本文へスキップ

 四国三十六不動霊場第12番 四国霊場第13番奥之院

お問い合わせは Tel 088-644-1232e-mail konjiji@kxa.biglobe.ne.jp

〒779-3133 徳島市入田町金治230

毎月のお言葉

2025年

〔9月の言葉〕

見返りを求めず、人の為に祈り行動する
その純粋な心の動きこそが功徳であり徳となる


お経の最後に「願わくばこの功徳をもって・・・」と唱えた功徳が周囲へ広がっていくように願います。では、徳を積む、功徳を積むとはどういったことでしょうか。それを分かりやすくお伝えする為に、先日ある男性から聞かせて頂いたお話を致します。
今から十数年前に、母方の祖母が亡くなられ、翌日には葬儀の為に徳島から京都へ向かわれる。ですが、どうしでも今日中に済ませないといけない仕事があり、夜の十時過ぎに会社へ向けて自宅の駐車場から車を出しました。ふとサイドミラーに目をやると女性の姿が映っており、はっきりとではないですが、すぐにそれが祖母であると確信されたそうです。怖さなどは一切なく、「おばあちゃん来てくれたんやな」と温かい気持ちで包まれたそうです。
私はその話を聞き、自身の葬儀に来るために、精一杯スケジュールの都合をつけるお孫さんへ御礼に来られたのだと感じました。思いはどれだけ離れていても時空を超えて届きます。功徳、徳を積むとは人の為に祈ったり、動いたり。見返りを求めることのない純粋な心の動きのことだと思っております。


〔8月の言葉〕

日々の努力で磨きあげられた心の玉に映る笑顔は
お地蔵さまのような優しさで満たされる         


お盆の棚経では、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の世界で迷う人々を引きあげ、代受苦(だいじゃく)の仏さまとして苦しみも代わりに引き受けてくださる地蔵菩薩を心においてお仏壇を拝ませて頂きます。お地蔵さまとして親しまれ、特に地獄の閻魔大王はお地蔵菩薩の化身とされ「地獄でほとけ」とは地蔵菩薩のことです。
このように私達を救おうと日々修行されているお地蔵さまに応えるように、左手に持たれる如意宝珠も輝きをましているように感じます。
おなじように、私たちが毎日同じことの繰り返しに感じることも、心をこめて続けることで少しずつ磨きがかかります。ただ高い峰に隠れた朝日がなかなかみえないように、結果はすぐにはみえないものです。
あきらめることなく一生懸命に続けた努力は心の玉を磨きあげ、そこに映ったご自身の笑顔はお地蔵さまのような優しさで満たされていることでしょう。

〔7月の言葉〕

春の華 秋の菊 笑って我に迎えた

暁の月 朝の風 情塵(じょうじん)を洗う  性霊集 

お大師様は若き頃、深く山谷に分け入り、ひとり修行に励まれたと伝えられています。ひっそりとして山の中で、ふとどうしようもない寂しさに包まれたこともあったのかもしれません。「春の華、秋の菊が私を笑顔で迎えてくれます」という言葉には、そんな時に自然の美しさがどれほど心を温めてくれたかという実感が込められているようです。
情塵(じょうじん)とは心を曇らせる煩悩や執着のこと。お大師さまも、孤独に自己と向き合う中で、怒りや嫉妬といった心の汚れに気づかれることがあったのでしょう。それでも明け方の空に浮かぶ白々とした月や、朝の新鮮な風に吹かれるうちに、いつしか心が晴れ渡っていくのを感じられたに違いありません。
私たちもまた、人と比べ自分を見失うことがあります。そんな時には、自然に目を向け触れてみてください。心の塵がそっと祓い落とされ、魂が静かに洗われていくのを感じることでしょう 。


〔6月の言葉〕

迷いも煩悩も

自分なりの仏さまを描く大切な糧である


迷いのある暗い世界、悟りのある明るい世界。迷いと悟りは私たちの心の中に同居しています。ではなぜ迷いと悟りは同居しているのでしょうか。
真っ白な紙に線を引くためのインクのようなもの、それが迷い・煩悩であると思っています。ですから使い方によっては良くも悪くもなりますが、上手く使うことができれば人に思いを伝え、感動を与えることだってできます。
このように、迷いは自分から切り離すのではなく、仏さまから頂いた紙に自身の心を描き出すための必要なものであることを忘れないでください。白と黒だけにこだわるのではなく、沢山の色、形があって良いのです。自分なりの仏さまを描き続ける心がけこそが大切なのであります。


