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二章 幕間2

 時間は少し遡る。5月19日の昼。アルファードが、トッドたちに諸々の許可を伝えた後の事である。
「ノルン少佐」
 呼びかけられて、アルファードは顔を顰めた。聞こえた声が、彼と本質的に反りの合わないものだったからだ。
「いやあ、ノルン少佐、お忙しいようでなにより。ご機嫌麗しゅう」
 彼の名はライマル大尉と言った。アルファードの元同僚だ。いわゆる「器の小さい」男だったようだ。
「何でしょうか」
 ライマルはにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、言った。
「1月(ひとつき)も雑用を押し付けられるとは、難儀なことですなぁ。
 いやいや、私などには想像もできないことですよ。北方視察ですってねぇ。……せいぜい頑張って、あとの人々に貢献してくださいね」
 言い終わると、ライマルはケケケっと笑った。アルファードは信じられない言葉を耳にしたような気がして、どういうことかと問いかける。
「別に難しいことは言っておらんでしょう。私が言ったのは、あんたが北方視察に行くということですよ?」
 アルファードが一時帰宅を理由に中央から離れて早一ヶ月。アルファードの元には、帰還催促の電話や通達がひっきりなしに届いていた。
 無断でこんなことができるのは、ここ東方司令部には二人しかいない。そして、アルファードには実行に移す人物に心当たりがあった。
 ――アニーシヤ・コーネヴァ大佐である。
 それに気付いたなら、動くだけだ。
「ちょっと、おい?」
 横で騒ぐライマルを無視して、アルファードは早々に報告書を片付けた。そして、大佐室へ向かう。
 この1ヶ月、アニーシヤがなんだかんだとアルファードに雑事を言い付け、東方司令部に拘束していた理由が垣間見えた気がした。彼女は機を狙っていたのだ。
 けれど、認めたくはなかった。アルファードの心情としては、早く中央に帰りたかった。
 大佐室へたどり着くと、アルファードはノックも無しにドアを開け、部屋の主を呼んだ。ただ、慌てていたせいで、ついうっかり、敬称が抜けた。
「アニーシヤ、いるかい? 訊き――」
 アルファードのすぐ横をナイフが駆け抜け、彼の頬に薄い切れ込みを作った。
「表の張り紙が見えなかったのか? あと、私は今虫の居所が悪い」
 そう言って、アニーシヤは引き出しから出した二本目のナイフを見せびらかした。きちんと手入れがなされているのだろう。ナイフは白銀のきらめきを放っている。
 これには流石にアルファードも命の危機を感じた。「ちゃんとコントロールしている」と言うだけあって、アニーシヤの投擲は精確だ。アルファードは咄嗟に居住まいを正した。
「……失礼しました」
「それで、急ぎの用なのか」
 そう言うアニーシヤは、確かに苛立っているようだった。緋色の髪を苛立たしげに掻き上げ、その手を乱暴に机に叩きつけた。
「ええ! ……僕が北方視察に行くというのは確かなことですか」
「ああ、それか。そうだ、確かに向こうにはそう伝えてある。まあ、そういうことだから、行ってこい」
 アニーシヤはそうおざなりに答えて、俯いた。
「ですが――」
 反論しようとした言葉は、飛んできた二本目のナイフに封じられる。それは首筋を掠めて、ドアに刺さった。背筋が凍るとはこのことだ。
「お前の気持ちも分からんでもない。だが、フィリクスと真っ当に話せるのはお前だけだ」
 アニーシヤの言葉に、アルファードはぐっと押し黙って、俯いた。アニーシヤはそれを承諾と取ったのだろう、「頼んだぞ」と声をかけた。
「ところで、スコーリンへの許可の事だが」
 その言葉に、アルファードはのろのろと頭を持ち上げた。
「珍しいな、お前が打算もなしに話を承けるなんて」
「違います。彼らの船は僕らの利になる」
 答えたアルファードの声は、感情を押し殺しているかのようだった。らしくない、と自ら内心で呟いて、感情の揺らぎを落ち着かせた。
 アニーシヤはそうか、と答えたきり、この話題からは興味を失ったようだ。そしてまた苛立ったように机を指で叩いた。
「何があったんです?」
「大工廠の件だ。モントレビーの」
 短く答えて、アニーシヤは額に手をついた。
「この計画を潰せれば、クローヴルは向こうとの戦争を先延ばしにせざるを得ないだろう」
「確かに、そうですね」
 悔しそうなアニーシヤとは対照的に、アルファードは思案した。おそらく軍は戦争で使う武器工場をモントレビーに造りたいのだろうが、果たして、それを妨害するだけで戦争を止められるだろうか。
 クローヴルの西部は軍都として成り立っている。今までだって西部の武器工場だけで足りていたのだ。
 そんなアルファードを気にも止めずに、アニーシヤは言葉を続ける。
「官僚たちは決着をつけるつもりだよ」
 アニーシヤの言葉に、アルファードはわずかに目を瞠った。なるほど、それなら今までよりも力がいるだろう。
「ここ1ヶ月中央と掛け合ったんだが、あの腐れ官僚どもめ。モントレビーの造船所は『あっても無駄だから大工廠に作り直す』だと。とりつく島もなかったよ」
 アルファードが東方司令部に拘束されていた、4月19日から5月19日までの1ヶ月の間、東方司令部と中央司令部とで頻繁に連絡を取り合っていた記録がある。
「無駄、ですか」
 アルファードの反芻するような声に、アニーシヤはため息で答えた。
「しかし、これが駄目だったとすれば、強行手段に出るしかあるまい」
「はあ」
 アルファードにはどう答えればいいのかわからなかった。
「つまりは保険さ、計画がうまく行かなかったときのな。出来れば使いたくなかったのだが――恨むなよ」
 アニーシヤはそこで言葉を切ると、先程とは打って変わって厳かな調子で告げた。
「アルファード・ソロニヴィチ・ノリン少佐」
 その言葉が合図だと察して、アルファードは弾かれたように姿勢を正す。
「お前に、北方司令部視察の任を言い渡す。……しっかりやれよ」
「は!」
 アルファードは敬礼して、「礼儀正しく」大佐室を立ち去った。流石に、背後から飛んでくるナイフは避けられようもない。