東方司令部を辞した後(のち)、黒猫亭へ向かうのは自分の中の規則のようなものだった。別にあそこは伯母が経営している店であって、自分の実家ではないのだから態々(わざわざ)帰る理由もない。
だが、司令部の宿舎を使うと(主にアニーシヤから)冷やかしの声がかかるので、こうして足を運んでいる次第である。
別に嫌ではないのだが、面倒だ、とは思う。どうも二年前に拾った子どもたちはアルファードのことをいたく気に入ってしまったようで、変な幻想を抱かれているようなのだ。
――アルファード・S・ノリネンは優しくて、格好良くて、何でもできるのだ――というような。
子ども達のうち、片方――シードルは流石にそこまでではないだろうが、ナージャは確実に自分のことをそう見ている節がある。だから、面倒だ。
少しでも遅く着きたくて、ゆっくりと歩く。だが、遅くなればなるだけ、足元から冷気が忍び寄ってくるのがクローヴルという国だ。
口内を暖めるために息を吐いて、ただただ歩いた。そうしたせいで口の中が酷く乾いた。黒猫亭の看板が見えてくるまでに、そう時間はかからなかった。
「戻りました」
ドアを開けると、変わらないからんころんというドアベルが鳴る。その音にああ帰ってきた、という気分になって、疲れがどっと押し寄せてくるようだった。相変わらず店の中は暖かい。アルファードの声に、厨房の奥からマールファが驚いたように顔を出す。続いて、訝しげな顔をしたシードルが続いた。
ここでナージャが出てこないのが不思議だが、もしかして風邪で寝込んでいるということがあるのかもしれない。
「早いのね」
戸惑いを隠さず、マールファが言った。アルファードはそれに肩をすくめて答えた。
元々中央勤務で二ヵ月三ヵ月――長くて半年は帰ってこないこともある。それがたった一ヵ月で帰ってきたのだから、戸惑っているんだろう。
「まあ、ですから次は長くかかるかと」
「相変わらずね。それじゃあ、オンニの様子を見てきたりしたの?」
シードルに指示を飛ばして、その場しのぎのお茶の準備をしながら、マールファは言う。促されるようにアルファードはカウンター席にかけた。その喋りながらの丁寧な所作に感嘆するも、唐突に出た名前に目をしばたかせた。
「私はフィリクスって呼んだほうがよかったかしらね」
寂しそうに言うマールファの言葉に、ようやく「オンニ」が弟フィリクスの本名であることを思い出した。「フィリクス」は生活する上での通称だ。
「あ、ああ……。いえ、そんなことは」
慌ててマールファの言葉を否定すると、本当に? と探るような視線とかち合う。
「やっぱり、ノリンでもないのに嫁入りした私が呼ぶのは、駄目なんじゃないの?」
「そういう決まりはありませんよ」
やや叫ぶように言えば、あらそう、とマールファの表情がほっとしたそれに変わった。
――ただ、オンニ本人は嫌がるでしょうね。
ほっとしたようなマールファを眺めながら、内心付け加える。出来たお茶はアルファードが思うに最高の出来だった。だが、そんなことで弟はこの伯母を認めないだろう。あいつは骨の髄までノリン至上主義者だ。マールファのような「半端者」に自分の本名が呼ばれることを、絶対によしとはしない。
「どうかしたんですか」
茶菓子を運んできたシードルが、不思議そうな表情でアルファードとマールファを見比べた。シードルの顔を見て、マールファがそういえば、と声を上げた。
「シードルも、『シードル』とは別に本名があるのよね」
マールファの言葉に、アルファードから少し離れたところに座ったシードルが、灰色の目を瞬かせた。マールファの言葉の意味を咀嚼するように黙り込んでから、ええ、と頷く。表情がやや硬いのは、仕方のないことだろう。
「でも、言う必要はないと思います」
「何故?」
問い質すマールファから視線をそらして、シードルはひとつ席を空けて座るアルファードを見上げた。どうも説明をするのに語彙が足らないらしい。アルファードはシードルの意を汲んで、ゆっくりと口を開く。
「標準クローヴル語ではない名前を持つということは、自ら……そうですね、少数派だ、と看板を掲げるようなものなんですよ。わかります?」
