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二章 2

シードルも同じく彼女を見つけたらしい、ぎょっとしたように呟いて、ナージャに駆け寄った。ちょうどこちらへ戻ってきていたナージャの肩をつかんで、何やってるんだ、というようなことを怒鳴った。
 ナージャはそれにむっとしたような表情になったかと思うと、シードルの手を振りほどいた。そしてサイの後ろに隠れて、お兄ちゃんがいじめるー、と声を張り上げた。
 その甘えた声に、周囲の大人たちはからかうようにげらげらと声を上げた。
「おいお兄ちゃん、虐めてやるなよ」
「そうだ。可哀想じゃないか」
 大人たちに小突かれて居心地が悪くなったのか、シードルは前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。そしてため息を吐いて、何か呟いた。
「何て?」
「さあ」
 ナージャとサイは揃って首を傾げた。二人の言語力がどうとかではなくて、単純にシードルの声が小さくて聞き取れなかったのだ。そんな二人の態度に苛立ちを覚えたのか、シードルがかっとなったように叫んだ。
「だから悪かったって言ってんでしょうが、この馬鹿!」
「ナージャ馬鹿じゃない!」
「うっさい!」
 また喧嘩を始めてしまった二人を、どうするべきか考える。放っておいて、周りの様子を観察したほうがいいだろうか。だが、そのためには、サイの言語能力では不安が残る。ここは二人を止めるべきだろう。
「よし」気合を入れて、言い合いをしているナージャとシードルの間に割り込んだ。
「止めなさい」
 そうじゃないと悪魔に口を持ってかれるわよ。片言ながら、さんざん母親から言い聞かされた定番の仲裁文句を口にすると、二人は何かぎょっと目を見開いたような顔で黙り込んだ。若干顔が青ざめている気がするが、気のせいだろう。
 お互いが非を認めあうのを見届けると、サイはナージャと視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ナージャ、何、訊いてた?」
「人が多い、理由」
 ナージャの答えに、シードルが不機嫌そうに俯いた。
「なんでか、分かった?」
 サイの質問に、ナージャは頷いて、どこかこわばった面持ちで、言った。
「モントレビー配給所、今日お休み」
「本当に?」
 ナージャの言葉に反応したのはシードルだ。彼ははっとしたように顔を持ち上げたかと思うと、道理で、と呟き、考え込むように口元に手を遣った。
「モントレビー?」
「ソレーンの、隣の町。空船港がある」
「うむ?」
 未だにこの国の地理に疎いサイは首をかしげる。そんなサイを見て、ナージャはぴんと人差し指を立てて、適切な答えをくれた。
「軍の病院、あるのは?」
「モントレビー」
「なるほど」
 つまり自分はあのとき隣町で倒れたということだ。二日明けて、初めて知る事実であった。ナージャの方を見れば、自分の知識が役に立ったのが嬉しいのか、得意げな表情をしていた。
 人垣は未だに落ち着きを見せなかった。三人は今は少し離れた所で様子を窺っていたが、人だかりに減った感じは見受けられない。むしろさっきよりもどんどん増えていっている気さえする。
「不味いな」
 不意に、シードルが呟いた。
「どうしたの」
「もしかしたら、配給を受けられないかもしれません」
 不安げなナージャの声に、シードルは努めて冷静に、ゆっくり返そうとしているようだった。
「ソレーン配給所には、この町の人の分の食料しかない。なのに、そこへ隣町の人間が押し寄せたら――」
「食糧も、水も、切れる」
 それは次の一か月を飢えて過ごせという、国からの暗黙の宣告に他ならない。たかが配給、されど配給。サイは自分が言ったことが急に恐ろしく感じられて、拳を握りしめた。なにがうらやましいだろう。要は生かすもこうやって飢(かつ)え殺しにするのも、国の意思ひとつだ。
「薪(まき)は」
 ぽつりと、青い顔でナージャが言った。
「これから、寒くなるよ。薪は」
