Novel

一章 転換

 それはシュトラウスの運命を定める決定となった。
 木槌の音が、最高議会中に響き渡る。
 統一暦、一七七〇年四月十九日の事である。
 ――クローヴルとの領土戦争、およびそれに関する出兵が過半数により可決されました。
 最高議長代理ホー・チーにより、決定事項が淡々と読み上げられていく。それはすり鉢状の議会によく響いた。
 正式な最高議長は、間抜けなことに腹痛で今回の議会を欠席していたが、もしかすればこのことを予見していたのかも知れなかった。その予見は時期的に不可能ではない。少し前にクローヴルとの首脳会談が行われていたのだ。
 コンラート・アーレは議長代理が決定事項を読み上げる様子をただ眺めていた。彼の心の奥にあるのは、堪えようのない悔恨だった。自分があの席に座っていたのかも知れないという、悔しさ。
 ぱらぱらとまばらな拍手が、議会の方々から上がった。決定事項に反対するわけではないが、アーレは拍手を送る気にはなれなかった。
 解散を言い渡され、誰彼ともなく議会を後にしていく。アーレも例外ではなかった。特に疲れることをしたわけでないが、妙に気疲れしていて、自身の研究室に向かう足取りは重い。
 アーレは国立大学で神話学を教える大学教授である。先ほど議会に参加していたのは、彼が大学教授であると同時に最高議会議員だからだ。最高議会議員は博士号を持っていれば誰だってなれる。いわば「教授たちのクラブ」のようなものだ。けれどその長たる最高議長は違う――。
 ふう、と思いため息を吐いて、階段を上りきる。アーレの研究室の前には、教え子の中でもっとも若い一人が立ちすくんでいた。
「何の用かね」
 片眼鏡をかけた少年が、アーレの方を向いた。年の頃は十四五。ともすればもっと幼く見える顔立ちだ。瞳は左右で濃度の違う、片眼鏡をかけたオッドアイ。もっとも、これは怪我が原因の後天的なものであるが。
「すみません、レポートの件で意見を伺いたくて」
「すまないが、後にしてくれないか。君も知っているだろうが、先ほど最高議会の招集があってね」
「……あの!」
 教え子を避け、研究室に入ろうとしたアーレの目の前に立ちふさがるように、教え子が回り込み、言った。
「レポートというのは建前なんです」
 アーレの目元が胡乱げになったのは言うまでもない。その表情に、(アーレには理解出来なかったが)僅かばかり教え子は傷ついたようだった。
「もしかしたら話を聞いてもらえないかも知れなくて、すみません」
「早く言いなさい」
「その、ですね……。クローヴルに手紙を届けることはできますか」
 教え子の問いに、アーレは目を細めた。そして親が子に言い聞かせるように――実際、アーレとその教え子は親子ほどに年が離れているが――言った。
「君に、私は先ほど最高議会に出席した、と言ったね」
「ええ」
「なら分かるはずだ。たった十五歳でこの最高学府へ招かれた君ならね」
 アーレに真っ直ぐ見つめられ、やがて何かを悟っかたように教え子の濃淡違いの瞳が見開かれた。
「クローヴルとの、領土戦争、ですか」
「ああ、そうだ」 アーレは頷くと、念を押すように言った。 「……君を疑うわけではないが、あまり吹聴して回ってはいけないよ」
 言いながら、アーレは教え子を避けつつ研究室へと入って行った。椅子に座り、資料が山脈を作る部屋を見渡し、疲労を隠さないため息を吐いた。
 ドアの外で、教え子が研究室から遠ざかっていく音がした。
 目を閉じる。濃淡違いの瞳が見開かれた瞬間、愕然としたような感情がそこに去来した気がした。何故か。アーレには分からない。元々あの教え子は無口な質であったし、自分の過去を語ろうとはしない人物だ。
 ――いずれにしても、それは自分の関知することではない。
 アーレは眠くなるに任せて、しばしの仮眠を甘受した。