Novel

継目2 トッド・ノルドハイム

 ――そのとき、確実に室内の温度が一、二度下がった。
 こんなことになるなら、引っ張ってでもナージャを連れてくればよかったと後悔が沸き起こる。そう言えば、昨日会っていたじゃないか。幼馴染みが倒れたと聞いて慌てていたから、その記憶がうっかり抜け落ちていた。
 あいつらナージャに怪我させんじゃねえぞ。心の中で、そう祈るしかできない。もしナージャが怪我していたら、死なないまでも、酷い報いが待っているのは間違いない。
 何とかアルファードの意識をナージャから逸らせないか。そう思って、トッドは視線を彷徨わせた。話題をすり替えたところで、執念深いアルファードが、ナージャの安否のことをすっかり忘れてしまうなんてことはありえない。だが、この居心地の悪い雰囲気を払拭したかった。
 不意にサイのつむじが視界に入った。
「あ、なあ、アルファード」
「何です」
 笑ったアルファードの態度は硬い。その陰のある堅い笑みが恐ろしい。今にも、表情を変えぬまま銃口を向けてきそうな、そんな顔だ。
「その、さあ、スコーリン――北部への列車って、動かせるのか」
「列車?」
 アルファードの笑みが訝しげな表情に変わって、思案するように黙り込んだ。くいくいっとサイに袖を引っ張られて、そちらを向いた。銀色の大きな目が、不思議そうにこちらを見上げていた。聞き取れなかった、あるいは聞き取れても意味が理解できなかったのか。
「クローヴルの北部にはな、飛空石が埋まってんだ」
 幼馴染みに分かるように、母国語で簡潔に告げた。するとサイは銀色の瞳を瞬かせ、それを勝気に釣り上げた。
「やるじゃないの」
「分かったのか、今の会話」
「なんとなくは」
 つまり北部へ行こうっていうんでしょ。そう言うサイの解釈は、半分当たりと言ったところだった。いくらアルファードが中央勤務だと言っても、アルファード自身に北部行(ゆき)の列車を動かせる権限があるかどうかは怪しいものだ。
 ――むしろその程度の権限すらないから、あちこちに赴任させられているんじゃないか。
 トッドはそう推測している。アルファードは、「中央勤務」というのは肩書だけで、実際にはあちこち出張に行くことが多い。これは以前本人が愚痴としてトッドに言ったことだから間違いない。
 だからこれは、トッドとアルファードの駆け引きというよりも、アルファードの持つ権力の大きさに左右されるところが大きかった。
 やがて、俯いていたアルファードが顔を持ち上げた。その表情には何かを決意したような鋭さがあった。
「わかりました」おもむろにアルファードは告げた。
「だけど、僕は列車を動かす権限を持ちません」
 アルファードのその言葉に、トッドは内心やっぱりか、と舌打ちした。
「ここはコーネヴァ大佐の領地ですしね」
 勝手なことはできませんよ、とアルファードは笑った。アニーシヤ・コーネヴァ。その名前に何も思わないでもない。
 傍で聞いていて、やはり理解できなかったらしい幼馴染みに袖を引かれた。どういうこと? と小声で聞かれて小声で要点をかいつまんで答えた。案の定、質問が湧いて出る。
「『コーネヴァ大佐の領地』って何」
「あの」
 サイの質問に割り込むようにして、シードルが声をかけてきた。そちらを向くと、彼はやや気まずげに言った。
「いい加減掛けないんですか」
 そう言えばずっと黒猫亭の入り口に、二人して立ちっぱなしだったことを思い出して、ホールに設置されている丸テーブルに掛けた。
「で、どういうこと?」
「ええと、ここら一帯――つまりヴォストク州を治めているのは東方司令部。それは分かるな」
「ええ」
 素直に頷いたサイに安堵する。その程度は理解してくれているらしい。
「で、東方司令部のトップ、つか事実上のトップが、アニーシヤ・コーネヴァっつう女軍人なんだ。その人が州の政治のすべてを決めるから、ヴォストク州は『コーネヴァ大佐の領地』なんて呼ばれるんだ」
 トッドの説明に、サイは不可解そうな表情になった。
「でもそれって普通のことじゃないの?」
「あほか、軍人の本懐は国を守ることだろうが」
「あ、そっか」
 だが、軍人達が政治を行うここクローヴルでは、サイの反問があながち洒落にならないのも事実だった。
 トッドはアルファードの方を気にかけながら、声を低めて続けた。標準クローヴル語ではない二人だけの会話が、アルファードに理解されることがないのは百も承知だが、念には念を、だ。