 ナージャの問いに、シードルは首を横に振ることで返した。配給の中には、寒さを凌ぐ為の薪も含まれていた。
「他の配給所にはいけないの?」
 サイの質問に、シードルは沈痛そうな表情で首を振った。
「ここはソレーンです。ヴォストク州の州都、つまり中枢なんです。ここの配給所から、他の街の分を分配しています」
 だからね、と俯きながらシードルは言葉を切った。
「モントレビーに分配されていない、つまり他の街に分配されていないのです。――食糧が足りてないんです」
 増えていく群集は、他の都市からの人々なのだと、シードルは言う。
 三人の間に、沈黙が降りた。それはあたかも、さっきサイが仲裁するために使った文句――「悪魔に口を持っていかれる」が実現したかのようだった。
 事態を打開するために、各々考えを巡らす。当然その中にはサイも含まれている。だが、そもそもサイの故郷には食い物を保障してくれる政府なんて存在しなかった所為か、乱暴な解決方法しか思い浮かばない。けれどこの街には――サイの知る限り――近辺に畑や牧草地はない。水は川のあの氷を溶かせばどうにかなるかもしれないが、食糧はどうにもならない。見えざる冷たい手に、喉元をつかまれたような気分だった。
「どうしたんだよ」
 不意にかけられた明るい声に三人は振り向いた。声の主は、サイたちと同じく配給を受けに来たらしい青皮造船所の少年。名前は確か――。
「ソーニャ!」
 こんなところで知り合いに遭遇した所為か、呼びかけるナージャの声は明るい。ソーニャは祖父だという老人――確か名前はヴァーニャ――と連れだって配給所に来たようだった。
 シードルから事情を聴いたヴァーニャは、静かに表情を曇らせた。反対に、孫息子のソーニャは喧しいまでに騒ぐ。
「はあ、嘘だろ、冗談じゃねえよ! 俺たちに死ねってか、クソッタレ!」
 サイが聞き取れただけでも、この程度のことは言っていた。聞き取れなかった分を含めると、もっと過激なことも言っていただろう。それはヴァーニャが諌めるまで続いていた。
「どうするんだよ」
 先程とは打って変わって、不機嫌にソーニャは言う。当然だ、今にも切り捨てられようとしているのだから。
 三人寄っても、五人寄っても妙案らしい妙案は浮かばなかった。どん詰まりのこの状況に、腹が立って仕方がない。
「ああ、もう!」
 障害があるのなら、その障害を退けるのがサイの信条である。じっとしているのは性に合わないのだ。
「誰かが、一番前に行けばいい!」
 周囲はサイの言ったことに困惑した表情を浮かべた。自分の言いたいことを、はっきりと伝えられないもどかしさもサイの神経を逆撫でする。だが、これ以上にどういえばいいのか、今のサイには分からなかった。
 やがて、ナージャがはっとしたような顔になって、確認するようにサイに言った。
「サイ、『皆の』一番前に、ってこと?」
 「皆の」のところで、ナージャは群衆を示した。意図が伝わったことが嬉しくて、何回も頷く。ナージャの読解に、シードルたちも一気に得心したような表情になった。
「その手がありました」
「じゃあ、俺が配給袋持ってく」
「私も!」
 ナージャは立候補したところで、シードルに止めなさいと諌められていた。多分危ないからだろう。
 次から次へ、とんとん拍子に進んでいく話に、目が回りそうになる。どうもシードルたちの話を聞くに、サイの言葉通り、ソーニャがその小柄を駆使して群衆の最前列に行くという話になったらしい。その際、黒猫亭の配給袋も持って行ってもらって、代わりに配給を受けてもらうということだ。
 そんな搦め手が果たして通用するのだろうか。サイの疑問は、標準クローヴル語になることが出来ぬまま、作戦実行の時が来た。
 ソーニャが二つの配給袋を持って、人だかりの中に消えていく。あの袋の中に、ひと月分の食料と水と薪をもらうのだ。
「帰りは……?」
 行きはいいが、荷物が一杯になった帰りはどうなるんだろう。そんなサイの疑問に、周りは揃って、あ、と今思い至ったらしい間抜けな声を上げた。
「僕、手伝ってきます」
 どこか青ざめた顔で、シードルがそう言った。