――船が着陸する少し前のことだ。
モントレビーの港に、一人の青年が立っていた。港と言っても、空船用のそれは広場のようだ。閑寂としたそこには人は少ない。青年のコートのフードは、顔を覆い隠していた。加えて彼自身がうつむいているために、表情はうかがい知れない。あからさまに不審者然としたその青年は、船が帰港したことを知らせる鐘の音を聞いて、わずかに顔を上げた。上空に飛空船の姿が見えた。
がレオン型飛空船はゆっくりと港に近づいて、ゆっくりと着地する。船を支えるための脚が船底から伸びた。その様はまるで獅子がくつろいでいるかのようであった。
何事もなく船が着陸したのを見届けて、男は肺に溜めていた息を吐いた。白い息が辺りに散る。ほう、と安堵の音がした。折角造った船が壊れてしまうのを眺めることほど、遣る瀬無いことはない。
というのは、最近は領土戦争の持ち上がりからくる物資不足・物価高騰で、ろくに船を造ることもままならないのだ。つまり、目の前にいるこの船は、青年の数少ない功績なのだった。だからといって、己の手掛けた船を迎えに来るほど、青年は暇でもないし酔狂な人間でもない。
彼は待ち人をしていた。幼馴染みが、青年に船を作ってもらうために、遠く離れた故郷からこのクローヴルへやってくるというのだ。手紙を寄越してきたのはもう半年も前のことで、手紙が届いた当時ならともかく、現在青年の元に幼馴染みの願いを叶えてやれるほどの余力などなかった。
やがて船の方から、青年にとって見知った人物が一人、姿を現した。この国の人間から見れば薄着に見える白いチュニックに青いベスト。腰にはレイピアを提げている。両の手にはトランク。肩までの髪は黒く、瞳は銀色。
――ワン・サイその人であった。
彼女は甲板から船を見下ろしていた。どうやら、都市計画に沿って造られた無個性なクローヴルの街並みが珍しいらしい。青年はこれからのことを考えて、軽く憂鬱になっていた。
まだ2人が子どもだった頃のことだ。
売り言葉に買い言葉で、サイは崖のような丘のてっぺんに立っていいた。その背後には、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた、いわゆるいじめっ子が立っていた。
話は、こうだ。
学校で、議論になった。人は空船に乗らずに空を飛ぶことができるのか、と。サイはできると言い、いじめっ子はできないと言った。いじめっ子たちは言ったのだ。お前がそういう 根拠を見せてみろ、と。
話はヒートアップして、どちらが正しいかの勝負になった。しかも、その勝負の賭けに青年のレンチが、サイによって勝手に賭けられたのだから敵わない。
結局勝負には負けて、全治三ヶ月の怪我を負った。レンチはいじめっ子に取り上げられ、サイと青年の仲が一時的に悪化したのは言うまでもない。
思い出して、苛々してきたのは気のせいではないだろう。あのレンチはなけなしのお金を出して買った、大切なものだったのに。
街を眺めていたサイが、不意にこちらを向いた。遠目に見ているので、詳しくは分からないが、どことなく不機嫌に見えるのはなぜだろうか。
モントレビーの街から、港へと視線を落とす。待ち合わせの場所に幼馴染みが来ていないのをみて、サイは双眸に不審の色を浮かべた。
広場に不審者然とした男が立っている。しかし、よもや「あれ」が幼馴染みではあるまい。そうは思いたくないが、理解してしまうのは、二人が幼馴染みたる所以である。曰く、「あからさまに不機嫌」だったらしい足取りで、サイは彼が待つ場所へ向かった。
「待たせたかしら」
トランクに引きずられるようにしながら、彼女は待たせ人に声をかけた。
「ああ、待ったとも」
待たせ人、あるいは幼馴染みは、フードの中から赤銅色の髪を覗かせながら言う。彼の声には若干の恨みが篭もっていたが、サイは聞かなかったことにした。すると髪と「同じ色」の瞳がこちらを睨む。
