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2024年
〔11月の言葉〕
心にたまった功徳の
真言宗では人が亡くなられますとお大師さまのもとへ安心して帰られるようにと、不動明王を始めとする十三の諸尊の慈悲をうけて、み仏の世界へと迷わぬように導いてくださいます。
その旅路の中で「三途の川」を渡らなければいけませんが、そこでは今まで着てきたもの全て脱がされてしまいます。着てきたものというのは、どれだけ良い家に住んで、肩書が沢山あって、お金を蓄えてきたという、いわば生きていく上で私達にとっては大変価値のあるものと思い込んでいたものです。実のところそれらは何一つ持って渡ることはできないのです。
しかし、ただ一つだけもっていけるものがあります。それは生前仏さまのそばにいて供養を心がけ、人にありがとうと感謝される思い出、つまり心にたまった功徳の貯金だけを私達は持ってゆくことができるとされます。
これから分かるように、残った私達が仏さま(ご先祖さまや故人)の為にお供えものを祈りをささげることはお互いにとって素晴らしく功徳のあることであります。
〔10月の言葉〕
仏さまに帰依する気持ちが整え
その教えも自然と心にしみわたる
仏事、法事で読誦する観音経や般若心経などのお経の前に必ず短いお経が読まれます。真言宗では「開経偈」「懺悔文」と続き、我昔所造諸悪業と始まる懺悔文では
「私達は、ずっとずっと昔から造ってきました。それこそ沢山の悪業を犯してきました。今世だけでなく過去世も含めて、貪り瞋り愚痴が原因で人に迷惑をかけ沢山の人に辛い思いをさせてきたと思います。だからこそ今、精一杯反省しますと」誓います。このように本番のお経を読む前に、心をしずめ、いろいろな雑念や欲望を取り去って仏様に帰依することから始まります。
本番のお経では仏さまの功徳を読みあげていきますので、こちらの気持ちが整っていますと、その教えも心に染みわたります。
これは家庭、職場や学校でも同じことが言えるでしょう。自身の心が荒れていればどこにいっても愚痴しかでてきません。ありがたいご縁を頂きました、私にはもったいないという気持ちがあれば自然と可能性も広がっていくのではないでしょうか。
〔9月の言葉〕
平等に降りそそぐ仏の教えも
自身の心にしたがって変化していく
「それ水は 器に随って方円し 物に逐うて清濁なり」(みずは器によっては四角にも円にもなり、物によって清いものと濁りともなるものです。) 水は仏の教えであり、人間の存在をものを入れ収めるものという表現したものです。この器と合わせて機根という言葉が仏教では使われ、仏の教えにふれて精神的、宗教的な能力が発揮されることと解かれます。その仏の教えは、学ぶ以外に日常生活の中においても常に私達に降りそそいでいます。
例えば、人に傷つけられ損をさせられたというのに対して、許せない仕返しをしなければと思う人と、私は人に対してはこういった思いはさせたくない気を付けよう。また私もどこかで相手に対して辛い思いをさせていたのかもしれないなあと感じられる人では、注がれた水のかたちも清濁も異なることでしょう。
平等に降りそそぐ仏の教えも自身の心にしたがい変化していくのです。
〔8月の言葉〕
ふと心が軽くなる瞬間にこそ
自身の中の仏さまが輝いているのです
お大師さまは、悟りは言葉であらわし伝えることはできませんが、どなたの心の中にも仏さまがいると説かれています。巡礼など手を合わされる方々がありがたい体験をされるのも心が素直になり受け入れる態勢が整っているからではないでしょうか。あれこれとあせって物事を考えている時はすべて裏目にでますが、その時々の流れにまかせていれば案外スムーズに運んでいくものです。
いらだち、不満でもんもんとする心がふと軽くなる瞬間にこそ自身の中の仏が輝き、こだわりを捨てさせ、また前に向かって進めるように導いてくださっている気がします。
〔7月の言葉〕
自分だけの幸せを願う雑草の芽
周囲の幸せを願う大木の葉が生い茂れば
自然と枯れ、人生の大切な養分となる
仏教の言葉に「大欲」「小欲」という言葉があります。「小欲」とは自分だけの幸せを願うことであり、みんなの幸せを願うのが「大欲」です。夏本番のこの時期、刈り取った雑草も数日もすればあちこちに芽を出してくるように、私達の心も気が付けば「小欲」の芽に覆われているものです。あの人にこんなことを言われた、あの態度が許せない。こんなに頑張っているのになんでなんで・・・
お大師様は小欲の雑草に覆われてしまわないように「大欲」という大きな木を育て、枝一杯に葉を茂らせなさいと言います。すると日が当たらない雑草は自然と枯れていき、枯れた雑草もまた大欲という大木の栄養に変わっていくと説かれます。
思い通りにならないこと、辛いことはいくらでもありますが、大欲の大木が育った時にはそれらも全て大切な人生の養分となっていることでしょう。
〔6月の言葉〕
どんな時も落ち着いて一呼吸
まずは心に仏を感じることから
私達の人生を向こう岸に渡る舟にのっていると例えてみます。
波風一つたたない水面であれば皆安心して進めます。時には嵐にみまわれ不安な航海中、横を通る大きな船をみれば藁にもすがる思いでそれにのってみたいと思うことでしょう。また、周囲に沢山の小舟をみれば我先にと必死でこいでいくのが人の心情ですが、慌てれば船がゆれて沈むこともあります。
そんな時にこそ一旦落ち着いて、自分と向き合い、自分の乗っている舟をよく観察するのも良いのでは。水面が荒れているならば穏かになるまで待ち、周囲に沢山の舟があるならば場所を変えるのもありです。実の所、皆目的地が分からず進んでいる可能もあるのですから。
まずは心に仏を感じ、心安らぐ航海を続けることが自分の行くべき地への素晴らしい羅針盤となるのではないでしょうか。
〔5月の言葉〕
生きがいは 心の塵やほこりを
普段は塵やほこりが舞って見えない景色も雨あがりには遠くまで澄んで景色が浮き上がってきます。同じように、私達も変なプライドや意地で見えなくしているものに気づければ視界が広がっていきます。
生きがいはほかから与えられるものではなく、自身の心の塵やほこりを祓い素晴らしい、ありがとうございますと言える心によって見つかるのではないでしょうか。
〔4月の言葉〕
真言と共に心明るければ
四月に入り新しい環境での生活が始まる方もいらっしゃることでしょう。同じように山の木の枝にも新たに新芽が開き、古い葉も新しい葉へと変わり始めました。今は日々落ち葉の掃除に追われています。
雨に濡れた落ち葉はいくら掃いても掃除になりませんが、乾いた落ち葉が風に吹かれて一所に集まり掃除が楽な時もあります。いくら努力しても成果がだせない時もありますし、面白いように物事がスムーズに流れていくこともあるでしょう。人生はそれの繰り返しなのではないでしょうか。
つまりどちらも永遠には続かないという事です。辛い時には焦らず、自身を責めないこと。上手くいきすぎる時にこそ驕らないことです。
真言と共に心明ければ、迷いなく安心がおとずれます。
〔3月の言葉〕
今を認める心こそ
怒りや不満を
効き過ぎる薬が体に毒であるように、お説教も過ぎればただの悪口とな
そんな全ての迷いは、みな自分の身贔屓、わが身可愛さから生まれてくるものです。わが身を可愛く思う心を離れ、これで良かったじゃないか、それはそれでしょうがないよと、今を認められる心こそが真実を見極め、怒りや不満を浄化していく力となるのです。
〔2月の言葉〕
心が清浄であれば自ら不幸や災難を遠ざける
建治寺では、皆様のささやかな願いから全心身をかけた願いまで様々な
護摩は、炉の中に種々の供物を投入し、焼いて仏に供養することで、梵語で「ホーマ」といい、梵焼の義であります。梵焼とは煩悩を焼き滅するの意で、護摩木が燃えていくことは、仏の智慧の火で、心の垢を焼き浄めていくということなのです。
すべての不幸や災難は、いかにも外からばかり起こってくるように思われますが、実際にはそれだけではなく、自分の内なる不浄、心の持ちようが原因でもあるのです。ですから心が清浄になりさえすれば、自ら不幸や災難を免れることができるようになっていくのです。
