サイは窓の外を眺めていた。 彼女は船酔いを誤魔化そうと思っていたのだった。元々は手紙を読もうと画策していたのだが、季節風で船が酷く揺れるため、それは叶わなくなっていた。 しかし窓の外を眺めると言うのも失策だったかも知れない。外は一面の雪で、揺れる船内でじっと文字を見つめているのと変わらない心地になったためである。 窓の外を眺めるのも諦めて、肘掛け代わりにしていたトランクを倒し、サイはそれを枕のように使って二人掛けの椅子に横になった。 何も気兼ねすることはない、この二等船室にはサイ以外の乗客はただ一人。通路を挟んだ向かい側の席にいるだけだ。 サイがまどろみの彼方へと意識を飛ばそうとしたまさにその時、もう一人の乗客が立ち上がった。それだけならばまだいい。次いで上がった音に、サイは意識を手放すわけにはいかなくなった。 「動くな」 拳銃を突きつけられて、サイは咄嗟に身を起こした。そして腰にくくりつけたレイピアに手をかける。 男が身を強張らせた。 姿勢を低くし、男の足を払う。どう、と音を立てて無様に転ぶ。 すかさず男の喉元に、レイピアの切っ先を突きつけた。 「何事ですか!」 荒くドアが開かれる音がして、船室の入り口に灰色の軍服を着た青年が慌てた様子で立っていた。さっきの叫びは彼の物かと得心する。男が倒れたときの音に驚いたのだろう。サイはそう独り合点して、男の片手に握られていた銃を青年に見せびらかした。 なにやら火気厳禁とかいうことを言われて、拳銃をひったくられた。だが生憎とサイに正確なところは分からない。 そして青年は倒れ伏した男の側にしゃがみ込むと、男に向かって言った。 ――……勤務……少佐……。 流暢な異国語から、サイが聞き取れたのは、この二単語だけだった。 その顔は笑顔だが、えも言えぬ強制力があった――サイは後にそう語る。 男を手際よく縛り、軍人はサイの方に向き直った。 ベージュの目に、ベージュの髪。目は細められていた。肉食動物が獲物に対して威嚇するかのように。 背筋に冷たいものを感じたせいか、構えた体を元に戻すのは予想以上に難儀なことだった。 「大丈夫ですか?」 軍人の笑みは、先の冷たいものなど微塵も感じさせない、柔和な笑みだった。 「ええ……」 軍人の豹変ぶりにサイは戸惑いを隠せない。 軍人はちらりと窓の外を見やった。 彼は何か呟いたが、早口すぎてサイには理解できなかった。ソレーン、と言った気がした。どうやら目的地は同じらしい。 「名前をお聞きしても?」 事情聴取だろうか。いぶかしがりながらも、面倒ごとはごめんだとサイは名乗った。 「ワン・サイ、サイが名前」 「よろしく」 軍人が差し出した手を見て、サイは戸惑いながらも、そして彼女自身の小さめの手を差し出した。 「こちらこそ」
ワン・サイ――前者が名字、後者が名前――それが彼女のフルネームだ。 出身はフィンクシ自治領イシュー。誕生日は統一暦、一七五四年十二月十三日。現在十六歳である。 これは彼女を示す情報であって、サイ自身を構成する”一部”たりえない。人間を構成するのは、家族の愛情と、周囲からの干渉、そして経験である。 サイがサイであるその理由の一つを語るのに、丁度良い話がある。 サイが十歳の時のことだ。 それは穏やかな昼のことだった。幼いサイは、背後に幼馴染みを連れて、小高い丘のてっぺんに立っていた。その背後には、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた、いわゆるいじめっ子が立っていた。 話は、こうだ。 学校で、議論になった。人は空船に乗らずに空を飛ぶことができるのか、と。サイはできると言い、いじめっ子はできないと言った。いじめっ子たちは言ったのだ。お前がそういう根拠を見せてみろ、と。 要は売り言葉に買い言葉である。 丘とは言っても、底との落差は大人三人分はありそうな、子供が落ちれば確実に怪我をするであろう高さがあった。 そんな高所から、サイは幼馴染みの制止も聞かずとんだ。なだらかな丘だ。だから転がり落ちたのかもしれない。本人が望んだのは「飛翔(Fly)」の方であろうが、彼女が実行したのは「跳躍(Jump)」の方であった。 ともかく、サイは全治一ヶ月の怪我を負った。周囲から厳重注意されたのは言うまでもない。 彼女は周囲がどう言おうと、自分の信念を貫き通す。その信念のために妥協したことはなく、時には家族と大いにすれ違ったこともある。今こうしてサイがこの国にやってきたのも、その信念、および夢のためである。 「もうすぐ着くようですよ」 軍人の声に、サイの思考は寸断される。軍人は今サイの目の前に座っていた。 揺れが体を襲う。サイは押し寄せてくる吐き気に、再度悩まされることとなった。 「どうかなされましたか」 顔が青いですよ、軍人は心配そうに言った。 「酔いやすいんです」 果たして正確に言えただろうか。サイが尻すぼみの声でそう訴えれば、軍人は非礼を詫びた。何か言ったようだったけれども、彼女にはわからなかった。 椅子の背にもたれかかり、窓に顔を押しつけるようにする。そうすれば、窓から伝う冷気で、吐き気が収まる気がした。 重い頭が少し軽くなるのを感じて、サイは息を吐く。結局二人は港に到着するまでこの状態を保っていた。 到着を知らせる鐘が鳴り、サイは重い頭を持ち上げる。 「観光」と言うにはいささか重すぎるトランクを引きずり、下船すると鉛のような脚を持ち上げ、目的の人物の方へと向かった。
クローヴル社会主義国。 広大な世界一の国土を有し、湖、川が多く、楕円形で東西に長い。主な産業は造船であり、湖や川で獲れる魚を輸出することに役立てられている。 その造船を専門的に行っているのが造船士である。 造船士トッド・ノルドハイムは、周囲の視線を避けるように、コートのフードを深めに被って、港で立ち尽くしていた。 やがて鐘が鳴り、次いで汽笛と共に船の着陸する重い音が鳴る。ようやっと到着した。