「戻ったー!」
少年少女の元気な掛け声に、お帰りなさい、と穏やかな声が帰ってくる。
「大丈夫だった?」
どうも配給所の騒ぎはもう既にここまで届いているらしかった。気遣うようなマールファの声に、ナージャが頷く。そして、闇市で手に入れたものを得意げにマールファに見せた。
「これ、買えた」
それを見て、マールファはやや顔を顰めた。子どもだけであんなところに行くというのは、やはり無用心だったかもしれない。そう思ってサイが口を開きかけた時、黒猫亭の女主人はため息をついて、ナージャと目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「もう、止しなさい」
何を、とは言わなかったが、言われたナージャの方は、少し黙り込んでからただ無言で肯いた。おそらく意志の疎通は出来ているのだろう。
「シードルも、良いわね」
諭すような声に、シードルも頷いた。どうやら外野がああだこうだいう話ではなかったらしい。
なんとなく居心地が悪くなった気がして、もぞもぞ視線を彷徨わせていると、サイ、と声をかけられた。
「な、何?」
まさか声をかけられるとは思っていなかったから、思わず聞き返す声が上擦った。
「今日はどうだった?」
ああなんだ、そんなことかと、胸を撫で下ろした。もっと難しいこと――例えば外出中のナージャとシードルの様子とか――でなくてホッとする。まだそれを説明できるまでの語彙力は、サイにはない。
「ええと、すごかったわ。えー、そう、人が、一杯いたの」
ただ思いつくままに口にする。マールファはそれを黙って聞いていた。時折ナージャが補足するように口を挟む以外は、ナージャもシードルもこれと言って口を出さなかった。
「それで、ええと。二人に連れられて――“やみち”に行って」
「“闇市”よ」ナージャが言った。
「そうそれ。驚いたわ」
「どうして?」
そこで初めてマールファが口を開いた。
「だってこう」
ごちゃごちゃした、が思い浮かばなくて、それを表現しようと両手が空を藻掻いた。一応言いたいことは向こうに伝わったらしい。聞き手のマールファは頷いていた。ナージャがмесиво?と呟いた。
「そう、多分、それ」
間違っているかもしれないが、検証する術がない。辞書があれば話はまた別だろうが、生憎とこの場にそんな御大層なものは存在していなかった。
「あんなところがあるなんて、驚きだわ」
「そう」
マールファはそれきり黙り込んでしまった。ナージャは何か文句を言っていたが、よくわからない。シードルはさっきからずっと黙りだ。やがて疲れたのか、ナージャも黙ってしまった。唐突に静寂が訪れる。会話が途切れたわけではないが、ぎゃあぎゃあ騒いでいるわけでもない。
だからこそ、サイには割り込めない。ゆっくり話してもらわないと、まだまだ聞き取れないことばかりなのに、彼らは自分のペースで話していた。
それがなんだか疎外感を覚えるようで、居心地が悪い。ナージャがマールファに話しているのは何だろう。態度から察するに、誰かへの愚痴だろうか。どうにかこの場を抜け出せないか、策を巡らせた。思考と一緒に視線が動く。不意に、壁に駆けられた質素な時計が目に入った。
「あ、私、造船所、行かなきゃ」
尻すぼみになったその言葉に、反応を示したのはナージャだった。
「待って、サイ」
「何?」
この居心地の悪い空間から早く脱出したくて、思わず声が剣呑になってしまった。
「サイ、この国のことわかってない」
ナージャの言葉に、サイは唇をひん曲げる他なかった。あの造船所でのいざこざの原因は、結局わからずじまいだ。それでも自分が悪いといわんばかりのナージャの言い分に、腹が立つのは仕方がない。
「今、クローヴル、戦争始めようとしてる」
「それは知ってるわ」
クローヴルの情勢が危ういことは、覚悟の上でここに来た。だが、それがどうしてあのごたごたに繋がるのか、よくわからない。
「分かりませんか」今までだんまりだったシードルが、口を開いた。
「今、国を治めているのは軍人です。軍人は、なんでも好き勝手にやるんです」
そして一呼吸おいてから、好き勝手に、殺すんです。と言った。
「……ちょっと待って。だから、どうしてあのごたごたに繋がるの」
「船が、あるから」
ナージャが言った。
「戦争する。そこに、船、使いたい。だから――」
ナージャが途切れさせた言葉を引き取ったのは、マールファだった。彼女はサイが聞き取れるよう、ゆっくりとした口調で、しかしどこか陰りがある声音で言った。
「軍は、戦場に飛空船を動員――使おうとしているの。まあ、そんな、人を殺すための船、どこの造船所も造らないのだけどね」
言いながら、マールファはポットの紅茶を全員に配った。それが終わると、話の続きを語りだす。
「当然、軍は造船所に不満を持つでしょう。なんで言うことを聞かないって。だから、あらゆる手段――方法を使って造船所の力を削ぎに――わかるかしら、弱体化を、しようとしている」
マールファはサイがまだうまく聞き取れないのを分かっていて、ゆっくりと丁寧に、理解できないであろう単語はその都度言い換えながら現状を説明した。そんな彼女の言葉を引き継いだのはシードルだ。
「補償金を断つ、人員を削る。――あるいは」
湯気の消えた紅茶を一口飲み下してから、シードルは言った。
「見せしめに、殺す、とか」
彼が言いきった瞬間、四人の間に冷たい沈黙が降りたかのようだった。つまり、どういうことだ。怒涛のように事情を語られて、頭が追い付いていなかった。頭が煮えそうなぐらい考えた末に出た結論に、サイは胃の腑が凍った気がした。