〔5月の言葉〕

胸の前一杯に抱え込んだ荷物をおろし
心の耳を澄ませば


何となく人からかけて頂いたことばや、ふと開けた本の一文で今まで重くのしかかっていた心の緊張がほぐれるような経験はどなたにもあるはずです
御詠歌の「金剛歌菩薩和讃(こんごかぼさつわさん)」の歌詞に、木々の葉の間を通り抜ける心地よい風の流れも、波の音も、眼に見えるもの、肌で感ずるもの、何も感じないものまでもが、仏(大日如来)の説法であると説かれます。このように、自然現象や人の働きなど全てを通じて仏さまは私達に「真理のことば」を届けようとされております。
日々の生活に追われ安らぐ暇もない私達ですが、胸の前一杯に抱え込んだ荷物を一度おろして、心の耳を澄ませていけば心は軽く、生きる活力が溢れてくるのです。

〔4月の言葉〕

縁起の力が働いてこそ
ただ流れに逆らうことなく
与えられたことに感謝して

権現さまは『貪瞋痴』の三毒を打ち砕きます。

貪(とん)・・・無尽蔵の欲望や執着を指し、物質的なものだけでなく、名誉、地位、愛情などにも及びます。

瞋(じん)・・・怒りや憎しみ、敵対心を意味し、他者に対する負の感情。

痴(ち )・・・無知や誤解、妄想。正確な理解や洞察にかける状態。

悟りへの最後の壁は三毒にある「執着を破る」ことにあります。執着を破るとは、逃げている今の苦を一つひとつ引き受けていくことです。穢土(汚れたこの世)の泥の中にあえて足を突っ込む、それは辛く苦しい道でありますが、泥を離れて浄土はありません。何事も思いを尽くしたからといって思い通りに出来たものでもなく、何も思わずに勝手に出来てしまうものでもない。ただ常に縁起の力が働き導いて下さるのですから、流れに逆らうことなく素直に身も心も任せていけばよい。

〔3月の言葉〕

先を譲れる安らかな心にこそ
         仏の智慧が映ってくる


ある本の中で般若心経の「()()()()」の智慧を説く例に、目的地へ我先にと競い争う人々でひしめき合う道で、自分は後ろからきた人に「お先にどうぞ」と譲ることで心の中に安らぎが生まれた・・・とありました。こちらによく似た例で、あるお遍路さんから聞いたお話で四国遍路の際、予期せぬことに時間を費やすることがあるけれども、予想していた日程よりも早く終えられたり、遅れたことによって有り難いご縁を頂けたなんてこともあったそうです。
私達の人生も同じように、道中の思わぬ出来事によって立ち止まることもあるけれど、それは遅れるのではなく、その人それぞれの人生を深みのある素敵なものへと導いてくれる休憩なのだと思います。
進める時は進めば良いし、疲れたら先に譲るのも良いでしょう。安らかな心にこそ仏の智慧が映ってくるのだと信じています。


〔2月の言葉〕

(こころ)(くら)きときは、(すなわ)()(ところ)(ことごと)(わざわい)なり

(まなこ)(あきらか)なるときは、(すなわ)(みち)()れて()(たから)なり  
『性霊集』

心が落ち込んでいるときは、遇うものことごとくがわざわいに見え、心が明るいときは、みな宝にみえます。なさけない、つらいと周囲を責め、自分を責めていれば自然と悪いことばかりが起こっているように感じてしまいます。
 私達がこの世に仏として生を頂いたということは、楽しいことばかりではなく菩薩として仏道に励む機会を与えられたことでもあります。だからこそ、苦労もありますがそれによって他の苦しみを知り、努力することによって他の苦労を知り、もがくにしたがって学び生きることの尊さを知ることができるのです。
つらいことも理不尽なことも後から思えば必要なことだったなあと思えられる瞬間には周囲が宝もののように輝きはじめるのです。


〔1月の言葉〕

我執を離れ ただ素直に相手の心によりそうことこそが
              菩薩の道なのです
                      

慈悲とは苦しみを抜き、楽を与える心のことであります。私たちは人を喜ばせる為には楽や得を与えることだと思っていますが、しかし相手からしますと本当はそういうプラスをもらうことよりも、マイナスを抜いてほしいのです。

皆さんがお寺や神社にお参りされるときに何かを得たくてお参りされるわけではないでしょう。厄を祓ってもらうため、ご自身やご家族が病気をされていましたら少しでも痛みや苦しみが和らぐようにと祈り、誰にも言えない心の苦しみを神仏に聞いてもらいたいからではないでしょうか。

本尊さまは、そんなお1人お一人の心の言葉をしっかりと聞いてくださいます。そのサポートして一緒にお話を聞かせて頂くのが私達僧侶の仕事です。

何かを与えなければという我執を離れて、ただ素直に相手の心によりそうことこそが菩薩の道なのです。


〔新春の言葉〕

仏さまの意思に生かされて                           

私達は普段、自由な意思のもとに自分で判断し、行動していると思っていますが、それは錯覚です。自分の「考え」と言っても、それはあなたが純粋に生み出したものではなく、そこからかフッと湧いてきたのではないでしょうか。さらに過去に下した決断のことを思いだしてください。それはあなたが決めたというよりも、成り行きだったり、避けられなかったり…そうせざるを得なかった判断ではないでしょうか。