また、体の不調和を治すには煎じ薬や粉・錠などの薬がありますが、心の病、霊的な祟りの病や業病は経典や真言陀羅尼によらなければならないとしています。当山にお参り頂き、共にお経を上げて頂く事で、勤行次第の最後に唱える廻向文「ねがわくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし われらと衆生と みなともに仏道を成ぜん」と説かれるように、自他ともに与えられる大きな功徳となっていくのです。
〔1月の言葉〕
感謝する心によって
光輝く仏の智慧となってみえてくる
令和六年辰年、今年初めての月護摩となりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。元旦からの能登半島での地震、この寒い時期にご自宅ですごせないことがどれほど大変なことでしょう。被災された方々の元の生活が少しでも早くもどってきますようにと、お亡くなりになられた方の供養を月護摩を通じて祈らせて頂きます。
先のような生活をおくられている方々がいる中であっても、私達は常に時間に追われ、仕事に追われ、そして何か辛いことを探しては否定する理由ばかりさがしているのではないでしょうか。自分のことだけで頭がいっぱいになりますとそこには何も良い智慧、仏の光が差し込んでこないのです。
こんな大切なことを教えてもらえた、私が考え違いをしていました、ありがたいと気持ちを切り替えて感謝していけば嫌なことも、辛いことも違った姿となって光輝いてみえてくるでしょう。
2023年
〔12月の言葉〕
供える花が美しく咲くように
いつでも心あらたに 前をむいて
『花を供える供養より』、汗の噴き出るような暑さや身も凍る寒さにも耐えて花は咲きます。それは、人にけなされ侮られ、いかなる苦しみを受けようとも、怒りを抑えて耐え忍ぶという忍辱の行の大切さを示しています・・・とは言いましても、綺麗な花もいつかは枯れてしまいます。同じように弱い所や人に見せたくない所があるのも人が生きている証です。
心が落ち込み前が見えなくなった
〔11月の言葉〕
自身の得ではなく
香の薫りの徳を積む
仏前にてお供えする六種の供養の内、持戒の徳から。それは、お勤めの前に香りの良い粉、塗る香りと書いて、塗香とよばれるものを手や体に塗り身を清める徳のことを表します。自身を清めると同時に、普段の生活の中で色々な決めごと、人との約束などを守り信頼を築く事を心に誓います。
私さえよければと、自身の都合でものごとを考えて進めていれば、自分では得しているようであっても本当に大切にすべき人、支えてくれている方々の信頼を失っていきます。
六種供養は、それぞれに徳と説かれるように、何かを得ることではなく徳を積む生き方の大切さを戒めています。願わくば、香の清々しい薫りのように周囲にとって心地よい生き方をめざしたいものです。
〔10月の言葉〕
他人を思う優しい心と
どこでいようとも心は自由自在である
ある学生さんから頂いたコメントに「自分はいじめにより退学する事となりました。私の人生、そして同じようにいじめで苦しんでいる方々の救いを・・・・」と。
お釈迦様の言葉に四苦八苦とあるように常に私達は様々な悩みを抱えています。今回で言えば『怨憎会苦』。嫌な人とも毎日顔を合さなければいけない苦しみであります。その苦しみとどう向き合うか、どう乗り越えていくかはその人それぞれの自由。皆が皆同じように生きる必要はありません。その人なりの人生を歩めば良いのです。大切なのはどんな状況であろうとこれは仏さまから与えられたありがたい道であると信じて進めばどこでいようとも心は自由自在になります。
自身のみならず他人を思う優しい心と神仏に手を合わせる信心があれば、いつの日か歩んできた道のりを振り返った時に、つらい経験も良き肥しとなったことに感謝されることでしょう。
〔9月の言葉〕
私達の心の苦しみは
他を思いやらぬ我欲である
この一文から、欲しいと欲しいと求め、思い通りにならないことによる不安や怒りで、正しくものをみることができずに日々苦悩する様子が浮かんできます。
私達の心に大きな苦しみを与えるのは、求めるものがないことではなく、自分を満たそうとして他を思いやらぬ我欲から生まれるのです。この道理を常に心得ておれば、自然と自の「み仏のこころ」が輝きはじめ感謝の気持ちで満たされていくのです。
高い所からではなくその人の立場にたって
「仏」とは仏さまの命を「法」とは仏さまの説かれた教えの尊さを「僧」とは社会の中で身をもって実践されている人々の尊さを表し、三宝と言います。三宝の中の「法」から、心の持ち方と実践道
心
慈…慈愛に満ちた慈しみの心 親が子を思うような心
悲…相手の心になって共に悲しみ泣いてあげられる心
捨…報いを求めない、無条件でただ差し上げるだけの心
実践道
布施…どんな人にも他にない良いものをもっています。その分のもっているものを遠慮なく他に施す。
愛語…相手を思いやる慈愛にみちた優しい言葉をかける。
利行…他人の利を我が利より先に考え行動にうつしていく。
同時…人は高い所から説き伏せる癖がありますが、自分をその人の立場に置き換え自分と同等にみていくこと。
〔6月の言葉〕
心を込めてお供えをすることが
仏の教えを知る近道である
水を供える供養(布施の徳)
香を塗り体を清める供養(持戒の徳)
花を供える供養(忍辱の徳)
香を焚く供養(精進の徳)
食事を施す供養(禅定の徳)
明かりを灯す供養(智慧の徳)
〔5月の言葉〕
思い通りにいかないこともまた
諸行無常《自然界の美しい花も、この体も、この世の全ての存在はみな変化し移り変わる》
是生滅法《このようにあらゆる存在は生まれ変化し滅することを前提としている》
生滅滅己《身を煩わし、心を惑わす生滅、変化に対するとらわれ(煩悩)から離れると》
寂滅為楽《清らかで安らかな仏さまのような心でしなやかに生きることができる》
〔4月の言葉〕
苦しみとの向き合い方が
これらの苦しみとどのように向き合っていくかが私達の人生を大きく左右していきます。
喉がカラカラに乾いた時に飲む水が体に染みわたるように、苦しい時こそが仏の功徳を受け取る機会でもあるのです。周囲を否定し人生を怨んでいきるよりも、仏に手を合わせ一心に祈りながら感謝の心を忘れない生き方こそが、苦しみとの良き共存方法なのではないでしょうか。
〔3月の言葉〕
心が軽く
仏と智慧と繋がっているのです
「
それでも、色々な仏様の働きによって生かされる私達です。日々それぞれの道で悩み苦しみながらでも歩みをとめなければ、様々な体験通してその智慧の一部を教えて下さるように感じます。
〔2月の言葉〕
周囲に優しさをむけることで
仏さまはもともとわが心の中におられる、それが妄想によって覆われ、煩悩によって纏われて隠されています。
人が生きていくということは、仏さまを覆う埃をはらって本来の姿を映しだすようなもの。その姿がみえてこない内は、どこか居心地の悪さを感じ、遠回りをしては振り出しに戻るようなことが続くかと思います。
曼荼羅の中心にいらっしゃる大日如来さまを周囲の仏さまが供養し供養されるように、周囲の方々にも優しさをむけることが埃をはらい本当の自分に気づけるきっかけとなるのです。
〔1月の言葉〕
自身の中の仏様が輝けば
滝行指導を二十二歳から始めて、今年でちょうど二十年目になりました。指導と言いましてもただ一緒に行をするだけで、道案内のようなものです。行場までの道中に、来られた方のお話を聞かせて頂いたり、時には聞いてもらったりと片道十五~二十分程度の行程が凄く貴重な時間だったことに気づかされます
「法身何くにか在る、遠からずして即ち身なり、智体云何ん、我が心にして甚だ近し」大日如来さまは遠いどこかではなく私たちの心の中にこそおられる。こちらの言葉のように、滝行場でお経を唱え水に打たれることで自然と心が清々しい気持ちになります。それは、行に来られた方々も同じであり、される前と終えた後では別人のように雰囲気が変わり、ご自身の中の大日如来様が喜んでいらっしゃるように感じます。
まずは、これから十年を目標に皆様の中の仏様と共に続けて行きたいと思います。
〔新春の言葉〕
新春は、お大師様のお言葉から「久しく無明に覆われて還源期無し」執着しすぎると、もともと清浄なる心が無明に覆いつくされて本来の自己にかえる時期をなくしてしまうという意味です。
