Novel
2章 12
サイが朝一番に目を覚まし、身支度を済ませリビングへ向かうと、リビングのソファで見慣れない人物が眠っていた。否、顔見知りではあるが、ここスコーリン村で見かけるのは初めてだ。
「あの、もし?」
そこで彼女は自分が母国語で話しているのに気が付いた。
「ええと――Здравствуй(おはよう)」
言い回しにやや違和感があるのは、サイがこの国の言葉に不慣れなせいだ。言われた側、アルファード少佐はわずかに唸った後、アイボリーの瞳を開いた。そしてその状態のまましばらく硬直する。
「Здравствуй!」
大して仲が良いわけでもない年下の少女が、いきなり身内向けの挨拶をしてくるものだから、面食らったのだろう。アルファードは視線だけを動かして周囲を把握すると、上半身だけをのっそりと持ち上げ、言った。
「Доброе утро(おはようございます)」
「うん?」
語彙力が足らないのは相変わらずだ。もっともこれは、挨拶のバリエーションを教えておかなかったトッドら造船団の落ち度だろうが。
そこで待っていてください、というようなことを言い置くと、アルファードはキッチンに立った。
アルファードを待っているうちに、階段からフィリクスが降りてくる音がする。ああおはよう、アルファードがそうおざなりに返事をするが、フィリクスからの返事はない。まだ寝ぼけ眼らしい。
鍋に火がかかり、スープの良いにおいが漂い始めたところで、トッドが降りてきた。
トッドはサイに挨拶をしてから、アルファードの背中越しに、おいしそうだな、と声をかけた。
「なんか意外だな。お前料理できたんだ」
「失礼だな。まあ半分はフェルーヤがつくったわけだけど」
振り返ることなくアルファードはそう返すと、余った食材でもう一品作りに取り掛かった。
そうしてできた朝食は、角鹿の肉のスープに、余った食材をパンに詰めて焼いたものだ。
「すごい、これがピラジョーク? 初めて見た」
「いや、単純に余った材料をパンに挟んだだけだから違うんだが」
トッドが訂正している間に、フィリクスが無言でピラジョークを手に取った。
「本物は具材を小麦粉の生地に入れて焼くんだ。――なあ」
トッドはそこで言葉を切って、フィリクスの様子を伺った。寝起きで機嫌が悪いのか、はたまた未だ寝ぼけの境地にいるのか、先ほどから黙々と食事をし続けていて、トッドたちのほうを見向きもしない。トッドは仕方なく、アルファードに真偽を問うた。
「……具材を生地に入れて焼くのが正しいんだってさ」
「へえ」
サイはちらりとアルファードのほうを見た。アルファードがここにいるということは、今日がソレーンに戻る日なのだ。
「そういえば」
不意にアルファードが口を開いた。
「光石の件はどうなりましたか」
その言葉を聞いて、フィリクスが居心地悪そうに身じろぎした。
「まあ、たとえ無理だとしても、今日が期限ですから」
「問題ないわ」
アルファードの声を遮るように、サイは言った。そしてトッドのほうを振り返り、ねえ、と同意を促す。それにトッドも頷いたのを見て、アルファードは目を瞬かせた。テーブルの上が不気味なほどしんと静まり返った。
「そうですか、それは良かった」
フィリクスが何かを言いかけて、口を閉じた。
「まさか。あの堅物共が外の人間にそうほいほいと光石をあげるとは、思えないんだけど」
「兄さん!」
低い声でフィリクスが、アルファードの乱暴な口調を窘(たしな)めた。
「『光石をやる』っていうのは、向こうから言ってきたことだぞ」
トッドの言葉に、アルファードが興味深そうな、フィリクスが気分の悪そうな顔色になった。
「あの堅物共が?」
「ああ、『試練をこなせれば光石をくれる』ってな」
「『試練』?」
反芻するようにひとつの単語を訊き返したアルファードのアイボリーの瞳が、不気味に輝いた。
「遺跡の奥の文字を読め、だとさ」
がたん、と椅子が音を立てた。トッドは胡乱げな視線をサイに向けたが、当のサイは首を左右に振った。音の発生源はフィリクスだった。
「ごめん、食器を片付けてくるね」
フィリクスは具合の悪そうな顔で笑うと、空になったスープ皿をキッチンへと運ぶ。手伝ってくる、サイはそう言ってパンの乗っていた大皿を手に立ち上がった。
「どうかしたの?」
重ねた食器を前に、フィリクスは青い顔で立ち尽くしていた。鍋は火にかけられていて、その中には氷が投入されている。スコーリンに水道はない。氷を溶かして水を得るのだ。
「ねえってば」
「……あ」
そこでようやくサイの存在に気づいたかのように、フィリクスは濡れ羽色の瞳を伏せた。
「すみません、少し考え込んでいて」
「そう、何か具合が悪いとかではないの?」
サイの問いかけに、うっすらとした笑みを浮かべて大丈夫です、と応えた。サイはそれに頷いて、トッドとアルファードの待つテーブルへと引き返した。
テーブルにはなんだか殺伐とした空気が漂っていた。どうにもスコーリンに来てから、こんな場面に遭遇することが多い。サイが戻ってきたことに気づいたトッドが、どうだった、と訊いた。
「体調が悪いとかではないみたい」
「そうか、そりゃあよかった」
トッドはサイに返事をすると、アルファードに今までの内容を訳して伝える。その様子を見て、改めて言葉がわからない不便さを思い知る。サイが異国語を理解していれば、こんな手間は必要ないのだ。
「お茶が入ったけど、飲むかい?」
キッチンからフィリクスの声が聞こえた。サイはあの甘ったるい味を思い出して、間髪入れずに結構よ、と返した。