人生は自身の自由な意思でコントロールできるものではなく、「仏さまの意思」によって導かれています。これが理解できれば自由度と安心感が増大していきます。

実はあなたが望んでいることは、仏も望んでいること。ですから、これからも安心して思う存分やりたいことにチャレンジしていけば良いのです。それによって後悔や罪悪感、不運な目にあったとしても結果もすべて仏さまの意思ですから、たちどまることなくその過程こそを深く味わい楽しんでいきましょう

2024年

〔12月の言葉〕

()(おう)の目には、(みち)に触れて、みな薬なり
 
()(ほう)の人は、鉱石(こうしゃく)を宝と見る』
                 
 般若心経秘鍵                   

 優れた医者の目には、道端の雑草も薬草に見え、宝石が分る人は、ただの石ころにも宝を見出す。物の見方を変えれば、大切なことを見つけることができます。この世に無駄なものなど一つもありません。
 例えば、新しいタオルはいろいろな物を拭いて綺麗にすることが出来ます。では、汚れたタオルに役割がなくなるでしょうか?また、それを雑巾にして活用することが出来ます。さらに汚くなってしまった雑巾にも、人によってはまだまだ使い道があります。
 人生も同じです。人は生きていく上で一見無駄やどうでもいいことばかりが目立つことがあります。しかし、その無駄を全部すててしまうと自分に何が残るでしょうか? 無駄なものを素晴らしいものに変えることが出来るのは、自分自身です。
それを理解することが、幸せな生活を送るための教えです。

東寺真言宗教学研究所 『風信』第二号 言葉のマンダラより

〔11月の言葉〕

心にたまった功徳の貯金こそが 自身を救

 真言宗では人が亡くなられますとお大師さまのもとへ安心して帰られるようにと、不動明王を始めとする十三の諸尊の慈悲をうけて、み仏の世界へと迷わぬように導いてくださいます。
 その旅路の中で「三途の川」を渡らなければいけませんが、そこでは今まで着てきたもの全て脱がされてしまいます。着てきたものというのは、どれだけ良い家に住んで、肩書が沢山あって、お金を蓄えてきたという、いわば生きていく上で私達にとっては大変価値のあるものと思い込んでいたものです。実のところそれらは何一つ持って渡ることはできないのです。
 しかし、ただ一つだけもっていけるものがあります。それは生前仏さまのそばにいて供養を心がけ、人にありがとうと感謝される思い出、つまり心にたまった功徳の貯金だけを私達は持ってゆくことができるとされます。
 これから分かるように、残った私達が仏さま(ご先祖さまや故人)の為にお供えものを祈りをささげることはお互いにとって素晴らしく功徳のあることであります。


〔10月の言葉〕

仏さまに帰依する気持ちが整え

その教えも自然と心にしみわたる

 仏事、法事で読誦する観音経や般若心経などのお経の前に必ず短いお経が読まれます。真言宗では「開経偈(かいきょうげ)」「懺悔(さんげ)(もん)」と続き、()昔所造(しゃくしょぞう)諸悪業(しょあくごう)と始まる懺悔文では
「私達は、ずっとずっと昔から造ってきました。それこそ沢山の悪業を犯してきました。今世だけでなく過去世も含めて、貪り瞋り愚痴が原因で人に迷惑をかけ沢山の人に辛い思いをさせてきたと思います。だからこそ今、精一杯反省しますと」誓います。このように本番のお経を読む前に、心をしずめ、いろいろな雑念や欲望を取り去って仏様に帰依することから始まります。
本番のお経では仏さまの功徳を読みあげていきますので、こちらの気持ちが整っていますと、その教えも心に染みわたります。
 これは家庭、職場や学校でも同じことが言えるでしょう。自身の心が荒れていればどこにいっても愚痴しかでてきません。ありがたいご縁を頂きました、私にはもったいないという気持ちがあれば自然と可能性も広がっていくのではないでしょうか。


〔9月の言葉〕

平等に降りそそぐ仏の教えも
自身の心にしたがって変化していく

「それ水は (うつわ)(したが)って方円(ほうえん)し 物に(したご)うて清濁(せいだく)なり」(みずは器によっては四角にも円にもなり、物によって清いものと濁りともなるものです。)  水は仏の教えであり、人間の存在をものを入れ収めるものという表現したものです。この器と合わせて機根という言葉が仏教では使われ、仏の教えにふれて精神的、宗教的な能力が発揮されることと解かれます。その仏の教えは、学ぶ以外に日常生活の中においても常に私達に降りそそいでいます。