執着にも色々とありますが、人や物事を思い通りにしようと悪い面ばかりに目がいってしまいますと自身を苦しめ、ますます無明の世界から脱け出せなくなります。
私達は、仏様の心という眼鏡を通じて真実をみつめなければいけません。それには、人それぞれの良い所をしっかりと探していけば良いのです。
清流のごとく、清く流れる心こそが仏の心であり、私達は目醒め、一筋の道の先に光が見えてくるのです。自分の大切なものを探していけるようこころがけ今年一年も共に頑張っていきましょう。
2022年
〔12月の言葉〕
過去を手離した時にこそ
仏の智慧が語りかけてくるのです
自分や他人を責め続け、いつまでも怒りや、心のもやもやが、治まらないことはないでしょうか。人は前には進めますが、絶対に過去に戻る事はできませんから、いくら、なぜなぜと後悔した所でそこに答は見つからないのです。
そのように思ってす~と過去を手離した時にこそ宇宙の真理(仏の智慧)が自己に語りかけてきます。仏と一体になり、綺麗な合掌ができてこそしっかりと前に踏み出す事ができるのです。
〔11月の言葉〕
共に悩み、共に喜ぶ心があれば
自身の苦悩も消滅していく
私達は常に自分が幸せであり、心が満たされることばかり優先し、人の幸せや成功を妬み、不幸だと感じてしまいます。
お大師さまのお言葉に「善人の用心は他を先として己を後とす、一切衆生は猶ほ己身の如し」とあり、諸仏諸菩薩はみなこの大悲行願の心をもって普く一切人類を利益し苦を抜き楽を与えてくださっています。
このように、常に人の困難、迷いや心の苦しみによりそい、解決してあげることができなくとも、根気よく耳を傾け共に祈ることはできます。
もし、その問題が解決し、心願が成就すれば自身のことように一緒になって喜べる心であれば、自然と自身の悩みや苦悩も消滅していくのではないでしょうか。信心とは、仏様のように生きる努力を続けていくことであります。
〔10月の言葉〕
苦しみも失敗も
思い通りにならないことこそが
苦しむがゆえに他の苦しみを知り、努力するがゆえに他の苦労を知り、もがくにしたがって学び生に則して生きることの尊さを知る。それが自分を潤し余りあって諸々の生命をも潤すのである・・・。
泥の中で蓮が綺麗に咲くように、思い通りにならないことこそが人を育む大切な養分となります。なんて不幸な人生なんだろうと自ら物事を複雑に考え、重い荷を背負い込む必要はありません。それぞれに懸命に生きるその姿こそが、周囲を幸せにしていく力となるのです。
〔9月の言葉〕
観音経の優しい流れに身をまかせ
菩薩の慈愛を感じます
『観世音菩薩普門品偈』には、観音さまの名を一心に称することによって七つの災難、三つの煩悩が皆滅するよう説かれています。七難三毒(しちなんさんどく)とは、災害や事件事故、絶えず湧き起こり心を苦しめる煩悩のことであり、私たちが生活していくうえで切り離すことのできない不安や恐れに寄り添う観音様の慈悲を表したお経です。
〃福寿の海は無量なり〃(福寿海無量)、「もろもろの功徳は海のように限りなく豊である」のですから、急がずゆっくりと、自身がやりたいこと、ただそれだけをしっかりと見つめていけば、必ずや観音様の慈愛に満ちた働きを感じることができるのです。
〔8月の言葉〕
周囲への感謝と
八月は祈りと鎮魂の季節であり、あの世と現世の人々が共に過ごし、「七世の父母」(父母・妻子・きょうだい、七代遡っての直系先祖、欲界・色界・無色界すべてのみたま、あらゆる処にいる、いのちあるもの)に祈りを捧げ、お地蔵様に救われていく季節でもあります
。
生死流転の中であらゆる存在と共にしているように、私達の心もまた欲界・色界・無色界の三界の中を彷徨い歩き続けます。物事にとらわれ、こだわればこだわる程に欲界から抜け出せず、不安な日々を過ごします。
目連尊者さまのお母さまが救われたように、周囲への感謝と施しの心を忘れないことがお地蔵様に届き、ご先祖様を極楽浄土へ導く功徳となって私達の心の安らぎとなるのです。
〔7月の言葉〕
ありがたい、うれしい、もったいない
明るい感謝の心を胸に
仏の浄土をつくる道理の道をあゆみます
私達は生まれながらにして等しくみ仏の心を頂いております。けれども、日常生活ではせっかく頂いた仏性からは遠くかけ離れ、欲しい、欲しいで苦悩の日々を過ごしてはいないでしょうか。
人は、満たされず思い通りにならない時に起こる怒りの心によって正しくものをみることができなくなり、暗い闇夜へと足を進めてしまうのです。
仏様が私達に与えて下さった欲は、貪りの欲ではなく仏になろうとする欲望『大欲』です。その大欲を満たす方法は欲しい、足りない、してくれないではなく、ありがたい、うれしい、もったいないの明るい感謝の心です。
この気持ちがあれば、苦悩から離れ共々に仏の浄土をつくる道理の道を歩めます。
〔6月の言葉〕
浄土(心の安楽)への道のりは
道元禅師の言葉に、仏と衆生に、「毫釐も差があれば天地はるかに隔たる」と言う言葉があります。始めは少しのずれであってもそのまま突き進めばやがて大きな隔たりができる。また、ハの字に開いていく関係を、相手に寄り添うことで埋めていくなど、いくつかの解釈があります。
〔5月の言葉〕
物のかたちや大きさ量に囚われず、
私にはこれで十分である 本当に有難うございましたと思う感謝こそが人を生かします。
どの仏さまも、必ず『御本誓』を持っておられ、その誓に従って私達を
①お不動さまのお姿を心静かに拝見するものは、必ず人々の役に立つ善
②お不動さまのご真言を聞くものは、自分を反省し、悪行を捨て、善行を実行するようになる。
③お不動さまの真言を唱え、礼拝供養の心で信心の道を歩むものは大いなる智慧(功徳)を得る。
これら四つの誓い『お不動さまの四弘願』を心におき、愚痴や不平不満
〔4月の言葉〕
仏と向き合い
全てがこれでよかったと思える日々へと変わってゆく
お大師様は、そのお姿を拝見することはできなくても、肖像を本当のお大師さまと思い、残された教えを聞くたび我が声と信ずれば禅定と仏の知恵とをもって必ず救済するであろうとお約束されています。
〔3月の言葉〕
観音様にみをゆだね、感謝の念で唱えれば
智慧の光で悩む心も晴れて行く
『南無大慈大悲観世音菩薩』。観音様は、法の浄土から立ち出で、五濁に満てるこの世で、暗路に迷う人を済う為に菩薩として現れ、大慈は悩み苦しむ人の苦を抜き、大悲は楽を与えて下さいます。
この世は、時の流れと共に変わる社会に従って種々の災いが起こります。正しい教えがおとろえ、何が真実なのか、その手段さえも分からない。歯止めのきかない煩悩で闘争が盛んになれば、お互いの間に思いやりがなくなり、人の命さえ危険に侵されます。
このような浮世に観音様はみて手をさしのべて、我々の心を優しく照らし
〔2月の言葉〕
思いやりのない心こそ恥じることだと知る
それが供養の功徳です
二月と十二月の八日は「事八日」と古くから呼ばれ、二月に農耕の神を迎え、十二月に神を送る祭日とし、いつの頃からかこの日に縫い針の供養をするようになりました。お墓やお仏壇、お位牌の魂抜きをしてからことにかかるように、針一本にも魂がやどり、お経をあげてその苦労をねぎらうのです。
私も、断捨離と言いますか物を整理する為に天体望遠鏡を捨てようとしたことがありました。その事を何となく父に伝えた時に、凄く嫌そうな顔されたので捨てずに置いてあります。今回ふと針供養の話と共に小学生の頃にわくわくしながら買ってもらい、物凄い大発見でもしたような気持ちで望遠鏡をのぞき込んでいた事を思いだしました。
〔1月の言葉〕
蓮華
蓮はあえて泥の中に咲きます。きれいな清水の中には咲きません。私達人間は、いつもきれいなところに逃げたいと思っています。
泥水をすすりながらも自分の中で浄化して、独自の花を咲かせる蓮が、私たちの生きる見本です。
この選択は間違いであった、もっと他に私が本来歩むべき道があったという妄想が人を迷わせ苦しめます。苦しい中でも気長に続けていれば自然と根がはっていき、いつか人を幸せにする花が咲くでしょう。
2021年
〔12月の言葉〕
仏の道を成就する為には
供養の心をもち
前を向き歩き続けることを忘れない
