Novel

一章 六

 ナージャは終業のベルが鳴るなりリュックをつかんで学校を飛び出した。背後から友人の非難と教師の怒号が聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。あの水底にいるような、重苦しい空間にいるのが嫌だったからだ。
 それに、ナージャにとって今日という日はとても大事な日だったためである。朝からいとこが熱を出して寝込んでいた、というのもあるが。
 彼女には、もっと大事なことがあった。
 今日は彼女の養い親が単身赴任からはるばる帰ってくる日なのだ。子供心に早く会いたいと思うものがあった。
 どんなに早く家に着いたって、それが報われる可能性は決して高くないというのは経験則で知っていたけれども、それでも逸る気持ちを止めようとはしなかった。

 トッドに案内されてついたそこには、「食堂 黒猫亭(チョルヌイ・コット)」という看板がかかっていた。
 ドアを開けると、からころとドアベルが軽い音を立てる。
 中では白黒の子犬が耳をピンと立ててこちらの様子をうかがっていた。
 こぢんまりとして、暖かみのある場所だ。馴染みであるらしいトッドが奥に声をかけると、マルーシャが現れた。白髪の混じった紅茶色の髪を、頭の後ろで纏めている。
 子犬はマルーシャとトッドを交互に見くらべていた。
 トッドが異国語で何事か尋ねると、マルーシャはまだ帰ってきていないらしいことを答えた。
「……ここにいてもよろしいですか?」
 冷やかしともとれるトッドの申し出に、不快そうな顔をするでもなく、マルーシャはむしろ申し訳なさそうに奥へと戻っていった。
「なんだって?」
 店内を見渡しながらサイは尋ねる。ホールにはカウンターテーブルと、椅子とテーブルのセットが五つぐらい並んでいる。そこまで客の入りが多いほうではないのだろう。カウンターテーブルの奥には、厨房と、二階につながる階段がある。
「さっき言ったろ。俺の知り合いに軍属の奴がいるって。まだ帰ってきてないけど、待ってればじきに来るだろうって」
 椅子に座りながら、トッドが答えた。
 客はいない。食堂と言うよりも、宿屋と言われた方がまだしっくり来る雰囲気の店だ。
 ドアベルが勢いよく鳴った。その音に、サイとトッドが振り返る。
「今帰った!」
 くすんだ金髪の、十歳ぐらいの少女。ナージャだ。息を切らせて、膝に手をついている。
 サイは驚き半分、がっかりしたような気持ち半分で、まあ、と声を上げた。
「おい、大丈夫か」
「平、気」
 ナージャの言うとおり、上がっていた息もだいぶ落ち着いている。ナージャは二人を視界に入れると、にんまり笑って、トッドになにやら問いかけた。
「違うってば」
 トッドが苦笑して、顔の前で手を振ってみせる。
「じゃ、だれ」
「幼馴染み」
 トッドの自己紹介にふうん、とナージャは薄い反応を示した。その口元は緩く笑んでいて、どうもトッドの言葉を信用していないようだ。
「……アルに用事があるんだ」
「……もうすぐ帰ってくるんじゃない?」
 トッドの言葉に、ナージャは呟いた。おざなりな言い方だけれども、視線は寂しそうに足下をさまよっていた。
 ナージャは二人の目の前に腰かけ、不機嫌そうに頬杖をついた。トッドはそれを行儀が悪いと叱りつけた。サイは幼なじみによくこうして行儀を注意されていたのを思い出す。
 マルーシャに呼ばれたナージャが席を立ち、サイとトッドはまた二人でホールに残された。
「長くなるかな」
「かもな」
 サイの本心としては、今すぐにでもこの場から立ち上がって、トッドの知り合いの軍人に会いに行きたかった。けれどそんなことをしたって無駄なのはサイ自身よくわかっていたつもりだ。
「少しは落ち着け」
「けど……」
 サイはもともとじっとしていられない性分だ。考えるよりも先に足が出る。十年前のあの丘から跳んだ日だって、ごちゃごちゃ考えるよりも前に跳んだのだ。
 だから今も、ちらちらと店の入り口を伺いながら、足はせわしなく椅子をたたいていた。
 やがてナージャがティーセットをがちゃがちゃ言わせながらホールに戻ってきた。音に反応してサイがそちらを向く。
「マルーシャさんは?」
「二階」
 トッドの問いに、ナージャは不機嫌そうに答えた。いわく、二階には風邪を引いたいとこがいるらしい。
 ぞんざいな手つきでカップに紅茶を淹れ、二人に配る。テーブルの中央には菓子を並べた皿が置かれた。
 憤懣やるかたないといった様子で、どかりとナージャが椅子に腰掛ける。
 ――ドアベルが鳴ったのは、その後だったか前だったか。