 例えば、人に傷つけられ損をさせられたというのに対して、許せない仕返しをしなければと思う人と、私は人に対してはこういった思いはさせたくない気を付けよう。また私もどこかで相手に対して辛い思いをさせていたのかもしれないなあと感じられる人では、注がれた水のかたちも清濁も異なることでしょう。

 平等に降りそそぐ仏の教えも自身の心にしたがい変化していくのです。



〔8月の言葉〕

ふと心が軽くなる瞬間にこそ
自身の中の仏さまが輝いているのです   

お大師さまは、悟りは言葉であらわし伝えることはできませんが、どなたの心の中にも仏さまがいると説かれています。巡礼など手を合わされる方々がありがたい体験をされるのも心が素直になり受け入れる態勢が整っているからではないでしょうか。あれこれとあせって物事を考えている時はすべて裏目にでますが、その時々の流れにまかせていれば案外スムーズに運んでいくものです。

いらだち、不満でもんもんとする心がふと軽くなる瞬間にこそ自身の中の仏が輝き、こだわりを捨てさせ、また前に向かって進めるように導いてくださっている気がします。



〔7月の言葉〕

自分だけの幸せを願う雑草の芽
周囲の幸せを願う大木の葉が生い茂れば
自然と枯れ、人生の大切な養分となる      
                         

仏教の言葉に「大欲」「小欲」という言葉があります。「小欲」とは自分だけの幸せを願うことであり、みんなの幸せを願うのが「大欲」です。夏本番のこの時期、刈り取った雑草も数日もすればあちこちに芽を出してくるように、私達の心も気が付けば「小欲」の芽に覆われているものです。あの人にこんなことを言われた、あの態度が許せない。こんなに頑張っているのになんでなんで・・・

お大師様は小欲の雑草に覆われてしまわないように「大欲」という大きな木を育て、枝一杯に葉を茂らせなさいと言います。すると日が当たらない雑草は自然と枯れていき、枯れた雑草もまた大欲という大木の栄養に変わっていくと説かれます。

思い通りにならないこと、辛いことはいくらでもありますが、大欲の大木が育った時にはそれらも全て大切な人生の養分となっていることでしょう。


〔6月の言葉〕

どんな時も落ち着いて一呼吸
まずは心に仏を感じることから
          

私達の人生を向こう岸に渡る舟にのっていると例えてみます。
波風一つたたない水面であれば皆安心して進めます。時には嵐にみまわれ不安な航海中、横を通る大きな船をみれば藁にもすがる思いでそれにのってみたいと思うことでしょう。また、周囲に沢山の小舟をみれば我先にと必死でこいでいくのが人の心情ですが、慌てれば船がゆれて沈むこともあります。
そんな時にこそ一旦落ち着いて、自分と向き合い、自分の乗っている舟をよく観察するのも良いのでは。水面が荒れているならば穏かになるまで待ち、周囲に沢山の舟があるならば場所を変えるのもありです。実の所、皆目的地が分からず進んでいる可能もあるのですから。
まずは心に仏を感じ、心安らぐ航海を続けることが自分の行くべき地への素晴らしい羅針盤となるのではないでしょうか。


〔5月の言葉〕

生きがいは 心の塵やほこりを祓ってこそ 浮き上がる                   

「生きがいを見つけられない」という悩みをもたれた方はたくさんいます。生きているということは幸せなのに、私は不幸で、不運だとマイナスのことばかりを考える。それは自分でそう思っているだけで、すでに与えられた大切なものを自分から遠ざけているだけかもしれません。
普段は塵やほこりが舞って見えない景色も雨あがりには遠くまで澄んで景色が浮き上がってきます。同じように、私達も変なプライドや意地で見えなくしているものに気づければ視界が広がっていきます。
生きがいはほかから与えられるものではなく、自身の心の塵やほこりを祓い素晴らしい、ありがとうございますと言える心によって見つかるのではないでしょうか。


〔4月の言葉〕

真言と共に心明るければ  迷いなく安心がおとずれる                 

四月に入り新しい環境での生活が始まる方もいらっしゃることでしょう。同じように山の木の枝にも新たに新芽が開き、古い葉も新しい葉へと変わり始めました。今は日々落ち葉の掃除に追われています。
雨に濡れた落ち葉はいくら掃いても掃除になりませんが、乾いた落ち葉が風に吹かれて一所に集まり掃除が楽な時もあります。いくら努力しても成果がだせない時もありますし、面白いように物事がスムーズに流れていくこともあるでしょう。人生はそれの繰り返しなのではないでしょうか。
つまりどちらも永遠には続かないという事です。辛い時には焦らず、自身を責めないこと。上手くいきすぎる時にこそ驕らないことです。
真言と共に心明ければ、迷いなく安心がおとずれます。