仏前に色々なものをお供えすることを供養と申しまして、茶湯(布施の徳)、塗香(持戒の徳)、華(忍辱の徳)、焼香(精進の徳)、飯食(禅定の徳)、灯明(智慧の徳)の六種供養を行います。これらを仏に供養することによって自分の徳が磨かれていきます。
努力して頑張っているけれども、自分の納得のいくような評価を得られないことは多く、相手のちょっとした言葉に傷つき腹が立つこともあるでしょう。そのような時においてでも、焼香の火のように焦らずゆっくりと前を向いて進む。優しさと奉仕の気持を持っておれば、必ず智慧の灯りに照らされて歩んできた道のりが輝きはじめます。
仏の道を成就する為には、供養の心をもち、前を向き歩き続けることを忘れないことであります。
〔11月の言葉〕
人を責める誤った心 その執着から離れてこそ
目の前の闇が明るく照らされる
般若心経は密蔵(密教すべての教え。大日如来の悟りを如来の言葉によって示すので密教という)の肝心であり、お唱や写経。また、意味を理解しようとすれば、苦を抜き、楽を与え、まことにこの世の闇を明るく照らす灯明となる不思議なお経であると説かれています
その般若心経の意訳の文末に、『何ひとつ得られないからこそ菩薩は、心に余分なものがなく自由なのです。余分なものがないからこそ恐怖がなく、すべての誤った心を離れて涅槃(永遠の平安)を完成するのです。』
私たちが普段正しいと思うこと、素晴らしいと思うこと、理想とすることなどが、余計なこだわりとなり、重荷を背負う原因となっているのかもしれません。例えば、しなくても良い事を無理に引き受けたり、こうしなければいけないと頑なに思い詰めたり、自分の考えこそが正しい!それは絶対許せないと相手を責め続ける心では苦が抜けることはありません。その誤った心から離れてこそ目の前の闇が明るく照らされるのです
〔10月の言葉〕
仏さまの心を自身の心として生きることで 光明に照らされ、迷いの霧ははれる
三信条
一、 大師の誓願に頼り二世の信心を決定すべし
二、 四恩十善の教えを奉じ人の人たる道を守るべし
三、 因果必然の道理を信じ自他のいのちを生かすべし
お大師さまがつねに私達と同行してお守りしてくださることを忘れず信心すれば、必ず良きご縁が開けていきます
また、世の中の色々な御恩をうけて生きていること知り、無理な考えをおこさずに、やれることをこつこつと積み上げ、与えられたものに感謝し大切にしていきましょう。
そして、人は
〔9月の言葉〕
自分だけの幸せという囚われから脱け出し
今月は勤行次第の祈願文から。
【至心発願 天長地久
即身成仏 密厳國土
風雨順時 五穀豊饒
万邦協和 諸人快楽
乃至法界 平等利益】
「真心をもって祈願いたします。天地宇宙が永遠に生き、全ての人がこの身このまま佛と成り、この世が仏の世界と成り、天地の運行が順調に進み、農作物が豊かに実り、世界が平和で、人々が幸せであって、仏様の惠が物心両面にわたって平等でありますことを」
〔8月の言葉〕
奪い合う餓鬼道 譲り合う仏の道
八月の行事である盂蘭盆会の由来となった、『仏説盂蘭盆経』。『旧曹源寺本、餓鬼草紙』にて、施餓鬼道に落ち食べ物を奪われないように鉢を尻の下に隠しやせ衰え恐ろしい形相をした目連尊者の母親が描かれ、その姿から私達に人としてどう生きるかを諭しています。そして、この気の遠くなるような餓鬼の苦しみから解放されるには、施しと供養が大切であると盂蘭盆経では説かれています。
〔7月の言葉〕
佛と共に上を見上げて一歩ずつ踏み出す勇気が
曼荼羅の世界は、描かれている仏様が互いに礼拝し、供養し合う様子を表しています。また、皆様が法事で良く見かけられる十三佛の掛け軸であれば、各佛様の役目に応じて導いていって下さる様子を表します。
困難や絶望の淵にあったとしても、真言を一心に唱え、私達そのものが曼荼羅の世界でいる一人の仏であることを悟り、同じように周囲を思いやり、感謝していけば心の中で膨れあがる怒りや不満の雑念は消え去ります。
下りに身を任せることは楽ですが、一歩ずつでも仏と共に上を見上げて踏み出す勇気こそが大切なのではないでしょうか
〔6月の言葉〕
全て私を生かしてくれると
当たり前であったことが輝き始めます
お大師様の言葉に、月鏡を心蓮に観じ、妄薪を智火に焼く…。清らかな心に澄んだ月を観じれば、迷いの煩悩は、自然に智恵の火によって焼き尽くされてしまうとあります。
悲しみ、不安、恐れに人は混乱してしまいます。目的がみつからず、本当にこれが私のすべきことなのか、もっと他にやれることがあるのではと不満ばかりがたまる心。そこには何かを受け入れる余裕がありません。
どんな道であろうとも、全て私を生かしてくれているのだと心にゆとりができれば、自然と月を観じ、当たり前であったことが輝き始めます。
〔5月の言葉〕
他人の苦しみを知り
如来の智慧を受け、人の心を輝かせる
〔4月の言葉〕
自身のことばかり考えれば悩みは深まり
人の幸せを願えば心は軽く魔も払われていく
人はしたこと、言ったことで後悔し、考えても仕方のない事で悩み続けます。その問題に対して、ならどうすれば救われるのかというのが信仰の原点です。
〔3月の言葉〕
戯論(無意味で利益のない議論)を滅すれば
お不動様は、六道にあって苦しむ衆生を思いやり、そのお姿一つ一つから解決の糸口を指示しておられます。今日は、その中で、口を閉じているお姿から。それは、戯論(無意味で利益の無い議論)を滅する、ただ相手を否定するだけの言葉を控えることを表します。
人は、迷いながら手探りで生きて行く、常に最善の一手を打つ事は出来ません。六道という荒波にもまれる中、互いに過去を責め、足を引っ張るよりも新しい目的地に向かって進むしかないのです。
〔2月の言葉〕
綺麗な花を咲かせようと思うならば、
仏教では声明の散華や六波羅密行で忍辱を表す花など、私たちの生き方への諭として花が良く使われます。仏教での花とは、内面から咲く花のことで、綺麗に咲いた花も順調に育ってきたものではなく、それぞれに厳しい環境の中で順応しながら花を咲かせる。その姿が人の人生とも共通しております。
もし、綺麗な花を咲かせようと思うならば、自分らしく、自分にしか歩めない道を誇りに思うことでしょう。その信念を持ち前に進むことが、良き経験(養分)となり、佛に捧げる蓮華となるのです。
〔1月の言葉〕
貪瞋痴の三毒から離れ 心を自由自在にする
それが仏の心に近づく修行です
般若心経には、「空」の境地を説いています。空とは、何事にもこだわらない心のこと。悟りにも、煩悩の克服にもこだわることも逆に執着になり、悟りから離れてしまうと教えています。怨み辛みを捨て、人と比べない。また、型の中で物事を考えおさめようとするのをやめれば、自ずから「空」の境地が開け、彼岸へと到達できますよと説いています。
2020年
〔12月の言葉〕
場所を変え 立場を変え 辺りを見渡せば
苦しみしかなかったと思っていた道に 佛の慈悲があったことに気づきます
心の迷い、悩みは自身の奥底にある無明という闇よりつくりだされます。その闇に意識を向ければ向ける程、より多くの妄想をうみだし、濃霧の中を自分、他人を傷つけながら道を見失ってしまいます。
心の闇に明を灯すには、今に感謝する事。
この道を歩んで来た自分で良かったと思う事。
色々な角度から景色を見渡す事。
場所を変え、立場を変え辺りを見渡せば、苦しみしかなかったと思っていた道に佛の慈悲があったことに気づきます。その慈悲を知る為に私たちは生きているのではないでしょうか。
怒っても、怨んでも変わらないことはある。
後悔し、悩んでも変えられないことはあります。
変わらない、変えられないという囚われた思いにエネルギーをつぎ込めば、人生はより辛い、寂しいものになっていくでしょう。
思い通りにならないことで、忍耐と豊かさを得、失敗からは智慧と優しさを頂けます。
何もない、不幸だと思っていたことが、実は大切な宝物(仏の智慧)であるのです。
〔10月の言葉〕
自分が発した感情は
人は、知らず知らずのうちに相手が嫌がること、恐れることを罪悪感なく発し、自分は気分的にせいせいした感じで日々を過ごす。言われた側からすれば、腹が立ち、怒りが治まらず、その念は強くなる一方である。