「だめだろう」
 少し間が開いて、いさめるような、静かな声がした。全員の視線が声の主に注がれる。店の入り口に、クリーム色の髪をした軍人が立っていた。
 アルファード・J・ノルン少佐である。
「おかえり」
 ナージャはしばらく呆然としていた後、はっとしたように立ち上がってアルファードの分の紅茶を淹れる。
「あの人を待ってたの?」
 それは船で会ったあの軍人であった。向こうもサイに気づいたらしい。軽い会釈を送ってきた。
「ああ、そうだ」
 サイとトッドは小声で言葉を交わして、アルファードの方を見やった。
 アルファードはコートを椅子にかけて、自らも座った。ナージャと何事を話し合うと、トッドの方を向いて「で、なんの用だい?」と言った。
「スコーリンへの通行許可を貰いたくてな」
「君は難しいことを言うね」
 トッドの頼みを聞いて、開口一番、アルファードはそう言った。冷えた体を温めるためか、アルファード紅茶を口に含んだ。隣に座るナージャは机の上の菓子をつまんで、アルファードとトッドの表情を伺っている。
 アルファードが口を開いた。
 早口でサイには理解できないが、だいたいこんなことを言っていた。それを聞いて、トッドの表情が怒りに歪む。
 ――軍属としての意見を言わせてもらうと、飛空石は国の重要な資源である。
 ――むやみに使うのでなく、未来のためにも管理を徹底するべきで、
「表向きはな!」
 トッドの一喝に、アルファードが黙り込む。
 トッドは異国語でまくし立てた。
 ――裏では国の占有、商人への横流し、何でもありではないか。
 ――どこが管理を徹底、だ! 
「笑わせるな!」
 テーブルの上の紅茶が音を立てて跳ねた。
 アルファードは思い当たる節があるのか、反論しない。
 ナージャはそんな両者をおろおろと見比べた。サイはそもそも話が分からない。最後の「笑わせるな」だけは辛うじて聞き取れたが、それ以外は全くだ。
「落ち着いてよ」
 話が分からないなりに、仲裁に入る。
「ええと。私わかんないんだけど――つまり、私たちは飛空石欲しい。けど、行けない、それは国のせい。合ってる?」
「まあ、そうだ」
 苛立ったような声でトッドが頷く。布巾持ってくる、とナージャは厨房の方にかけていった。
 アルファードは考え込むように黙り込んだ。時計の秒針が動く音だけが響く。
 サイはちらりとアルファードを伺った。机の上で手を組み、その上に顔を乗せているために表情は伺えない。サイの中に知らず苛立ちが募った。
 秒針の音が響く。それがサイの苛立ちをかき立てているかのようだ。
 アルファードとトッドがにらみ合っている。
 秒針が三回ほどなった後のことだ。
 ばあん、と机が音を立てて盛大に揺れた。サイが机を思い切り叩いたのだ。音に驚いた子犬が周囲を窺った。カップが僅かに浮き上がって、かちゃかちゃとこすれ合い、中の紅茶があふれた。陶磁の容れ物が割れなかったのは僥倖か。いずれにしても、布巾を持って戻ってきたナージャが眉をひそめたのは言うまでもない。
 その場にいる全員の視線を浴びながら、サイは口を開いた。
「いい加減にして、さっさと決めて! ――トッド、訳して。私たちは飛空石が手に入ればそれで良いの。分かるでしょ! そのために話し合いに来たの、だから貴方の答えが知りたいの! 分かる?」
 声は震えていて、後半に行くに従い、乱暴で怒鳴るようだった。有無を言わせない剣幕と迫力であったという。
 そもそも、サイは待つのが苦手である。アルファードとトッドのにらみ合いは、そんな彼女の堪忍袋を見事に叩ききったのだ。
 アルファードは唖然として、言われたとおりに全てを訳したトッドは同意するように頷いていた。
「わかった、司令部に話を持って行ってみよう」
 がちゃり、長針が動いた。
 アルファードが言葉を発するまでに、体感でおおよそ三十分の時間が要された。その言葉に、トッドはサイと顔を見合わせた。サイの方はまるで理解していない様子であったが。
「安心するのはまだ早いよ。僕にできるのは司令部に話を持って行くことだけで、勝手に許可を出すことはできないんだからね」
「それでも良いさ、何もないよりかは」
 アルファードの釘を刺すような言葉に、安堵したような声で、トッドは答えた。
 ホールの空気が弛緩する。サイも一段落したのを感じて、椅子の背にもたれかかった。窓の外を見れば、空は暗い夕焼け色に染まっていた。
「ご飯食べていかない?」
 ナージャの言葉に、サイの腹の虫が思い出したように鳴いた。最初に笑ったのは誰だったか。ホールはいつの間にか爆笑に包まれていた。