〔3月の言葉〕

今を認める心こそ 真実を見極 
りや不満を浄化していく力となる

効き過ぎる薬が体に毒であるように、お説教も過ぎればただの悪口となり、正義も度が過ぎれば迷惑でしかありません。あれが駄目、これが足りないと人の求めるところは無限でありますが、そんなフワフワとした考えではいつか足元をすくわれてしまうことでしょう。
そんな全ての迷いは、みな自分の身贔屓(みびいき)、わが身可愛さから生まれてくるものです。わが身を可愛く思う心を離れ、これで良かったじゃないか、それはそれでしょうがないよと、今を認められる心こそが真実を見極め、怒りや不満を浄化していく力となるのです。



〔2月の言葉〕

心が清浄であれば自ら不幸や災難を遠ざける

建治寺では、皆様のささやかな願いから全心身をかけた願いまで様々な祈りに寄り添っていく為に護摩行を行います。
護摩は、炉の中に種々の供物を投入し、焼いて仏に供養することで、梵語で「ホーマ」といい、(ぼん)(しょう)の義であります。梵焼とは煩悩を焼き滅するの意で、護摩木が燃えていくことは、仏の智慧の火で、心の垢を焼き浄めていくということなのです。
すべての不幸や災難は、いかにも外からばかり起こってくるように思われますが、実際にはそれだけではなく、自分の内なる不浄、心の持ちようが原因でもあるのです。ですから心が清浄(しょうじょう)になりさえすれば、自ら不幸や災難を(まぬが)れることができるようになっていくのです。
また、体の不調和(ふちょうわ)を治すには煎じ薬や粉・錠などの薬がありますが、心の病、霊的な祟りの病や業病は経典や真言(しんごん)陀羅尼(だらに)によらなければならないとしています。当山にお参り頂き、共にお経を上げて頂く事で、勤行(ごんぎょう)次第(しだい)の最後に唱える廻向(えこう)(もん)「ねがわくは この功徳(くどく)をもって あまねく一切に及ぼし われらと衆生と みなともに仏道を(じょう)ぜん」と説かれるように、自他ともに与えられる大きな功徳となっていくのです。


〔1月の言葉〕

感謝する心によって辛いことも 嫌なことも 
光輝く仏の智慧となってみえてくる       
                   

令和六年辰年、今年初めての月護摩となりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。元旦からの能登半島での地震、この寒い時期にご自宅ですごせないことがどれほど大変なことでしょう。被災された方々の元の生活が少しでも早くもどってきますようにと、お亡くなりになられた方の供養を月護摩を通じて祈らせて頂きます。
先のような生活をおくられている方々がいる中であっても、私達は常に時間に追われ、仕事に追われ、そして何か辛いことを探しては否定する理由ばかりさがしているのではないでしょうか。自分のことだけで頭がいっぱいになりますとそこには何も良い智慧、仏の光が差し込んでこないのです。
こんな大切なことを教えてもらえた、私が考え違いをしていました、ありがたいと気持ちを切り替えて感謝していけば嫌なことも、辛いことも違った姿となって光輝いてみえてくるでしょう。



2023年

〔12月の言葉〕

供える花が美しく咲くように

いつでも心あらたに 前をむいて


『花を供える供養より』、汗の噴き出るような暑さや身も凍る寒さにも耐えて花は咲きます。それは、人にけなされ侮られ、いかなる苦しみを受けようとも、怒りを抑えて耐え忍ぶという忍辱の行の大切さを示しています・・・とは言いましても、綺麗な花もいつかは枯れてしまいます。同じように弱い所や人に見せたくない所があるのも人が生きている証です。
心が落ち込み前が見えなくなった時にこそお仏壇のお花を新しく替え美しく咲く花をみて、心を新たにスタートすれば良いのです。ご先祖様も必ずや後押しをしてくれるよう見守ってくれています。


〔11月の言葉〕

自身の得ではなく 周囲にとっての心地良い生き方が

香の薫りの徳を積む                               


仏前にてお供えする六種(ろくしゅ)の供養の内、持戒(じかい)の徳から。それは、お勤めの前に香りの良い粉、塗る香りと書いて、()(こう)とよばれるものを手や体に塗り身を清める徳のことを表します。自身を清めると同時に、普段の生活の中で色々な決めごと、人との約束などを守り信頼を築く事を心に誓います。
私さえよければと、自身の都合でものごとを考えて進めていれば、自分では得しているようであっても本当に大切にすべき人、支えてくれている方々の信頼を失っていきます。
六種供養は、それぞれに徳と説かれるように、何かを得ることではなく徳を積む生き方の大切さを戒めています。願わくば、香の清々しい薫りのように周囲にとって心地よい生き方をめざしたいものです。