その感情は山びこの如く自分の元に返り、障りとして体のどこかに反応を起こし、病院で検査しても原因不明の痛みとなって現れてきます。肩や膝の痛み、頭痛や首痛、また腹痛など訴える人が当山でお加持を受けて楽になって帰られるのは、自分の発した思いを浄化するからであります。それも早く気付ければよいのですが、自分こそが正しいと傲慢でおれば、重い病気にも繋がっていきます。
感情は山びこの如く自分の元に返る。言葉を読むのは誰にでもできます。これを常に胸に置き生活してこそ活かされます。責めれば道は狭まり、認めれば塞がった道も開けていく。一つ一つが与えられた修行と思えば捨てるプライドもありがたいことです。
〔9月の言葉〕
仏の教えに出会えたことへの感謝と
日頃の行いへの懴悔 何気ない習慣が
人の運命を左右していく
今月は御祈祷から。ご両親に連れられお参りに来られた娘さんが、度々足に痛みを感じ、立ったり座ったり、歩くのにも痛みを感じる。また、学校の人間関係でも悩む。足の方は病院で検査しても、特に異常がみつからない。
お大師さまは、承和二年三月二十一日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」と、この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、わたしの願いは終わるとの大誓願を打ち立てられ、おん年六十二才にてご入定あそばされました。
私共、真言僧侶は、そのお大師さまの誓願を少しでもお手伝いさせて頂くことが修行であり、務めでもあります。その為に、人の悩みに耳を傾け、心の苦しみによりそう。
建治寺では、御祈祷や護摩により、お一人お一人の、今決断すべきこと、考えをあらためねばいけない事をお伝えする。それによって、道が開けますし、大難も小難へとかわります。また、心で懺悔するだけで、体の痛みや腫れが瞬時に治ることも、ひと月の間に何度も目の当たりにします。
お大師様の理想としていらっしゃいます密厳浄土は、頼って来られる方の為に、まず自身が一生懸命に祈る。その祈りによって、み仏に動いていただけ、救われた時にこそ、互いに強い信心が生まれます。それを繰り返し、続けていくことで築いていくものではないでしょうか。お大師さまは、私共が迷う間はよりそってくださるのですから、ご心配をおかけしないよう、日々、仏道に精進していきたいものです。
〔七月の言葉〕
真言を唱えれば、
本来すぐそばにあった
『その悟りを以て一切の人々を救済する徳を大いなる五色印明で示す大日如来様。この世と来世の二世に亘って福徳を与える魔尼宝珠と、一切の罪を消し清浄な仏性を示す蓮花と、迷いを除く光明にて、迷いを転じ悟りの境地に招き入れ給え』こちらが光明真言の訳です。
真言を唱えることは、自身の心を救うことにもなります。人の心は迷い、足を滑らすことも屡々。霧がかかって行く先が分からないこともあるでしょう。そのような時にこそ真言をお唱えする。
心の底からお唱えする機会を頂けたのは、なんら恥ずかしいことではありません。仏様が導き大切な仏縁をくださったのです。
唱え続ければ、自然と霧が晴れていき、本来はすぐそばにあった素晴らしい景色に気づくことができるのではないでしょうか。
〔六月の言葉〕
悩み苦しむ時こそが、
仏様の教えの根本は、草木國土悉有仏性。一切のものには大日如来様が宿り、森羅万象それら全てが私たちの行く道を教えて下さるみ親であります。
植物一つにしても、適した環境においては生き生きとしておりますが、適さない場所では、どんなに良い土、肥料、水をもってしても育ちません。また、生命力の強い植物も、相性が悪ければ周りを枯らしてしまいます。
これがみ仏の教えであり、人の世においても同じです。ただ私達には、考え、動き、教えを生かすことができます。自分の心が悪ければ反省し、どちらが良い悪いではなく、距離をおくことで改善されることも多くあります。
そういった方にまで、普く照らされるのが仏の慈悲だと信じています。悩み苦しむ時こそが、良き智慧を授かる機会でしょう。
〔五月の言葉〕
仏に一辺でも
鐘撞堂から辺りを見渡しますと、町が見え山々が見え、天気が良ければ海が見え、仕事で行きかう貨物船までもはっきりと見えます。鳥のさえずりや風も心地良い季節。現在、社会の現状からは想像もつかない程、平和に感じます。
それが、ひとたびテレビをつけスマホを開けば、直接自分ではどうする事もできない情報で溢れかえっています。その一つ一つに腹立ち、心配し必要以上に不安をつくっていないでしょうか。
昔、中国の鳥窠禅師の言葉に「諸悪莫作、衆善奉行」とあり、言わば仏教の神髄でもあり誰でもできうる言葉。いろいろな良い行いをし、悪いことをしない、これが心の安らぎに繋がると説いています。欲や自己主張で燃え盛った心で人に接すれば、他人の心までかき乱してしまいます。
偉くなくていい、素晴らしい必要もない、感謝を求めない。ただ心穏やかに、優しく人に接するだけでどれだけ人が救われる事でしょうか。
仏に一辺でも心から真言をあげられる真心があれば道を開くご縁を頂けます。
〔四月の言葉〕
散るのも運命、また新しく歩み始める肥やしとなります
ただあるがままの自身を素直に認めて
夢でも見ているかのような事態となりました。それでも、常に他人の事を考え、冷静に過ごすことが大切ですね。
般若心経に皆空とあります。すべて空である。要するに逆をかえせば、物事への拘りや執着、劣等感がその人の世界をつくっている言う事です。
桜の花が散る頃には、モミジの若葉開き始めます。散るのも運命、また新しく歩み始める為の肥やしとなるのです。
[三月のお言葉]
真言を唱え、自身の中の仏と向かい合うことが
苦しみから救い、偏見の目を覚まさせる
何の為に真言を唱え、私達は仏様に救いをもとめるのでしょうか。
(お言葉は毎月10日に更新しています)
[二月のお言葉]
着飾ろうとする心が苦しみの元
素晴らしいと言われるより自身の安らぎこそに価値がある
人が人を計るものさしと、仏様が人を計るものさしは違います。人の物差しには打ち切りがありますが、仏様の物差しには長さ、高さよりも内面の輝き、安らぎにこそ価値があります。人に良くみて欲しいと着飾る心が、実は大きな重しです。素晴らしいと言われる事よりも、自身の安らぎを大切にすれば、それが生きて行く大きな力となります。
[一月の言葉]
仏道とは施しの心を育む道である
お地蔵さんの持つ錫杖には六つの輪がついており、六波羅密や六道を表します。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天のことで私達の心を段階に分けています。
地獄、餓鬼、畜生は三悪道と呼ばれ苦しみしかありません。仏道とは仏への道を歩むことですので、この三悪道からは遠ざからなければいけません。
[十二月の言葉]
自身が心豊かに暮そうと思うならば
真言宗の本尊は大日如来です。その周りに4体の如来様がいらっしゃり、東は阿?如来で誓願、南は宝生如来で施与、西は阿弥陀如来で智慧、北は不空成就如来で精進を表します。
誓願 仏法の教えをしっかりと心において生きて行く誓。
施与 自分のできるかたちで人に喜んでもらえるように心がけます。
知恵 今与えられたものを大事にして、足るを知り感謝の心を忘れません。
精進 それらを長く続けていく努力を致します。
周囲の如来の知恵が輝けば、中心の大日如来もより輝きをまします。そして、私達人も曼荼羅の中にいます。互いに供養礼拝しあってこそ人としてより豊で輝きをましていくのではないでしょう。
[十一月の言葉]
濁りをとる
自分のことだけに囚われると視野は狭く、暗いものになる。
私はこんな事を言われた、失敗や失言をしたと怨み、後悔をしている
[十月の言葉]
四苦八苦でうねる荒波の先に見える島は
どれだけ人を許していけるかという舵取りで変わる
四苦八苦、生きている限り次々に生まれてくる苦しみです。
私はいつ死んでも悔いがないと言う方も、いざ死に直面すると必死に生きようとします。普段は聖人のような方も、自分と意見の対立する人の前では豹変することもあります。
だからこそ、自分を大目にみてあげるのは勿論のこと、人に対しても大きな心で受けとめ、慈悲の心で許していく。