だから弟も「フィリクス」という偽の看板を掲げる。シードルも「シードル」という偽の看板を掲げている。そのことに気づいたらしい伯母は、僅かに俯いてごめんなさいね、と小さな声で言った。
「無神経だったわ」
「いえ、気にしないでください」
笑顔のシードルに言われて、伯母は顔を持ち上げた。お互いに納得のいく結果になったのを見届けると、アルファードは黒猫亭の暖かいホールを見回して、言った。いつもと変わらない、温もりあふれるホールだ。だが、そこはいつもよりも静かな気がした。
「ナージャがいませんけど、風邪ですか」
ドアベルがからころと音を立てたのは、丁度そんな時だった。
なんだ、遊びに出ていたのか。だが最近は治安がよくないから早く帰るように。全く手間をかけさせるな。ナージャに対する小言が、言葉になる前に頭の中で浮かんでは消えていく。
「戻りました」
「お前、いつまで――」
言葉は最後まで言われることなく、矛先を失って宙を彷徨った。ドアを開けたのは船で出会った少女だった。黒髪の、銀色の目をした少女。名前だけは知っている。サイだ。凛とした快活そうな目が、怪訝そうにこちらを見つめていた。
倒れて、運ばれた病院で弱々しくしていた印象しかないから、彼女は虚弱でか弱い少女だとばかり思っていたのに。こうも人の印象は変わるものか、と思わされる。
今のサイは、男物の服を身にまとって、当然だが自身の足で立っていた。それだけで、こうも力強く見えるのは何故だろう。
「何?」
凛々しい声が訊く。アルファードは咄嗟に答えられなかった。代わりに、傍にいたシードルが事実を告げた。格好がつかない。
それを聞いたサイは、少し間の抜けた表情になって、「ナージャ、職人街」と告げる。
「は?」
つまりは、ナージャは今職人街にいる、ということだろうか。そういえばこの子は外国人だった。トッドとなら会話が通じるようだが、そのトッドの姿はない。
「あー、トッドは、どこですか」
ゆっくり話すことを心がけた。そうでないと聞き取れないようだからだ。
そしてどうやら聞き取れたらしく、サイは自分の背後を指差した。
サイの背後から現れたのは、ぜえはあと肩で息をするトッドだった。どうやら、帰ってくる途中で、それが競争になったらしい。どうしてそうなった。子どもか。
トッドはなにやら愚痴を言いながら、サイの頭を軽くはたいた。それに対して、サイは三倍くらいの威力のお返しをする。「か弱い少女」など幻想に過ぎないのだ、と脳内で赤髪の上司に叩きつけられた気がした。多少持ち直したトッドが、自分の方を見て気まずげな顔になった。
「ああ、えと、ナージャなら青皮造船所にいるっすよ」
「それはそこの彼女から聞いたよ」
サイを示して言う。暗に理由を告げろと。詳しい行き先が分かっても、アルファードにはどうしてナージャがそこにいるのか、分からなかった。
「ナージャが連れだしたんすよ。こいつを」
言ってトッドはサイを示した。
「じゃあ、なんで一緒じゃないんだい?」
「おいおい、分かんないすか?」トッドは冗談だろう、と言いたげな表情になった。それもすぐに当然か、と何かに得心したものに変わった。
「あそこにゃナージャと同い年ぐらいの職人がいるんすよ。なあシードル」
唐突に話を振られたシードルが、少ししてからこくりとナージャと同じ、金糸の頭を縦に振った。
「今頃造船所で大騒ぎしてますよ」
「じゃあお前はナージャを1人で置いてきたのかい」
内容が内容だけに語気がきつくなった。それにトッドは慌てた様子で、誤解しないで下さいよ、と片手を振った。
「ほっといてくれっつったのはナージャの方だし、ナージャが帰るときは誰か他の職人が送ってくるっすよ」
だから大丈夫っす、という言葉に、完璧に疑惑は解かないまでも、とりあえずはナージャの身の安全が確保されていることに安心する。彼女、そしてなによりシードルに何かあったら、軍での自分の立場が確実に不利になるのだ。
「わかったよ。だけど」そこでわざと一旦言葉を切り、周囲から怖いと評判の作り笑いを浮かべた。
「ナージャが無事に帰ってこなかったそのときは、覚悟しておくことだね」
言葉を理解できなかったらしいサイはきょとんとした表情のままだが、逆に理解できたトッドは顔をひきつらせた。