〔10月の言葉〕

他人を思う優しい心と 神仏に手を合わせる信心があれば

どこでいようとも心は自由自在である   
                         

ある学生さんから頂いたコメントに「自分はいじめにより退学する事となりました。私の人生、そして同じようにいじめで苦しんでいる方々の救いを・・・・」と。

お釈迦様の言葉に四苦八苦とあるように常に私達は様々な悩みを抱えています。今回で言えば『怨憎(おんぞう)会苦(えく)』。嫌な人とも毎日顔を合さなければいけない苦しみであります。その苦しみとどう向き合うか、どう乗り越えていくかはその人それぞれの自由。皆が皆同じように生きる必要はありません。その人なりの人生を歩めば良いのです。大切なのはどんな状況であろうとこれは仏さまから与えられたありがたい道であると信じて進めばどこでいようとも心は自由自在になります。

自身のみならず他人を思う優しい心と神仏に手を合わせる信心があれば、いつの日か歩んできた道のりを振り返った時に、つらい経験も良き肥しとなったことに感謝されることでしょう。


〔9月の言葉〕

私達の心の苦しみは 求めるものがないからではなく

他を思いやらぬ我欲である                             


ある仏さまのお経に、「末世(まっせ)無福(むふく)衆生(しゅじょう)福徳(ふくとく)智恵(ちえ)(とも)に欠け、常に罪を犯して分限(ぶんげん)にあらざるを()い求め、朝な夕なに及びなき物を望みて奔走す・・・」とあります。
この一文から、欲しいと欲しいと求め、思い通りにならないことによる不安や怒りで、正しくものをみることができずに日々苦悩する様子が浮かんできます。
私達の心に大きな苦しみを与えるのは、求めるものがないことではなく、自分を満たそうとして他を思いやらぬ我欲から生まれるのです。この道理を常に心得ておれば、自然と(みずから)の「み仏のこころ」が輝きはじめ感謝の気持ちで満たされていくのです。



〔8月の言葉〕

ご先祖さまの幸せを祈るこころが お地蔵さまに届きます
                        
八月は、普段の忙しさの中、疎かになりがちなご先祖さまの供養を、お地蔵さまに祈る季節でもあります。そのお地蔵さまは、別名、六道(ろくどう)能化(のうけ)地蔵(じぞう)(そん)とも申しまして、人のこの世での行いの報いとして向かう「地獄(じごく)」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」「修羅(しゅら)」「人間(にんげん)」「天上(てんじょう)」の六道においても私達を常に見護ってくださいます。このうち「地獄(じごく)」「餓鬼(がき)」「畜生(ちくしょう)」の三つの世界は苦しみだけの世界であり(さん)悪道(あくどう)ともよばれます。
誰しもが、「天上(てんじょう)」を目指して道を歩めれば良いのですが、人は弱いもので目先のことに振り回されて自ら(さん)悪道(あくどう)へと進んでしまい苦しみからの出口を見失ってしまいます。
盆供養とは、私達自身の生活を振り返り、またご先祖さまが迷い苦しむことのないようにお地蔵さまに祈り共に精進していく期間でもあるのです。


〔7月の言葉〕

高い所からではなくその人の立場にたって      

「仏」とは仏さまの命を「法」とは仏さまの説かれた教えの尊さを「僧」とは社会の中で身をもって実践されている人々の尊さを表し、三宝と言います。三宝の中の「法」から、心の持ち方と実践道

心  
慈…慈愛に満ちた慈しみの心 親が子を思うような心
悲…相手の心になって共に悲しみ泣いてあげられる心喜…他人の幸せを嫉むことなく共に喜べる心
捨…報いを求めない、無条件でただ差し上げるだけの心

実践道
布施…どんな人にも他にない良いものをもっています。その分のもっているものを遠慮なく他に施す。
愛語…相手を思いやる慈愛にみちた優しい言葉をかける。
利行…他人の利を我が利より先に考え行動にうつしていく。
同時…人は高い所から説き伏せる癖がありますが、自分をその人の立場に置き換え自分と同等にみていくこと。



〔6月の言葉〕

心を込めてお供えをすることが
仏の教えを知る近道である

水を供える供養(布施の徳)自然の恵みである水は、見返りを求めることなく大地に降り注ぎます。損得勘定を持たず、優しさと奉仕の気持ちを持つ心がけを表しています

香を塗り体を清める供養(持戒の徳)塗香とは香りの良い粉で、お勤めの前に手や体に塗り身を清めます。普段の生活の中で色々な決めごとや、人との約束などを守り信頼を気づく事を表しています。