自分が受けている思い(念)も、実の所、自分が相手を憎む心の裏返しなのです。
四苦八苦でうねる荒波を越えていく舵取りは、どれだけ人を許していけるかで見えてくる島も変わるでしょう。
[九月の言葉]
無駄だと思う事にも心を込めて
建治寺は見ての通りの山寺であり、四季折々の素晴らしい景色が癒してくれます。実は、兼務寺の宝王院というお寺も町の中ですが、神社と隣合わせなのです。沢山の桜と、大きな椎の木が何本も立ち、春は満開の夜桜も楽しめます。ただ都合の良い事ばかりではありません。台風や紅葉の季節になりますと落ち葉や枝が塀をこえてお寺の境内へ入ってきます。
前置きが長くなりましたが、多くの物事が都合の良い事と悪い事との隣合わせです。人にせよ、仕事にせよ、風に吹かれるがままの落ち葉のように思い通りになるとは限りません。ただ限りなく落ち葉を減らす策はあります。木の伐採。ですがそれはもう鬼の所業です。落ち葉もなくなり、自分の人としての信用も無くなるでしょう。何事にも焼けは禁物です。
木のように、人も自由なようで、どこかに根をはらなければ生きていけません。根腐れをおこさないようにするには、無駄だと思う事にも心込めてさせて頂きましょう。根は心、心が腐りさえしなければ、見える景色も輝いてくる。
[八月の言葉]
迷いやつらさがあるからこそ
ご祈祷は、自己の信念力、仏の慈悲力、法の功徳力が合わさって法界の融通力《法界力》となり、人の体や心願に働きかけます。要するに、ご祈祷する側と共に本人も祈り気づくことが必要なのです。気づくというのは、自分の行いや発言によって引き起こしている現状を受け入れ、反省し改めていくこと。
迷いがあるからこそ仏縁に導かれます。つらいことも、私達の無明に対して仏の慈悲の力を頂くきっかけと思えば、全てを悲観して生きる理由はどこにもありません。
[七月の言葉]
求めるものが得られないのは 大切さを知る時期である
努力して求めても得られない時はあります。その為に、人は悩み苦しみが生まれます。
[六月のお言葉]
相手を許し、心が自由になれば
雲も晴れて、本来の素直な輝きが見えてくる
勤行次第に、おんぼうじしったぼだはだやみ。おんさんまやさとばん。とあります。意味は、自身が仏である事を知り、その努力を致しますよという誓いを読み上げています。
自身が仏であるならば、周りの方一人一人が尊い存在であります。ですが、私達は普段から間違や悪者探しばかりに力を入れてしまっているようです。あんないい加減な奴が、あんないい暮らしをして。いつになったこれを改善してくれるのか困った困ったと憎んで、罰があたれば良いのにと思っている内は、本来は綺麗な満月の光も雲がかかったままになってしまいます。
自身の輝きを見えるように、また見て頂くには相手を許すことからはじまります。怒りや妬みにしばられてはいけません。心が自由になれば自然と自分を隠している雲が晴れて、綺麗な素直な輝きが見えてくる。
[五月の言葉]
真言を唱え、仏と共に歩む人生と思えば何も恥じる事はありません
山は道路と違いまして、確かな標識や看板が場所によっては設置されていない場合があります。人生におきましても、こちらが正しい道、選択ですよといったものがありません。
〔四月の言葉〕
心の安らぎは、こだわらず
般若心経には、観自在菩薩様が体得された空の教えが説かれてます。
こだわるとは、良く言えばつきつめる、悪く言えば囚われです。囚われてしまうと、融通が利かず、周りもその人に合わすのが苦痛です。
これが正しい、正しくないなんて答え探しは疲れるだけでしょう。そんなものは何処にもないのですから。丁度真ん中に立ってみて、周りをゆっくり見渡して一息ついてみるのもどうでしょう。
心の安らぎは、こだわらずあるがままに感謝できてこそ産まれるのですから。
[三月のお言葉]
桶に水が満れば愚痴もこぼれる
枯れるのもまた、有難みを知れる大切な時である
去年の暮れから、一月、二月と殆ど雪も降らず、雨も降らずでした。当山では、厨房の水以外は山の水をタンクに貯めて使っております。深刻な水不足とまではいきませんが、滝行の前日は必ずタンクの確認をしておりました。いよいよ手水場の水も止めてという時に、先日からまとまった雨が降り助かっております。
[二月のお言葉]
自身が人を責めず、相手の気持ちにそい 許すだけで、 道はずいぶんと歩きやすくなる
反省し、相手の気持ちにそって許してあげることによって、体が楽になり人間関係が円満になっていく方を見ていると、仏様が常に良き方向に導いてくれようとするのを感じます。
人は、円満に、自分の心も体も楽にいこうと思えば、人を責めず、責めても許すことが大切であるとなかなか理解できません。理屈や決まりで物事を解決しようとします。自分の経験や常識に当てはまらない場合は、違うと否定します。それは違う違うと責めておれば、やめなさいよと色々なかたちで教えてくれます。それでも分からなければ、体の不調となって出てくる場合があります。
手でぶつのと、心で責めるのも同じです。それらは、結局周り周って自身に返ってきます。そのことを知り、日々の生活に活かしていけば、自身の歩む道にわざわざ石を置いて進む事もない。
[一月の言葉]
拝み清めれば
今月の言葉は一つ例題を上げます。先日、年護摩の申し込みに来られた方が、今から二十年も前に当山で護摩焚きをした話をして下さいました。
焚き終わり施主のご夫婦が内陣に入ると、檀木の炭がぐるぐると蜷局をまいており、蛇のような女性の思いがあると住職が言い、その炭も拝み清めていく内に炉の中にストンと落ちたそうです。そして、住職が清めてあるからこれで心配ないはと言われてから、今まで頻繁に怒っていた胃痛が嘘のように、ピタッと止まったそうです。その女性も、夫婦二人ともに心当たりのある方で、それを機会に寄り付かなくなったそうです。それと共に、人の思いの怖さと、拝み清める事の大切さを知ったそうです。
[十二月の言葉]
周りを慈しめば
今年も最後の月となりました。様々な出来事と思い出を残し、暮れようとしております。
何をとっても、全て仏様から頂いた縁であります。仏様を胸に、修業させて頂いているという気持ちがあれば、腹の立つことも、納得のいかない事もすべて真言と共に消えていきます。
人に言われた言葉によって、人生が決まり価値が付くのではありません。自身の思いによってのみ先が開け道を進めるのです。
もっともっとと周りと比べてものを欲しようとさえしなければ、今のありのままの人生を受け入れられ、また、他人に対しても優しさを生む余裕ができます。
周りに対して、大慈大悲の心を向ける修業ができれば自身の心も輝いていきます。
[十一月の言葉]
中には食い違いの出来る人が必ずいます、こちらの心に悪気がなかったという事実があるならば、それが全て、自分も相手も責める必要はない
百人でも十人でも良いですが、皆に良い顔して褒められ、喜んでもらうのは無理です。
すみませんが、この様にして頂けませんかと頼まないといけない人がいれば、逆にちょっとした手違いや勘違いで、これは筋が違うのではと言われる場合もあります。
何が人の心を悩ませるかと言えば、自分を責める心と相手や周りの人にどのように思われるだろうかという不安です。わざと人を困らせようとしたのは駄目ですよ、しっかりと反省してください。大体が、うっかりでしょう。生涯どれだけの人と付き合いがあるか分かりません。その人その人の筋道通りに生きておれば、どれだけ屈強な精神と肉体があっても足りません。すみませんでした!と言えたら上等。それで終わりです、時間は帰ってくることはありませんので。
中にはふとしたことから食い違いのできる人が必ずいます。こちらの心の中には悪気はなかったという事実があるのならば、それが全てです。
[十月の言葉]
皆が仏様に生かされている事を尊べば
新築前の地盤調査の様に、新築や引っ越しで移転前の御祈願というのもあります。大体何でもない事なのでしょうが、移ってしまってからは色々と面倒でしょう。
ご縁があり、お参りして下さる方のお陰で、人の思いや亡くなった方の思いと共に生きている不思議さを見せてもらえます。普段の生活の中でこういった事は嫌厭され、おいてけぼりですが、このような事があるのですからお神さんや仏さんがいらっしゃってもおかしくないと思わないでしょうか。