「何かしら」
幼馴染みがため息を吐いて呆れたように横を向いた。サイは幼馴染みの顔を真正面から見るために、彼と向かい合うようにして立つ。幼馴染みがフードを外さないだろうことは見え透いた事実であった。
彼が目深にフードをかぶっているのは、彼が寒がりだから、そして、その奇異な体色で周囲の視線を集めたくないからだ。
あまり知られていない事実であるが、後に名を残す彼、トッド・ノルドハイムは、ワン・サイの幼馴染みであり、かの青皮造船団の創設者であった。
「行くぞ。歩けるか」
トッドはそう言って駅の外を示した。サイはそれに頷いた。2人は連れだって港と言う名の広場から出て行く。表通りをまっすぐ歩いて、橋の横にできた煉瓦造りの階段を降りると、川が凍り付いたような場所についた。
そこには、馬そりが停まっていた。そりは凍った川の上に置かれていて、サイは子どもの頃に読んだ本に載っていたゴンドラ船の写真を思い出していた。形は違うが、似たようなものに思えたからだ。
「これ何?」
指さして聞くと、打てば響くように答えが返ってくる。
「氷上そり、ここでの移動手段だ。ま、乗合馬車みたいなもんさ」
軽い説明をしながら、トッドがそりに乗り込んでいく。それに続くようにサイも乗り込んだ。中の座席はクッションがごわごわしていて、あまり乗り心地の良いものではなかった。けれど船の樫(かし)の木の椅子に長いこと座っていたサイからすれば、クッションがついているだけでもありがたいのだった。
「手紙が届いていたと思うけど」
ドアを閉めながら、サイは言った。それには粗末ながらも人が落ちないようドアがついているのだ。
サイの言葉に、トッドは顔をしかめた。
「そりゃあお前、無茶ってモンだろ。一晩泊めてやる。――ああ、そう、頼むよ――お袋さん体調悪いんだろ? さっさと帰れ」
運転手に行き先を伝えながら、トッドは呆れたように言った。その理由は理路整然としていて、サイが反論を挟む余地など無い。まるで――というか確実に――自分が言い包められているようで、サイの眉間には自然、数本の皺が浮く。
だが、帰るわけにはいかないのだ。
「母さんはもういない。帰るのだってお金がかかるわ」
がたん、大きく揺れてそりが動き出す。サイの意趣返しのような言葉に、トッドはわずかに目を見開き、低い声で悪かった、と謝罪した。
「あのな、船に乗って雲の上に行くって? 夢を見んのも大概にしてくれよ。それを実行すんのだってどんだけの金が必要だと思ってる」
当時の空船は、重さに対して出力が足りず、とてもではないが雲の上まで飛べる代物は存在しなかった。
トッドは半ば自分に言い聞かせるように言っていた。その拳は膝の上で強く握られ、顔は俯いていた。それは決して寒さからくるものではないだろう。サイはトッドの言葉尻を捕えるように言った。
「つまり、お金があれば行けるのね」
「いや、船に強度を持たせたり、防寒対策したり、防寒対策したり……つまりそう簡単なことじゃねえって」
金だってそう簡単に見繕えねえし、工房の皆にただ働きはさせらんねえし……。そうぶちぶち続くトッドの言葉を、サイは両断して見せた。とても明快かつ簡潔な言葉で。
「やってみたいとは思わないの?」
弾かれたようにトッドが顔を上げてサイの目を見た。膝の上で堅く握られていたトッドの手が、一瞬ほどかれ、再び握られた。サイは挑発するようににやりと笑いかけた。沈黙が二人の間に降りる。
やがてトッドは首を振ることでサイに答えた。
「確かにやってみたいねえ。成功したら世界初の偉業だぜ?」
その声は、どこか諦念まじりだった。
「でしょう!」
サイが応えた。トッドはその黒髪をぐしゃりと混ぜて、でもな、とサイを押しとどめる。
「世界にはさ、出来ることと出来ないことがあるんだ」
先ほどの沈黙の半分もしないうちに、そりはトッドの工房の前に到着した。