花を供える供養(忍辱の徳)お花は、私達の方へ向かって飾ります。それは、自身の心の忍耐力を表し、お仏壇で美しく咲く花を見て普段の生活を見つめなおすきっかにしましょう。

香を焚く供養(精進の徳)線香は一度火が付けば燃えつきるまで消えません。何事も続けていくのは大変ですが、焦らずゆっくりと前を向いて進んでいくことの大切さを表します。

食事を施す供養(禅定の徳)食事をとると体調が整い心が落ち着きます。どんな時でも一呼吸おいて、怒らず、慌てずに心を静めることの大切さを示しています。

明かりを灯す供養(智慧の徳)ろうそくの明かりは、闇を照らす仏の智慧の象徴で、悟りへ至る智慧を表します。他の5つの供養を生活の中で心がけることで、仏の智慧の光に照らされていくのです。



〔5月の言葉〕

思い通りにいかないこともまた 仏の智慧の光である

諸行(しょぎょう)無常(むじょう)《自然界の美しい花も、この体も、この世の全ての存在はみな変化し移り変わる》

是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)《このようにあらゆる存在は生まれ変化し滅することを前提としている》

生滅滅(しょうめつめっ)()《身を(わずら)わし、心を(まど)わす生滅(しょうめつ)、変化に対するとらわれ(煩悩)から離れると》

寂滅(じゃくめつ)()(らく)《清らかで安らかな仏さまのような心でしなやかに生きることができる》

あらゆることは変化していき、維持する為には大変な努力が必要であります。かといって頑張りすぎると無理が生じ、何かを犠牲にすることもあるでしょう。だからこそ思い通りにするのではなく、ならないこともまた仏の智慧の光であることを忘れてはいけません。


〔4月の言葉〕

苦しみとの向き合い方が人生を変えていくのです

  
「生老病死」、という人間だれもが持たなければならない四苦にくわえ、愛する人と別れる苦しみ、嫌いな人と顔を合わせる苦しみ、求めても手に入らない苦しみ、そして肉体をもつがゆえに欲望で燃える心の苦しみを合わせて四苦八苦と言います。
これらの苦しみとどのように向き合っていくかが私達の人生を大きく左右していきます。
喉がカラカラに乾いた時に飲む水が体に染みわたるように、苦しい時こそが仏の功徳を受け取る機会でもあるのです。周囲を否定し人生を怨んでいきるよりも、仏に手を合わせ一心に祈りながら感謝の心を忘れない生き方こそが、苦しみとの良き共存方法なのではないでしょうか。


〔3月の言葉〕

心が軽く 素直になれる瞬間こそが
仏と智慧と繋がっているのです



(くう)(さい)は人の(さっ)するなし、(ほっ)(しん)のみ(ひと)()(つまびらか)なり」真言宗の本尊である、大日如来さまの覚りの境界は、それを知ったり理解するというのはなかなか難しいものではあります。
それでも、色々な仏様の働きによって生かされる私達です。日々それぞれの道で悩み苦しみながらでも歩みをとめなければ、様々な体験通してその智慧の一部を教えて下さるように感じます。
大切なのは、ものごとを深く深く掘り下げないこと。仏に向かい合掌し、心が軽く、素直になれる瞬間こそが仏の智慧と繋がっているのです。


〔2月の言葉〕

周囲に優しさをむけることで
自身を覆う妄想や煩悩の埃がはらわれる
       

仏さまはもともとわが心の中におられる、それが妄想によって覆われ、煩悩によって纏われて隠されています。
人が生きていくということは、仏さまを覆う埃をはらって本来の姿を映しだすようなもの。その姿がみえてこない内は、どこか居心地の悪さを感じ、遠回りをしては振り出しに戻るようなことが続くかと思います。
曼荼羅の中心にいらっしゃる大日如来さまを周囲の仏さまが供養し供養されるように、周囲の方々にも優しさをむけることが埃をはらい本当の自分に気づけるきっかけとなるのです。


〔1月の言葉〕

自身の中の仏様が輝けば 自然と心も晴れていく          

 滝行指導を二十二歳から始めて、今年でちょうど二十年目になりました。指導と言いましてもただ一緒に行をするだけで、道案内のようなものです。行場までの道中に、来られた方のお話を聞かせて頂いたり、時には聞いてもらったりと片道十五~二十分程度の行程が凄く貴重な時間だったことに気づかされます
 「(ほっ)(しん)(いず)くにか()る、(とお)からずして(すなわ)()なり、()(たい)()()ん、我が(こころ)にして(はなは)(ちか)し」大日如来さまは遠いどこかではなく私たちの心の中にこそおられる。こちらの言葉のように、滝行場でお経を唱え水に打たれることで自然と心が清々しい気持ちになります。それは、行に来られた方々も同じであり、される前と終えた後では別人のように雰囲気が変わり、ご自身の中の大日如来様が喜んでいらっしゃるように感じます。
 まずは、これから十年を目標に皆様の中の仏様と共に続けて行きたいと思います。