信心して、皆同じように仏様に生かされていることを尊び生きておれば、少しは愚痴や不満から遠ざかれるようになると思います。
[九月の言葉]
一番に人の為に、また自分の為に
何でこんなに苦しくて何もかもうまくいかないのかと考えている時は、自分や家族の事、狭い範囲で頭がいっぱいなのではないでしょうか。確かに、生きていくのは大変なことです。常に先のことに対する不安が付きまといます。その心配の元は、見栄や劣等感です。人に情けない姿は見せたくない。自分は必要とされていない、何をやっても駄目だという妄想。それともう一つは、今の苦しみや痛みが永遠に続くという思い込みです。悩みも失敗も時が忘れさせ洗い流してくれます。苦しみも幸せもいつかは色あせるものです。人は皆、いつかは大切な人と別れ、自分の寿命もつき、積み上げてきたものを手放す時が来ます。これだけは皆平等ですね。
長いようで短い人生です。心を落ち着け、一番に人の為に、また自分の為にゆったりとした優しい気持ちで周りを見つめていけば自然と必要とされ、充実感が湧き起こってくるのです。
[八月の言葉]
仏様をお祀りしようとする思いが
お盆に入りまして、今月六日から棚経が始まりました。棚経とは言いますが、昔ながらに施餓鬼棚を拝むお寺さんもあるようですが、仏壇を拝むお寺の方が多いように思います。
家の中に入って仏壇を拝む時、綺麗に掃除が行届いておれば、こちらの方もしっかりと拝まなければと力が入ります。極たまにですが、住職さん今日来るとは思わなかったから準備ができていないと言うお宅もあります。それでも、樒はきれいで、ご飯や供えものがされていますが、中には仏壇がしまっていて、樒が枯れてご飯がいつ供えたものなのか、かっちかっちで本当に準備できていない場合もあります。
[七月のお言葉]
与えられたことに感謝を忘れず、貪という素晴らしくも恐ろしい心とうまく付き合えば、誰の心にも平穏が訪れるのです
仏教では貪り食う心を貪と言い、三毒の一つとして戒めの対象です。これは本来目的に進む為の素晴らしい原動力ですが、逆にこれ程恐ろしいものもありません。初めは、お腹が空いてこれが食べたい、これが欲しい。多くのものが手に入ると今度は、もっと高価なものが欲しい、沢山欲しい。それが手に入ると、人を動かしたい、人を思いのままにしたい。もっといくと、町や国や世界を動かし、世界中から注目されたいと思う人もいるかもしれません。悪い事ではないですが、その過程で大きな落とし穴があることもしっておかねばいけません。私達僧侶で例えると、全てではないですが、自分が与えられた寺の規模によってできる事できない事がほぼ決まります。大寺を真似ようとすればすぐに資金繰りに困ります。手を伸ばして、上ばかり見ておれば本当に穴に落っこちてしまう時がくるでしょう。
[六月のお言葉]
どうか助け導いてくださいと願う気持ちから
先月、僧侶の方々十数名と建治寺の御本尊と同じ蔵王権現がお祀りされている奈良の大峰山寺にお参りに行きました。沢山教えて頂いた事はあったのですが、一番印象に残った言葉があります。
ある若い僧侶が、五十代の先輩僧侶にどうすれば檀家さんに、信心とは何かその心を伝えられるかという相談を持ちかけました。その質問に対して、間を置かずにその先輩僧侶は、「信心なんてものは困ったら自然とするもんじゃ、まだその人は本当に困ったことがないんじゃろう、わしなんか何度自坊の本尊の前で土下座して助けて貰ったかわからん、ねえ建治寺さん」とこちらに会話を振られました。その時は、笑顔でそうですねと答えましたが、後々その言葉を噛み砕きながら、まさにその通りだなと思いました。信心とは、どうか助けてください、どうすれば良いか導いてくださいと仏にすがる心の叫びから始まるものでしょう。本当に辛い、大変な目に遭う事と、それがこうじて仏様、御本尊とご縁が生じるものだと思います。
[五月の言葉]
仏様は色々なかたちで伝えてきます
それを素直に感じ取ることが私たちの役目である
今月は、兼務寺での墓の移転の話です。墓を移転される家の方が複雑な家庭事情がありまして、家に住んで後をみていける方がおらず、祖父、祖母が亡くなった後は、週に一回程度嫁がれたお孫さんが、仏飯をしております。お墓も立派に建てられているのですが、寺から一キロ程離れておりまして、長い目で見た時に将来お寺で管理するのに境内に墓地を移して頂ければこちらも管理がしやすいですと、こちらから移転を提案しました。墓地移転するにあたり、石材屋さんと話をする機会がありました。寺の境内に移すと墓の基礎の所を、良い石を使っているのですが全部納まらない。あのまま移す必要ないですのにねえと言う会話はありました。その時はこちらも、境内に移転してあげるのが最善であると思い気に留めず、永代供養ですからと話を流しておりました。
そして、移転の為の魂抜きの日、法要が終わり次第解体し、移転という段取りです。墓地にいき、親戚も集まり法要を開始しました。すると、移転のお願いをする願文の所で頭が真っ白になり言葉が出てこない、恥ずかしいですが施主に声をかけ、仕切り直してやってみるのですが、やはり言葉が出てこない。私も途中で止めるという経験はないですが、後ろに振り返って、この墓はこの場所で落ち着いているので移転してはいけないと先祖さんにとめられておりますと感じたままを伝えました。提案した本人が言うのですから本当に申し訳ない気持ちでしたが、逆に親戚の方たちも、残して行く事に賛成され、やはり残った家族は沢山いるから自分たちでもしっかりみていかないといけないという話になり、結果的には先祖様もしっかりとこちらをみていると皆が納得して良き話となりました。
〔四月の言葉〕
人の心も魂も 直接感じ取ることは難しいですが 大切にする気持ちは相手に必ず届きます
先月、ある檀家さんの法事でのことです。昨年亡くなった母親の百ヶ日法要中に、その家の奥さんが不思議な体験をされたそうです。私の読経中に、亡くなった義母と義父が一緒に御霊供を召し上がっていたと言うのです。旦那さんが再度奥さんに本当に見たのかと確認した所、確かに見たそうで、本人もこんな体験は初めてでびっくりしていたようです。父親の方は若くして亡くなったのですが、母親が亡くなった今では、向こうで夫婦そろって仲良くされているようです。 奥さんはお義父さんに実際に会ったことはないそうですが、毎日お祀りしてくれる事への感謝を表したのでしょう。あらためて、日々仏様への仏飯、お茶、お供え物の大切さを教えて頂ける話です。こちらもお供えする事へのやりがいも出てきます。
人の心も、魂も直接感じ取ることは難しいですが、大切にする気持ちは相手に伝わるということですね。
[三月のお言葉]
私達、僧侶の中でも皆得手不得手があります。難しく複雑な教理を明確に分かりやすく人に伝えられる人。主に卒塔婆など見るだけでありがたいなと思わせる字を書ける人。仏教の讃美歌である、声明や御詠歌を細かい技術まで習得し人に教え、聞かせられる人。中には私のように特別に何かできるわけではないですが、法をしっかりと学び実践しようとする心がけも大切なものであるでしょう。
どの分野も一緒でしょうが、一人の人間が全てを完璧にこなせるはずがありません。お大師様の言葉である、人の良き所を受け入れ学ぼうとする相互供養、相互礼拝の気持ちが自らも成長し、全体を発展させていく力となるのではないでしょうか。
[二月のお言葉]
自身が選んだその道を信じを求めることが
楽をして名利名聞を得ようとすれば、足元を救われることがあると思います。自身の信じた道であったり、与えられた職業であったり、人の為になるようにと道を求め、努力することは決して楽な道でありません。時にはなかなか思ったような結果が出せず、失敗が続く時もあるかもしれません。
それでも私たちは、一つ一つ石を積み上げていくしかありません。手間暇かけて積み上げるその一段一段の中で、人の喜びや感謝の気持ちがいただける時が必ずあります。
皆それぞれにえらぶ道が違います。自身が選んだその道を信じ求めることが全体の大きな幸せへと変わっていきます。
[一月の言葉]
同じ音色 心しだいで 雑音になり すばらしい音楽にもなる