「しかもコーネヴァ大佐が軍人になった経歴が――まあ噂なんだが――普通じゃなくてな。親兄弟が死んだ金で大佐に就任。それ以上の昇進は望まないで、ここを治めるのに全力を尽くしてる。なあ、こういう軍人って普通だと思うか?」
「ああ、それは確かに、なんか、王さまっぽい、かも」
「しかも当の本人は豪邸に住んでるんだぜ」
「うわあ」
 サイは、彼女にしては複雑そうな表情を浮かべた。軽蔑と敬意がない交ぜになったような。軍人が政治を行うとしたらコーネヴァ大佐のやり方が理想なのかもしれない。だが、貧乏人出身のサイから見れば、その経歴や現状に、納得のいかないものがあるのだろう。
「まあ、『コーネヴァ大佐の領地』の意味は分かったわ」言って、サイは肩を竦めた。
「だったらその『大佐』に動かしてもらえばいいだけじゃない?」
「でもよう、所属の違う人間が口出しできるもんか?」
 この幼馴染みは、相変わらず発想が斜め上だ。あるいはクローヴル軍の排他性、独立性を理解していないだけかもしれない。東西南北、そして中央。各州を治める司令部はお互いに干渉しあうのを嫌う。どうしてか、と訊かれても、そういう体質なのだ、としか答えられないから、口には出さなかったが。
「やってみないとわかんないじゃない。というか、そのために話しかけたんじゃないの?」
 ああそうか、こいつは言葉が分からないんだった。トッドは額に手を当てた。トッドが話題転換する直前に、室内温度が下がったことなどこの幼馴染みは気づいていないだろう。
 だがサイの言うことにも、悔しいが一理ある。トッドはアルファードの方を振り返った。アルファードはマールファたちと談笑しているところだ。
「なあ、アルファード、ちょっといいか」
「何です」
 トッドに声をかけられた瞬間、先ほどまで纏っていた和やかな雰囲気は取り払われ、あからさまな作り笑いに豹変する。こいつのこの切り替わりの早さは称賛するに値する。とはいえ、それに呑まれては元も子もない。
 咳払いをして、こちらに話す意思があることを示した。
「なあ、アルファード。列車の件だが」
「言ったでしょう?ここはコーネヴァ大佐の領地です。僕が好き勝手出来る場所じゃないんですよ」
 トッドの言葉を遮って、先手必勝とばかりにアルファードが言い放つ。内心でだけ、やはりそう来るか、と呟いた。各司令部は余計な関わり合いを持たない排他性。アニーシヤ・コーネヴァ大佐の専制。
 ――この国は腐りかけているのか、と思う。
 だが今そのことは関係ない。ただ一人、拳を握りしめるだけでいい。
「だったらお前が話通してくれよ。コーネヴァ大佐とは、知らない仲じゃないんだろ」
 怒りのせいで、少し声が震えた。だがトッドの言葉を聞いた瞬間、アルファードの作り笑いが僅かに引きつった。効果はあったようだ。
「どこでそれを」
「ここで、お前から」
 視界の隅で、シードルとマールファが肩を震わせていた。アルファードは脱力したように俯いて、何かぶつぶつつぶやいている。多分もう酒はやめようとか、叶わない決意表明でもしているのだ。そして盛大にため息を吐いてから、アルファードは顔をあげた。もう作り笑いはしていなかった。
「ああ、そうですよ。彼女とは軍学校からの知り合いでしてね」
「だったらなおのこと頼む」
 頼むことしかできない自分が口惜しかった。
 要請の言葉に、アルファードはアイボリーの髪をかき混ぜた。白髪のように細長いアイボリーが絡まって、こんがらがるのに頓着しない。鳥の巣のようになった頭のまま、アルファードはよし、と頷いた。一体何がよしなのか。
「わかりました。アーニャ――コーネヴァ大佐に伝えておきましょう」
「お、おう」
 アルファードが一体何を決意したかはわからないが、それが自分に幸運だけをもたらすものではないのは確かだ。いつか相応の報いを要求される。
 それを覚悟して、トッドは軽く唇を噛んだ。
「ありがとうな」
 たとえその報いのせいで、船を造れなくなったら――。それはその時に考えよう。今は船を完成させることが先決だ。
 そんなトッドの思考を寸断するようにドアベルがからころと音を立てる。ナージャが帰ってきたのだ。
 造船所の職人への挨拶を終えたらしいナージャがこちらの方を向いた。アルファードの頭を見て、咄嗟にトッドに非難の目を向けてくる。
 ナージャの考えていることを悟って、トッドは叫んだ。
「冤罪だ!」