Novel

二章 3

 サイは北へ向かうにあたり必要そうな荷物を詰めたトランク片手に、駅へと急いでいた。と言っても、実際に急いでいるのは氷上そりであったが。
 クローヴルは広い国だ。それに造船が盛んなのは知っての通りである。そのため、国内の移動にも船を使うことはままある。けれど、それが叶わない地域がある。
 北だ。
 北国クローヴルでも北に位置するそれらの地域は、季節を問わず余所者を寄せ付けない暴風が吹き、船の翼や浮き袋を凍てつかせる。そうなっては船は飛ぶことができない。これも空船が雲の上に行けない理由の一つであった。だから列車で向かうのだ。
 氷上そりが大きく揺れて止まった。駅に着いたのだ。
「ありがとう!」
 サイは多めに運賃を払い、トランクをひっつかむと駅へと走る。もうすぐで列車の出発の時間だった。
 走る速度を落とさないまま跳躍し――信じられないことだが――切符を売る駅員を飛び越えた。別に誇張ではなく、実際に五月二十日の駅員日誌に書かれているので事実である。
 そして、走り出した列車に、間一髪、乗りこんだ。ドアを閉めようとしていた車掌が悲鳴を上げる。
 完全なる無銭乗車であった。
「どうかしました?」
 客室の方から、ばたばたと走ってくる音がする。まずアルファード少佐が顔を出した。それに続いてトッドがフード姿を覗かせる。どうにも顔をしかめたように見えた。
「お前、何やってんだ」
 列車はもうすでに走り出していて、降りるに降りれない。開いたままの昇降口から、速度を上げて流れていく地面が見えた。アルファードが車掌に対応を問うている。その場に座り込んだサイの眼前にトッドがしゃがみこんだ。
「何してくれてんだ、お前は」
「見送りよ」
「こんな見送りはいらねえよ。そもそもそう日誌に書いただろうが」
 そんなことを言われても、サイに異国語の読み書き能力を求めるほうがどうかしている。彼女はしゃべることはできても、書くほうはまだまだ未熟なものだったのだ。
 それに思い至ったのか、トッドはいいや、なんでもないと渋面の前で手を振った。
「しっかし、なんだってついてきたんだ」
「当然のことでしょ、私があんたたちに船を作るよう依頼したのよ。だったらそれを最後まで見届けるのが道理じゃない」
「だったら工房で船を作ってくれてたほうが有難かったんだが」
「え? なに」
「なんでもねえ」
 すっとぼけたようなサイの言葉に、トッドが疲れたようにため息をついて立ち上がった。サイもそれに倣った。そしてトッドは車掌とのやり取りが終わったらしいアルファードに、早口の異国語で問うた。どうにか断片は聞き取れたが、やはりサイはほとんどが聞けずじまいであった。
 ちなみに、二人の会話を訳すと以下のようになる。
 ――こいつを次の駅で降ろすとかはできないのか?
 ――無理だ。これは直通列車だからね、目的地まで止まらないよ。
 ――つーかなんでお前までついてきてるわけ、見張り?
 ――まあそれもあるけど、ちゃんとした任務さ。北方司令部視察。
 それを聞いて、トッドはフードの下の鉄錆色の髪を掻き上げた。そして、事実をそのまま伝える。
「お前を降ろすことはできねえんだと」
「へえ、それはいい知らせね」
「俺にとっちゃあ悪い知らせなんだが」
 そう言って、トッドは白い息を吐いた。それを見て、車掌が開いたままだったドアを閉めた。ものすごい勢いで流れていく景色が、ドアの向こうに消えた。
 いよいよ寒さを自覚したのか、トッドが客室を指差した。
「戻ろうぜ」
 客室といっても、二等客室だ。軍人が用意するのだからもっといい客室にすればよいのにと思うものだが、そうもいかないらしい。けれど二等客室といっても彼ら以外誰もいないから、実質的には一等客室のようなものであった。
「ああ――ええと――人が居ないわね、とっても」
 残念ながら、彼女の語彙はまだ貧弱なのであった。本人は「ガラ空き」と言いたかったのであろう。
「当然です。この列車には許可を得た者しか乗れませんから」
「嬉しいわ!」
「そうですか」
 言いながら、三人は客室の一角に腰を落ち着けた。サイとトッドが並んで座り、彼らと向かい合うようにアルファードが座っているといった構図である。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。首都勤務、アルファード・S・ノリン少佐です。以後よろしく」
「トッドから聞いてる。友人なんですってね」
 アルファードの握手に応えながら、サイは言った。
「おや、そうでしたか」
 アルファードは僅かに肩をすくめてその「友人」を見た。当の本人は素知らぬ顔だ。
「一応聞きますが、あなたとトッドの関係は?」
「みんなそれ聞くのね」
 呆れたようにサイは言って、何かに気がついたかのようにアルファードの顔を見た。
「僕の顔に何か?」
「……あ、ああ、いいえ、なんでもないわ。あなたはトージャって呼ばないのね」
「ああ、まあ。呼び辛いですが、猫(コット)と大体同じ発音だと思えば」
「なるほどなあ。けど言い辛いやつのほうが大半だからな、俺はここで名乗るときには大体『トージャ』って名乗ることにしてる」
 書類にはちゃんと「トッド」って書いてあるぜ。とトッドは付け加えた。
「へえ。じゃ、私の『サイ』も言い辛かったりするのかしら」
「そうですね、うっかり『サーイ』と呼びそうになりますね。まあ、『トード』よりはましかな」
「言えてねえぞ」
 からかうような調子でトッドが言う。その言葉に、アルファードがむっとしたような表情になった。
 場を仕切り直すようにアルファードが咳払いをした。サイは思い出したようにああ、と声を上げた。
「私とトッドの関係、だったわね」そこで際は首を傾げ、同意を求めるようにトッドの方を向いた。「ただの幼馴染よ、ねえ」
「まあそうだな」
「へえ」
「おいおい、変に勘ぐったりしてくれるなよ」
「しないさ」
 どうやらこの少佐は、友人には気安いらしい。さっきまでの堅苦しい言葉遣いが嘘のようだ。
 列車の外は打ち付ける風がびゅうびゅう音を立てていた。東部ソレーン発北部プーリャニジェ行の特別列車は、特に何者にも妨げられることなく進んでいった。
「なあ、サイ」
「……なによ」
 行程の3分の1に差し掛かろうという頃、おもむろにトッドが口を開いた。列車酔いを起こしていたサイの返事は弱々しい。
「お前は、何のために雲の上まで行きたいんだ?」
「いきたいから」
 問に対して、サイは即答だった。アルファードはそんな二人のやり取りを観察していた。
「具体的に言え、頭が回ってないのもわかるが。……雲の上に行って、何をしたい」
 この問には、サイは即答しなかった。僅かに間を空けてから、か細い声で「弔いのため」と答えた。
 そして流石に酔いがしんどくなったのか、サイは窓に寄りかかって口を閉ざした。