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1章 9

 サイの言葉に、逆さまになった造船士の顔が、呆気に取られたような表情になった。
 その横で仰向けになったトッドが嘆息したのが見えた。
「何よ」
「いや、お前の切り替えの早さには呆れる」そう言ってから、よっこらせ、と起き上がる。
「こいつはトーボーグ。俺の同僚だ」
 足払いをかけられて、逆さまになったままぶすくれるトーボーグを、まじまじ観察する。彼は黒髪を短く刈って、ヘアバンドをしている。なまじ頭が長いので、刈り上げているように見える。灰色がかった緑色の瞳に、太い眉。
 その灰色がかった緑の目が、サイを睨みつけていた。睨まれたから睨み返す。そんな二人の間に、ナージャが割り込んできた。
「そこまで!」
 ナージャの灰色の瞳が、サイとトーボーグを見比べた。両者の対峙が一瞬緩まったその隙に、トーボーグが起き上がる。ナージャがトーボーグを宥めるように何か言った。それに対して、彼は鬱陶しそうに首を振るだけだ。
「おい、お前」
 トーボーグが、一歩サイの方へ歩み寄る。ナージャが二人の間から退いた。あの鋭い灰色がかった緑の目と、再び対峙する。
「名前は?」
 訊かれたのは、案外単純なことだった。それに拍子抜けする。だが、この男は自分の名前をすでに知っているはずだ。それを言葉で告げてやろうにも、なんて言えばいいのかわからない。それでも表情には出ていたらしい。
 トーボーグは呆れたような調子で言った。馬鹿にするようにゆっくりと。
「おいおい、まさか、俺だけに名乗らせる、なんてこと、しないよな?」
 ん? と念を押すようにトーボーグは首を傾げた。
 その、幼い子どもに言い聞かせるような調子が癇に障る。トーボーグに殴り掛かりたいのを堪えて、サイは告げた。声が僅かに震えていたのは仕方のないことだ。
「私はサイ。ワン・サイ。サイが名前」
「そうか、よろしく」
 握手はなかった。サイからしたって、こんな男との握手は御免こうむる話だ。そんなサイの視界の隅で、幼馴染みが首を傾げていたことに、彼女は気付かなかった。
「なんなのよ、あいつ」
 初対面の人間に睨みつけられ、あまつさえ馬鹿にされ、サイの機嫌は悪くなる一方だった。トッドは仕方がないといった表情をしていて、ナージャは少し困ったように眉を寄せている。
「仕方ねえだろうが、お前がもう少し早く来てりゃ、こうはならなかったんだぞ。半年も待たせやがって」
 トッドら青皮造船所に依頼した当初の手紙では、サイはもっと早くクローヴルに来るはずだった。依頼金を渡すために。それが、トラブルに見舞われてこんなにも遅くなってしまったのだ。
 金がなければ依頼は成立しない。――そのことを思うと、怒りが霧散して、むしろ少しの罪悪感さえ湧いてくるようだ。
「半年も待たせたのは、謝るわ。けど、あんただってどうしてそうなったのかわかるでしょ?」
「俺が分かってたって意味がないんだ」
 サイはどうして、と言おうとした。そこではたと口をつぐんだ。トッドの言葉とトーボーグの態度から、なんとはなしにトッドの言わんとすることを察したのだ。
「要は、信用されてないってことね」
 サイの答えに、トッドは表情を引き攣らせた。それを見て、二人の会話が聞き取れていないナージャが、おろおろと幼馴染みふたりを見比べる。
「ああ、うん。間違っちゃないが……。うーん」
 トッドがなにやら考え込む。それにサイはむっとしてなによ、と唇を尖らせた。
「間違ってないんだからいいじゃない」
「まあ、それもそうか。お前に正解を求めた俺が馬鹿だった」
「何よそれ!」  憤慨してみせるサイに、トッドはけらけらと笑った。話は終わったか、とナージャが心配したように尋ねた。トッドはそれに頷いて、サイを促した。
「まあとにかく、こっちの事情に関しては後でキッチリ教えてやるから。皆に紹介してやる。ついてこい」  ついでに謝っておけ、と言われて、サイはぐっと腹に力を込めた。もしかすると、殴られる覚悟をしておいたほうがいいかもしれない。