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二章 6

 駅舎の外では乗合そりが待機していた。形はほとんど馬車のそれだ。だが、車輪の代わりにそりがついていて、馬の代わりに狼のような犬が六頭繋がれている。彼らは黒猫亭にいた子犬とよく似ていた。
 サイはそりを見て、ねえ、とトッドに声をかけた。
「まさか駅の前に川が流れてるって言うの? そんなわけないわよね。じゃ、なんでこんなところに氷上そりがいるのよ」
 生憎とサイはそこまで頭の回るほうではない。そもそもその小さな頭は、主に異国の言葉と、異国のルールを覚えるので精いっぱいだ。そんなサイに助け舟を出したのは、意外にもフィリクスであった。
「簡単なことですよ、ほら」
 彼はそう言って、足元の雪を払った。薄い雪の下から姿を現したのは、分厚い氷の床であった。
「なに、これ」
「雪が凍り付いているんです」
 それを聞いて、うわあ、と天敵でも見たかのような反応を示したのはトッドだ。そして彼はいそいそとそりに乗り込んだ。サイは平然とした様子で氷を覗き込んでいた。
「まあ、見ればわかるかと思いますが、この氷があるのでそりはどこにでも行けるのです」
「いったい何の話をしているんだ?」
 そりの中から、アルファードが口を挟んだ。フィリクスの講釈にへえ、と頷きかけて、サイはアルファードとフィリクスの顔を見比べた。アルファードは不可解そうな――言うなれば、サイが配給のために初めてソレーンの街に繰り出した時のような――表情を浮かべていた。対するフィリクスは何の表情も浮かべていなかった。
 サイはフィリクスの顔をまじまじと覗き込んだ。彼女はトッドに向かって、”母国語でもって”話しかけたのだ。それにフィリクスは割り込んだ。これは普通ではないと、ここにきて始めて気づいたのだった。
 サイが驚きに目を見開くが、当のフィリクスは飄々とした様子で、「さあ、早くそりに乗りましょう」とクローヴルの言葉でサイを急かした。
 全員が乗り込んだそりは、ゆっくりと動き出した。
 そりはまずプーリャニジェに向かう。視察に向かうアルファードに、サイたちが便乗している、という態をとっているからだ。
「それで」
 大して広くないそりの中を、クリーム色の瞳で見回したアルファードが口を開いた。そりの中は馬車のような形で、大人3人子ども1人が乗り込むと少し窮屈だった。アルファードは並んで座るフィリクスに視線を送る。
「それで、彼らのことだが」
 彼ら、とは無論サイとトッドのことである。アルファードの言葉を受けて、フィリクスは一瞬訝しげな表情をしたが、すぐに顔を閃かせた。
「例の人たちか、スコーリンに来たいって言う。……そっちのフードは、もしかしなくてもトージャ?」
「ああ」
 トッドは頷いて、フィリクスに片手を差し出した。フィリクスもそれを握り返す。お互いに久しぶり、と声を掛け合っていたのだから、過去に何らかの交流があったのだろう。
「なるほどね。トージャが兄さんにスコーリンの飛空石が欲しいと頼み込んだわけだ」
 納得したようにフィリクスが頷く。やはり彼もトッドのことを「トージャ」と呼ぶ。その言葉にどこか皮肉るようにも、陰りがあるようにも聞こえたのは気のせいだろうか。トッドは頷いて応えた。
「それが真っ当だろ?」
「……それもそうだね。ああ、うん、その通りだ」
 相槌を打ったというよりは、自らに言い聞かせるような声音であった。
 それきり会話が途絶えた。そりは雪原を行く。時たまそりが氷塊に乗り上げてひどく揺れることはあるが、行程そのものは順調だ。故に誰かが何を言うこともなかった。サイについては異国の言葉を習得中が故に口の挟み方がわからなかった、というのがあるが。
「なあ、フェルーヤ」
 アルファードがフィリクスを呼んだ。この国の人々はあだ名が好きだ。というより、名前が長いから略したがるのだろう。トッドは別にして。サイは、そう漫然と考えた。アルファードはアーリャ、フィリクスはフェルーヤ。
「彼らに誰か案内をつけられないか」
 アルファードの言葉に、フィリクスは信じられないという表情を向けた。向けられたほうは不快そうに顔をゆがめた。
「兄さんって、他人に気を遣うことが出来たんだね」
「からかってるのか」
「いや、結構真剣だよ」
 フィリクスの言葉にアルファードはムッとした顔になったが、大した反論はしなかった。
 当のフィリクスは素知らぬ顔で、案内人、案内人ねぇ、ともごもこ呟いている。何やら思案に耽っているようだった。
「フィリクスが案内することはできないの?」
 サイが、酔って僅かに弱った声で言った。その言葉に、アルファードは困ったように苦笑をして、その隣でフィリクスは忌々しそうに唇をかんでいた。
「こいつを連れて行かないと、後々面倒なことになるんですよ」
「そういうもんなの?」
「ええ」
 首を竦めながらアルファードが答えた。その隣で渋面を浮かべたまま、何かを決めたようにフィリクスが白い息を吐いた。
「まあとりあえず、プーリャニジェに着いたら誰かを当たってみるよ」
「頼んだ」
 しかしねえ、と膝の上で手を組んだフィリクスが呟く。
「スコーリンに直接来るなんてね、上手く行けばいいけど」
 僅かに笑みを浮かべ、言外に含みを持たせたようなその口ぶりは、黒猫亭のナージャとシードルを髣髴とさせた。
「なによ」
 サイはむっとしたような声を上げた。彼女は根の単純な娘だった。思わせぶりな口調が、彼女の癇に障ったようだ。
「みんなそうやってごまかすわ、スコーリンにいったい何があるっていうの」
 詰問するようなサイの言葉に、フィリクスは困ったように笑って、その黒い瞳を窓の外へ投げかけながら囁くように言った。窓の外は相変わらず銀世界だ。
「何もありませんよ、しがらみの他はね」
「は?」
 残念ながら、フィリクスの言葉をサイは聞き取ることができなかった。まあ、たとえ聞き取ることができたとしても、反応は同じだったろうが。