人生もまた、雑音の中で暮らすより、良き音色に包まれて過ごす方が心地よい。物事はこうであると決めつけて生きておれば、次第に雑音で悩まされるようになる。
難しく考えることはない。自分に与えられた中で仕事をし、生活をし、少し変化があり、良かったという言葉が聞ければ素晴らしいことです。
その言葉を信じ糧として進むことが、良き音色に包まれる近道である。
[十二月の言葉]
人の幸せを大切に
身近な所での、自分以外のいざこざはあると思います。そんな時、これについてどう思う、あいつはこんなことをしたと一緒になって口車に乗り、本来は自身に関係のない事まで首をつっこんでしまうことがあるでしょう。
その人にとっては都合の悪い人でも、自分にはそうでもない。それなのにああだこうだと怒って、悩んでも仕方がありません。また、状況というのは変わっていきます。時が立てば、当の本人らの仲が戻って怒っていた事が馬鹿らしくなる。逆にあいつはあんなことを言っていた、考えていたと悪者になる危険があります。
身近な人のトラブルは互いに言い分があるでしょうが、それぞれに良き所はあると、頭に血ののぼった言葉を真に受けずに聞き流しておくのが得策です。
[十一月の言葉]
躓 いた時にこそ、仏と向き合うことで自分を許せ
躓いた時に、どの様な行動に出るかが大切なのだと思います。目先の欲に走るか、それとも、祈ることで心から湧いてくる仏様の指し示す方向へと進んで行くか。
皆それぞれに失敗することもある、行き詰る事もあります。そこで自分は取り残されたと一人で悩みを抱えて落ち込む必要はありません。仏様は常に、前に向かっていこうとする人に手を差し伸べてくれております。困難に直面した時にこそ、お経を上げ、仏様の力、ご先祖様の力に頼ってみる事も必要でしょう。
すれば不思議と自分なりの道が開けてきます。その道を進ませてもらう事に感謝できれば、また一層人間として温かみが増してゆくのです。何事もご縁です。自分にとってありがたい経験をさせてもらっていると思えば、自然と自分も認めてゆけます。
[十月の言葉]
された、言われた、それを怒りとせず
今月は、基本である六波羅密行を心に置いた日々の過ごし方です。大抵のことは、何か言われても、「はい、そうですか。分かりました」と心の中で思って生活すれば、大きなトラブルに発展せず、何事もスムーズに、円満に解決していきます。
そうなってきますと、今度は自分が周りから笑われ、避けられる。それは、自身を苦しめる結果となります。
された、言われた、それを怒りとせず清めていくことが行であります。それは、決して自分が損するのではなく、いずれ徳へと変わり互いに円満の道に繋がっていくのです。
[九月の言葉]
真言を唱える素直さがあれば
祈願を通じて、この世の摩訶不思議さを確認させられます。皆それぞれに持って生まれた業がありますし、今この生活の中で新たにつくってしまったものもあるでしょう。本来であれば、すでにお釈迦様等、先師の方々がみいだされた仏道を生活に取り入れ少しずつ浄化していかねばなりませんが、運命に翻弄され、怨み辛みにのみ込まれてしまっている方が沢山いると思います。
自身の力だけでそこから這出るには難しさがあります。そのような時だからこそ、仏様の慈悲、智慧によって導いてもらはなければいけません。真言を一生懸命唱えることによって、お陰を頂け、唱えることの意味を知るのです。また、仏様も一人一人が手を合わせられる素直な気持ちを、一時であっても持たれることを望んでおられると思います。
色々とあるのが当たり前、良き機会を与えて頂きありがとうございますと思える気持ちがあれば困難も一つ一つ浄化して乗り越えられるでしょう。
【八月のお言葉】
慌てれば足元をすくわれ、また一からです。同じ事の繰り返しを軽んじず、続ければ少しずつ力となる
いきなり大きなことを成し遂げようとか、自分が中心となって物事を進めようとする気持ちは、時には自分が損をし、周りの足を引っ張る原因となります。
[七月のお言葉]
思うままを望むことは心が疲れます
心が満たされるには何が必要でしょうか。他人や物に求めがちですが、実は一番近くにある自身の心です。
今日はこれだけ頂けました。こんな言葉を聞かせてもらって嬉しい、良かった。あの方は少しでも、日々が楽に心地良く過ごせているだろうかといったほんの少しの変化のすごさ、有難さをかみしめられる気持ちです。自分の思い描く100%を追い求め過ぎないことでしょう。欲求は、ほっておけば宇宙のように果てしなく広がりますので、その袋は小さい方が大切なことを探しやすいと思います。
思うままを望めば、心は疲れてしまいます。今与えられたものこそが自然な流れであると気付けば良いのです
[六月のお言葉]
常に張りつめているよりも、気持ちにゆとりをもつことで、自然と得する事が増えてくる
イライラしておれば、余計な一言が先走ってしまいます。相手に誤解な
人は作業用ロボット
[五月の言葉]
人の良き所を探す事で
あの人はこれができない、なんでこんなことに気付かないのか。本当に何を考えて生きているのかと、人の悪い所は探せばいくらでも目につくものなんです。
[四月の言葉]
気持ちを切り換えるだけで安らぎがおとずれる
私たちは普段の生活の中で、何かと白黒をハッキリさせたがる所がありますね。自身のことならまだしも、他人のこと、テレビやネットでの情報のことまでかじりついて真相を突き詰めようします。
仏教の教えでは、中道を進むことを大切にします。一方に偏り過ぎないことです。人は気にし始めたらきりがなく、どんどん悩める材料を増やしているようなものです。
怒る心、貪りの心どちらも自分を苦しめ、迷いを深めます。その念によって体調もくずすようになります。
少し肩の力を抜いて用意された橋を気持ち良く進めば良い。右手にも左手にも重い荷は持ち続けられません。ちょっとそこまでいくだけなのですから、目の前においてくれたものだけ拾っていけば無理なく渡れるのではないでしょうか。
[三月のお言葉]
堅く真面目に判断するだけが正解ではない
御祈願の中で、このように言われました。本来自分は望んではいないがこうする事が私にとって必要なのでしょうかといった内容はよくあります。言われた通りにしなければと言う、何か縛られたような気持ちと、実際そのようにする事で自分が負うであろうリスクを考えると不安で、出口のない洞穴にでも入ったような気持ちになる。
そういったものを御祈願していくと、それはせずにこのようにしていけば良いと、本当の意味で本人を助けられる言葉が出てきますし。病気の場合であれば、温灸や御祈願をする事で、手術を勧められていたのに、もう少し様子を見ましょう。これであれば心配ないといった感じで先送りされる場合が多々あります。言われるままを堅く真面目に判断するだけが正解ではない、祈ることによって仏様の加護を得てその不思議さ奥深さを、人それぞれに体験して頂ければと思います。
[二月のお言葉]
心配して物事を混ぜるよりも、ありのままを受け入れさせてもらう方が自然と良き流れになる
人に良く思われたい、恥をかきたくないと、物事を自分中心に進めようとして余計な気を使ってしまう所が私たちにはあるように思います。そうやって、こうしなければいけないと思い込んで手を加えれば加える程もつれていってしまうような気がします。
過去のことは変えようがありませんし、未来のことも思う様に作りようがないのです。後悔や先の心配はわざわざ自分を苦しめるようなものです。今このように生かせて頂ける事に日々感謝して、全てこれで良かったと受け入れさせてもらえば良い。人の人生を型にいれて造る必要はありません、型がないからこそ、それぞれの生き方に尊い意味があるのです。
[一月のお言葉]
日々、信心を続けておれば
仏様に手を合わせる事を続けておれば、自然と心が素直になり大事な事を気づかせてもらえますし、ちょっとした判断の違いで助けられる事もあります。振り返ってみれば色々とあったけれども、このタイミングでこんな機会をいただけたと、自然と心から手を合わせられる時があります。
[新春の言葉]
信仰によって既にたくさんのおかげをいただいていたことを知り
それによって心が変われば 見える世界も違ってくる
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