、家主のフィリクス自身よくよく理解していた。こんなところで野垂れ死ぬ訳にはいかない、さてどうするか。
「おいフィリクス、生きてるか!」
 不意に騒々しくドアが開かれたかと思うと、親友のタピオが怒鳴りこんできた。フィリクスは呆然と、友人が荒々しく小屋に踏み込んでくるのを眺めていた。どさり、タピオが乗り込んで来たせいで、屋根の雪が落ちた音がする。ああ、まだ雪下ろしが途中なんだった。
「何の用だい」
 奇妙な生き物を眺めるように、親友を見る。実際なんでこいつがこんな辺境に来たか謎だった。
 フィリクスの問いかけに、タピオは鼻を鳴らした。
「ちょっとでもお前がいい暮らしできるようにって、食料届けに来たんだよ。長老のいいつけでな」
「それはありがたい」
 実際食料が切れていたのだから、こんなにありがたい贈り物はなかった。
「けどお前、『生きてるか』って……。僕が死んでると思っていたのかい?」
 親友はフィリクスの意趣返しのような言葉に、少し表情を引き攣らせた。これは「なにかやらかした」時の表情だ。
「だってよう。雪下ろし途中でほっぽられてたから、何かあったのかと」
「悪いね、昼食の準備してたんだ」
 からかうように言ってやると、タピオは自分の間違いを指摘されたのが癪に触ったんだろう。むっとしたような表情になった。だがすぐににやいた表情になって、台所を指差した。
「おいおい、そんなこと言っときながら全然準備できてねえじゃねえか。もしかして、もしかしてー? 俺が来ないと危なかったんじゃないのかな? ん?」
 タピオの言葉に反応したかのように、フィリクスの空腹の虫が鳴いた。それを聞いたタピオは愉快げな表情になる。話題を切り替えようと、話を逸らすようにタピオの運んできた荷物を指差した。
「うるっさいな。それより何を持ってきたんだよ」
 指差した場所には、タピオを運んできたのであろう北方犬(スコリア)が六頭、大人しく座っていた。犬たちの後ろにはそり。そこには荷物が載せられている。
「聞いて驚け! 野菜があるぞ」
「何!」
 一年中寒く、地面の凍てつくクローヴルでは、植物が育ちにくい。だから野菜は高値で取引される。そのために野菜が食卓に上がる確率は非常に低い。だというのに。
「いったいどんな裏技を使ったっていうんだ」
 フィリクスが不審に思って尋ねるも、タピオは肩を竦めるだけだ。
「長老に訊いてくれ。俺はただ運んだだけだから」
 荷物を小屋に運び込んで、中を検(あらた)めると、肉と野菜の割合は八対二といったところだった。フィリクスは国境警備を務めているため、詳しい野菜の相場は知らないが、まあ妥当というところだろう。他は日々の消耗品が少々。
「なんだよ、これ」
 フィリクスが、裸の女性が表紙の薄っぺらい本を摘み上げると、タピオは見つかったか、とにやりとほくそ笑んだ。
「国境警備なんて暇な仕事なんだからよ、娯楽もいるかと思って」
 俺が仕込ませてもらった、というタピオに、フィリクスは顔を真っ赤にして抗議する。
「あ、有難迷惑だよ!」
「ほーお」

 そのまま、タピオは夕食を食べる時間になっても居座り続けた。
 今日の夕食は、タピオが運んできた食料を早速使ったスープだ。
「君は――食べていくか」
「当然だろ」
 いったいどのあたりが当然なのかがよくわからない。まあ、行き帰りの不便さを鑑みれば、ここで食事を摂っていた方が楽と言えば「当然」なのかもしれない。
 あーあ、僕の大切な食料がー、なんて三文芝居を打ちながら、手際よくスープを作っていく。長い一人暮らしに、いい加減料理の腕も高まろうというものだ。
 スープの中には下味をつけた肉の塊。出来上がれば、肉汁がしみ出した美味しいスープになっているに違いない。
 スープが完成するまでは、タピオから故郷の近況を聞いて暇をつぶした。誰々が村一番の角鹿を仕留めた。誰と誰が恋仲だ。そんな他愛のない話は、フィリクスの耳を上滑りしていくようだ。まるで内容が頭に入ってこない。
 そうしてできたスープは、程よく肉が煮えていて、匂いからして丁度いい塩梅(あんばい)に肉汁がしみ出していることが分かる。
「おお、美味そうだな」
 タピオから感嘆の声が漏れた。
 実際いい出来だ、と我ながら思えるものだった。あとは鍋の中の肉を切り分けて、皿によそえば完璧だ。
「流石料理上手なだけあるな」
「光栄だね」
 軽口を言い合いながら、よそったスープをテーブルに運んでいく。そうして、ようやく食事が始まる。
 スープを口に含んだ瞬間、フィリクスは妙に違和感を覚えた。慣れた料理だったから、特に味見はしてない。そのせいだろうか。そうやって二口、三口と匙を上下させるうちに、あることに気づいてしまった。
「味がしないね」
 唐突なフィリクスの言葉に、タピオは何を突然、と言いたげな表情になった。
 ついさっきまで、本当にくだらない話をしながら食事をしていた。いや、はなしと、タピオが一方的に話していると言ったほうが正しいだろうか。
 タピオが持ち込んだ雑誌の中に好みの女の子はいるかとか、その子のどんなところが好みなのかとか――そんな、本当にくだらないことを。
 なのにフィリクスの一言で、食卓がしんと静まり返ってしまったようだ。
「ああ、言いたくないってのか? そうは行かねえぞ。言わねえってんならお前の好みを村中に言いふらしたって」
 明るく振る舞うタピオの声は、深刻な雰囲気を払拭するのに失敗して上滑りしていった。 「違うよ」  饒舌なタピオの言葉尻に、どうにか引っ被せるように言った。短い否定の言葉に、タピオの顔が冗談だろう? と言いたげに歪んだ。 「ねえタピオ、このスープ、何味だい」 「何味って、そりゃ肉の味がするが。後は……胡椒?」  タピオの言葉が信じられなくて、フィリクスは再びスープを口に運んだ。少しとろみのある汁は、何の味もしない。間違いなくタピオのいうような味のスープを作ったはずだ。なのに口の中にあるのはドロドロの、何か別のものがあるようで、気持ちが悪い。
 無理に口の中のものを嚥下して、発作的に肉を頬張った。ぼそぼそした肉の塊は、まるで布を噛んでいるかのように固く、無味だった。それは何故か、いつもより固く、歯にこびりついてくるように感じられた。
 味のないものを噛み続けることが苦痛だと初めて知った。そう思ったが早いか、口の中のものを咄嗟に台所へ吐き出していた。得体のしれないものを咀嚼していられるほど、フィリクスの神経は太くない。
「おい、大丈夫か」
 流石に異常を感じ取ったらしいタピオの声に、緩く首を横に振ることしかできない。もう随分前から大丈夫じゃないのは、自分でもわかっていた。
「ねえタピオ、僕もう死ぬのかな」
 台所の縁にしがみついたまま、フィリクスが弱々しく発した問いにこたえはなかった。