Novel

幕間

 船を下りた後、件の軍人アルファード・S・ニルセン少佐は、東方司令部へ向かってそりを滑らせていた。
 東方司令部の大きな赤茶けた建物が見えてきたところで、彼はそりを降りた。門に近づけば門番の二人の憲兵が、アルファードの階級章を見て敬礼した。アルファードは敬礼を返して建物の中に入っていく。
 アルファード・S・ニルセン少佐。弱冠二十一歳、しかもし少数民族ノルンの出身にして現在首都勤務の、いわゆるエリート組だ。
 クリーム色の髪と、同色の瞳が衆目を引いていた。道理である。普通ならばあり得ない色だ。
 彼の髪色が珍しいからだろう。廊下ですれ違う人々がちらちらとアルファードを伺っていた。
 首都勤務のアルファードが東方司令部に訪れたのは、一時帰宅という名目の上である。だが、それ以上に重い任務が彼の肩にのしかかっているようで、アルファードは知らずため息を零していた。
 司令部の最上階の最奥にその部屋はある。「大佐室」と書かれたその上に、手書きの標準クローヴル語で「Или смерть или любезно(礼儀か死か)」と書かれた紙が貼ってあった。物騒なのでやめてもらいたい、とアルファードは心の中で零した。
 中の人物と相対することに少しだけ覚悟を決めて、アルファードはドアをノックした。やがて返事が返ってくる。
「入れ」
「失礼――」
 アルファードの言葉は飛んできたナイフによって遮られた。
 すんでの所でかわしたが、それは頭のすぐ横で小気味いい音を立てドアに突き刺さった。よくよく見れば、ドアの裏側にはダーツの的を模した張り紙がされている。アルファードはそれを見て僅かに息を呑んだ。
「体は鈍っていないようだな」
 部屋の主、アニーシヤ・コーネヴァ大佐は言う。ハーフアップにした、うねる紅い髪が、灰色の部屋に映えている。アルファードの知る限り、彼女が窓を背にナイフを弄ぶのは相変わらずのようであった。
「あなたこそこの遊び――っていうんですか。酷くなってません?」
 アルファードはドアに貼り付けられた的を振り返りながら言った。
 どうして的があるんです、そして的が人型なのはどうしてです。アルファードの問いに、アニーシヤは笑っただけで答えない。
「本当に刺さったらどうするんですか」
「大丈夫だ。ちゃんとコントロールはしている。刺したりはしないよ」
「そう言う問題じゃないでしょう」
 ああどうか大佐が人を刺しませんように、女神様! アルファードは心の中でそう祈って、本題へと入る。
「ええと、中央の動向についてですが」
 そこで一端言葉を切って、アルファードは慎重に周囲を見渡した。ぴくり、アルファードの目が神経質に動いた。
「大丈夫だ。人払いはしてある」
 その言葉に絶対の自信を乗せて、アニーシヤは掌でナイフを玩ぶ。一体どこから取り出した。アルファードはその光景に冷や汗をかいた。
「――分かりました、続けます。やはり上層部はあちらに戦争をふっかけるそうです」
 少し前、隣国フォルトブルクとの間に首脳会談が行われていたこと。そこでの話し合いが無駄に終わったこと。
 じきに新聞に載るでしょうね。そう締めくくられたアルファードの、新聞よりも早い報告に、アニーシヤは鼻を鳴らした。
「まあ、永久氷の真下は豊かな漁場だからな。国益になる。――しかし」
 戦争か。アニーシヤは呟いて、短く息を吐いた。アルファードは、それに吐息のような声で頷いた。永久氷――隣国との国境に広がる凍った海。彼女は僅かに俯き、額に手を当てた。
「上は時々馬鹿なことを考える。結果に見合わぬ被害を受けたらどうするというのか」
「珍しく大佐が弱気ですね」
 アルファードの指摘にアニーシヤはあー、と呻き、その紅色の前髪を掻き上げた。
「永久氷くらい、向こうにくれてやっても良いと思ったまでだ」
 よくもまあ、こんなことを言ってのける――。アルファードは戦慄いた。仮にもここは軍部である。もし、このことを上層部に密告でもされたら「消されて」しまうかも知れないと言うに。
 神経質に周囲を見回すアルファードを、アニーシヤが鼻で笑う。
「おや、お前がこんなことで怯えるのか? 何のためにこの情報を仕入れてきたんだ」
「それは……」
 アルファードは答えに窮した。
 この会話が他に知れてはならない。もし知れたら、そのときはきっと反逆罪で死刑だ。だったら最初からこんなことしなければいい。アニーシヤは言外にそう言うのだ。
「今の政府が、許せないからです」
 これは本当に本心だろうか。疑念から、声が陰った。
「甘っちょろい。甘っちょろいが、まあ、いい」
 アニーシヤはそう言って、緩く笑んだ。ハシバミ色の瞳がふっと細められる。相変わらず手はナイフを弄んでいた。ふわり、コイントスの要領で、ナイフが宙を舞う。
「まあ、今のところ上層部が馬鹿を考えていることが分かった。ああそうだ」
 何かを思い出したらしくアニーシヤは両手を合わせた。ナイフを挟み込む形でキャッチする。血まみれになった元上司(今は直属の部下ではないから、『元』だ)の手を幻視した気がして、アルファードはめまいを覚えた。
「なんです?」
「フィリクスの件だ」
 フィリクス? とアルファードは気の抜けた声を出した。どじで不運な弟の顔を思い描いて、アルファードは、はあ、魂の抜けそうな盛大なため息をつく。
「また左遷ですか。一体何やらかしたんです?」
 まあ黙って聞け。そう言うアニーシヤの声は平坦に響いた。