トッドとアルファードの会見は、ナージャの帰宅によって終了した。その直前に話が纏まっていたようだけれども、サイには辛うじて「コーネヴァ大佐」の名前が聞き取れただけで終わってしまった。やはりこのあたり一帯を牛耳る「コーネヴァ大佐」は重要人物であるらしい。
ナージャにとやかく言われるのから逃げるように、トッドがナージャに背を向ける。造船所に帰るのだ。去り際、どうにかなった、と一言告げて黒猫亭を出ていく。
「どうにかなった」。つまり、飛空石を調達する目処は立ったということだろうか。遅れてそれに気づいて、慌ててトッドの後を追った。祝福の言葉をかけるため、そして詳細を聞くためだ。
だが、サイが追いかけた時には、トッドの姿はもう見当たらなかった。もしかしたら路地裏を通って近道をしていったのかもしれない。土地勘のないサイに、同じ真似はできなかった。
「サイ?」
心配そうにナージャが声をかけてくる。サイはそれに何でもないと応えて、黒猫亭に戻った。
そう言えば、あのアイボリーの軍人に立ち去る気配がないが、一体どういうことだろう。気になって、ナージャに問うた。
「彼は?」
アイボリーの髪をした軍人を指差すと、ナージャは眉を寄せた。どう説明するか、考えているようだった。やがてナージャは口を開いた。
「あいつ、マールファのплемянник」
「マールファの、なんて?」
「племянник――あー、マールファの、夫の、妹の、息子」
わかる?とナージャは不安げに言う。その言葉につられて、頭の中で家系図を思い描いた。夫の妹の息子。夫の妹が義妹。その息子だから――。
「甥、か」
呟いて、マールファと談笑するアイボリーの軍人に視線をやった。
「ои?」
その声の方を向くと、見ず知らずの単語にナージャが首を傾げたのが目に入った。それがなんだかおかしくて、お礼もかねてナージャのくすんだ金髪を撫でてやる。すると子ども扱いが癇に障ったのか、何か叫びながら目いっぱい叩かれた。
「痛い!」
どうせ子供のじゃれ合いだ。お道化(どけ)るようにして言って、ナージャの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやった。お揃いね、と母国語でからかう。それを理解でき
なかったらしいナージャが、きぃっと甲高い声を上げて跳びかかってきた。それを軽くいなして、羽交い絞めにしてやる。
「離せ!」
「まあまあ」
そのままずるずると、カウンターテーブルの向こうで軍人と語らうマールファの方へ引っ張っていこうとして、途中で挫折した。自分と同じぐらいの人間を引っ張っていくなんて無茶だった。
羽交い絞めにしていた腕をほどいて、息を整える。疲れた。
「大丈夫?」
呆れたようなナージャの顔が視界に入ってくる。今自分は俯いているのに、何故だ。その疑問はすぐに解決した。ナージャがしゃがみこんでサイを見上げていたのだ。
大丈夫よと手を振って、顔を持ち上げる。不思議そうにこちらを眺めるあの軍人と、目が合った。異色の目だ。ふと、彼の名前を聞いていなかったことを思い出した。
多分サイが空船港で倒れた時に、助けてくれたのも彼なのだろう。ならば礼も言わねばなるまい。
「ねえ」
カウンターテーブルにかけるシードルとアルファードの間に割り込むようにして、声をかけた。だがこの二人の間に会話らしい会話はなかったから、それぞれ別々にお茶をしていたのだろうと判断したのだ。アルファードはもっぱらカウンターの向こうのマールファと話していたことだし。
突然のサイの行動に、なんでしょう、というようにアルファードの口が動いた。無論それらしいことも言っていたが、サイには聞き取れなかった。
この国の言葉で、ありがとう、とはどう言えばいいのか。少しばかり考えて、言った。
「ええと、спасибо(ありがとう)」
サイの言葉に、軍人はしばらく茫然とした後、緩く笑んだ。何か言ったが、やはり理解が追い付かない。
「あなたの、名前は?」
その代わりに、訊いた。知らなくても問題はないだろうが、恩人の名前を知らないというのは、後味の悪いものがあったからだ。
「アルファード」
軍人は緩い笑みを浮かべたまま答えた。
「アルファード?」
確認するように訊くと、そう、と言うように軍人――アルファードは頷いた。そのせいで、トッドが帰った後、ナージャによって元通りにされたアイボリーの髪が揺れる。その揺れた隙間から、小さな獣耳が見えた気がした。
犬じゃないのね、となんとはなしに思う。
だが、次のアルファードの言葉に目を瞬かせた。
「あなたはサイですね」
「なんで分かるの」
言葉に僅かな警戒心が滲む。他人に、知らずのうちに名前を知られているというのは、なんだか不気味で不愉快だ。
アルファードはサイの警戒心を感じ取ったらしい。眉尻を垂らして、すみません、と謝罪して、言った。
「トッドが、呼んでたんです。病院で」
サイにも分かるよう、ゆっくりとした口調だった。そう言われればそんな気もする。納得すると同時に、新たな疑問が沸き起こった。
「トッドと、あなた、えー、どういう、あーと……?」
関係、という単語が分からない。だが、そんなサイの拙い標準クローヴル語でも、言いたいことを汲み取ってくれたらしい。和やかな笑みを浮かべて、アルファードは答えた。
「друг1」
друг1、同じ単語を口の中で繰り返す。意味は確か、友人、だ。
「ああ、そうなの!」
友達の友達は友達。そんな思考回路は、サイのアルファードへの態度は一気に軟化させた。この時点で、サイはアルファードの言葉の真意を理解してはいなかった。