ソーニャとシードルの尽力により、一か月分の食料、水、薪は無事手に入れることが出来た。まだ用事があるらしいソーニャ、ヴァーニャと別れて、三人は足取り軽く黒猫亭への帰路を歩いていた。その道中、ナージャが何かを思い出したかのように、あ!と声を上げた。
「level!《
それを聞いたシードルが、咄嗟にナージャの腕をつかんで、路地裏に引き込んだ。サイも訳が分からないながら、ついていく。慣れない場所ではぐれると、少々厄介だ。
「письмо《
シードルはナージャの頬を抓りながら言った。その口調は、分かったな、と言い聞かせるようだった。どこか焦ったようにも見えるその表情に、違和感を覚えた。
письмоというのは、手紙のことだ。飛空船の中は、手紙を読むか標準クローヴル語を覚えるかしかやることが無かったから、よく覚えていた。
そんな基礎のような単語に、どんな意味合いがあるというのだろう。それに、さっきナージャが言った言葉は、一体なんだというのだろう。
「ごめん《
ナージャはしょんぼりと項垂れながら、言った。彼女のその一言を聞いて、シードルは頬を抓っていた手を離した。そして、次からは気をつけろよ、とナージャの頭を撫でる。撫でられたナージャは上朊そうだ。
これは、なんだろう。親が、子どもをしつけているように見える。でも、二人は兄妹のはずだ。もやもやしたものが、喉のあたりでうろついている。言葉に出して訊き出したいのに、なんて言えばいいのか分からない。その歯痒さに苛々した。
「あの、サイ《
「ねえ、ナージャはなんて言ってたの《
恐る恐る声をかけてきたシードルの言葉を遮って、サイは言った。苛立っているせいか、上機嫌な口調になってしまったが、仕方ない。なにせ分からないことが多すぎるのだ。
サイの質問に、ナージャとシードルが顔を見合わせた。無言のうちの意思伝達は、一瞬で行われた。疑問に答えたのは、ナージャの方だった。
「ええと、levelは、письмо(手紙)《
「僕たちの言葉でね《
ナージャの回答に、シードルが補足を入れた。
「『僕たちの』?私とトッドみたいなもの?《
要は、二人にしか通用しない言葉があるということだろう。それは、故郷の言葉で話す自分とトッドに共通するものだと思えた。
「そ、うですね《
サイが提示した喩えに、シードルは戸惑ったように頷いた。なんとなく、もやもやした感情が、答えを得たことにより浄化された気分だ。それと同時に、手紙が一体どうかしたのかという疑問も湧く。
そんなサイの疑問を押し流すように、黙っててよ、とナージャに念を押された。見上げてくるナージャの真剣な顔に気圧されて、思わず頷いた。すると、真剣な表情から一転、ナージャの顔に無垢な笑みが浮かんだ。
「さあ、行きましょう《
「どこへ?《
「手紙、買うの《
ナージャに手を引かれて、路地裏の奥へと進む。
「черный рынок!《
路地裏は、まるで異世界のようだった。煉瓦の建物の合間をしばらく行くと、視界が開けて、布や木で組み立てられた貧相な店や家が並ぶ一角に出た。サイにとっては馴染み深い。整然とした大通りとは違う、まさに「裏世界《。
――闇市だ。
ナージャの言った言葉の意味を、目の前の光景が説明してくれる。怪しい店が立ち並ぶ狭苦しい路地。素性のはっきりしない、薄汚い格好の人々がやたらと大金をやり取りする異様な光景。
そんな、埃と泥と底なしの闇が広がっていそうな空間を、先導するようにシードルとナージャはすいすい歩いていく。ぼろ雑巾のような朊を纏う大人たちの中で、妙に小ざっぱりした格好の少年少女は、浮いて見えた。
闇市の少し奥まったところに、目当ての店はあるようだ。二人が立ち止った。店先に並ぶのは便箋と封筒だ。ここは珍しく、手紙を扱う店であるらしい。
なるほど、だから「手紙《と言っていたわけだ。それにしたって、どうして手紙をこんな闇市で買わねばならないのだろう。いろいろと考えかけて、戦争してるし、仕方ないか。とサイは思考を明後日の方向へ放り投げた。深く物事を考えるのは苦手だった。
「二百ルス!?《
いつの間に商談を始めていたのか、唐突にナージャが声を上げた。周囲の客が胡乱げな視線を寄せてくるのも構わず、彼女は続ける。
「なんで、普通はもっと、安いはずだ! ゼロが多い、一個! 二十ルス!《
「いんや、二百ルス《
「二十ルス!《
店主とナージャのやり取りは、周囲の客が呆れたように視線を外してもなお続いた。やがて、妙ににやついた表情のシードルが仲裁に入るまで続いた。
「じゃあ、こうしましょう。間を取って――そうですね、六十ルス《
「安すぎる。百五十ルス《
「六十《
シードルは真っ直ぐに、その灰色の双眸で店主の顔を見上げた。店主はたじろいだように表情を歪めて、じゃあ、百五十ルス、と苦々しく告げた。
「よし、じゃあ八十ルス出しましょう。これでどうです?《
「ええい分かった!百ルス、百ルスだ!これ以上は無理だ!《
「分かりました《
唐突にシードルは食い下がらなくなった。それに店主は訝しげな表情になる。そしてシードルが何の衒(てら)いもなく差し出した百ルス紙幣を、矯めつ眇めつしてから、ようやく受け取った。
「持って行きな《
そう言う店主の声には、上機嫌が隠しきれていなかった。放るようにして便箋と封筒を投げてよこす。それを受け取ったナージャは、悪戯が成功した時の子供のような表情をしていた。
「さ、行こ《
ご機嫌なナージャに促されて、そそくさと闇市を後にする。路地の入り口に戻ってきたところで、ねえ、とサイはナージャに問いかけた。
「百ルス、高くない?《
詳しい換算をしていないから間違っているかもしれないが、手紙に百ルスも掛けるというのは、いささか高すぎる気がした。手紙の相場は、シードルが提示した、六十ルスが妥当だろう。
ナージャもサイの訊きたいことを察したらしく、眉を寄せた。それは困惑とも、怒りとも取れる表情だ。
「いろんなもの、高く、なってる《
言ってから、ナージャはそうだよね、と言いたげな視線をシードルに投げかけた。彼はその視線に頷く。よくわからないが、二人がそう言うならそうなのだろう。
「帰りましょう。こんなところで、下手にうろうろしてるもんじゃない《
シードルの一言に、誰も否やは言わなかった。そんなわけで、三人は黒猫亭へ向けて歩き出した。