〔新春の言葉〕
新春は、お大師様のお言葉から「久しく無明に覆われて還源(げんげん)()無し」執着しすぎると、もともと清浄なる心が無明に覆いつくされて本来の自己にかえる時期をなくしてしまうという意味です。 
執着にも色々とありますが、人や物事を思い通りにしようと悪い面ばかりに目がいってしまいますと自身を苦しめ、ますます無明の世界から脱け出せなくなります。
私達は、仏様の心という眼鏡を通じて真実をみつめなければいけません。それには、人それぞれの良い所をしっかりと探していけば良いのです。
清流のごとく、清く流れる心こそが仏の心であり、私達は目醒め、一筋の道の先に光が見えてくるのです。自分の大切なものを探していけるようこころがけ今年一年も共に頑張っていきましょう。

2022年

〔12月の言葉〕

過去を手離した時にこそ
 仏の智慧が語りかけてくるのです  
     

自分や他人を責め続け、いつまでも怒りや、心のもやもやが、治まらないことはないでしょうか。人は前には進めますが、絶対に過去に戻る事はできませんから、いくら、なぜなぜと後悔した所でそこに答は見つからないのです。
どうすればその気持ちから解放されるのか、それには自己をわすれ、自己を捨てること。つまり我執を捨てることです。いつかは、すべてを手離し捨てる時がくるのですから、少しずつ捨てる練習する機会を神仏が与えてくれるのでしょう。
そのように思ってす~と過去を手離した時にこそ宇宙の真理(仏の智慧)が自己に語りかけてきます。仏と一体になり、綺麗な合掌ができてこそしっかりと前に踏み出す事ができるのです。



〔11月の言葉〕

共に悩み、共に喜ぶ心があれば
自身の苦悩も消滅していく
    
                             
私達は常に自分が幸せであり、心が満たされることばかり優先し、人の幸せや成功を妬み、不幸だと感じてしまいます。
お大師さまのお言葉に「善人(ぜんにん)用心(ようじん)()(さき)として(おのれ)(あと)とす、一切(いっさい)(しゅ)(じょう)()()(しん)(ごと)し」とあり、諸仏諸菩薩はみなこの大悲行願の心をもって普く一切人類を利益し苦を抜き楽を与えてくださっています。
このように、常に人の困難、迷いや心の苦しみによりそい、解決してあげることができなくとも、根気よく耳を傾け共に祈ることはできます。
もし、その問題が解決し、心願が成就すれば自身のことように一緒になって喜べる心であれば、自然と自身の悩みや苦悩も消滅していくのではないでしょうか。信心とは、仏様のように生きる努力を続けていくことであります。


〔10月の言葉〕

苦しみも失敗も
思い通りにならないことこそが人を育む糧となる           

苦しむがゆえに他の苦しみを知り、努力するがゆえに他の苦労を知り、もがくにしたがって学び生に則して生きることの尊さを知る。それが自分を潤し余りあって諸々の生命をも潤すのである・・・。
泥の中で蓮が綺麗に咲くように、思い通りにならないことこそが人を育む大切な養分となります。なんて不幸な人生なんだろうと自ら物事を複雑に考え、重い荷を背負い込む必要はありません。それぞれに懸命に生きるその姿こそが、周囲を幸せにしていく力となるのです。


〔9月の言葉〕

観音経の優しい流れに身をまかせ
                菩薩の慈愛を感じます  
           


『観世音菩薩普門品偈』には、観音さまの名を一心に称することによって七つの災難、三つの煩悩が皆滅するよう説かれています。七難三毒(しちなんさんどく)とは、災害や事件事故、絶えず湧き起こり心を苦しめる煩悩のことであり、私たちが生活していくうえで切り離すことのできない不安や恐れに寄り添う観音様の慈悲を表したお経です。
ものごとを自分の思うようにしようと激流をさかのぼれば疲れ果てる時がきます。時には、観音経の優しい流れに身をまかせて素直に合掌することも必要なのではないでしょうか。
〃福寿の海は無量なり〃(福寿海無量)、「もろもろの功徳は海のように限りなく豊である」のですから、急がずゆっくりと、自身がやりたいこと、ただそれだけをしっかりと見つめていけば、必ずや観音様の慈愛に満ちた働きを感じることができるのです。


〔8月の言葉〕

周囲への感謝と施しの心が お地蔵さまに届きます                                    

八月は祈りと鎮魂の季節であり、あの世と現世の人々が共に過ごし、「七世の父母」(父母・妻子・きょうだい、七代遡っての直系先祖、欲界・色界・無色界すべてのみたま、あらゆる処にいる、いのちあるもの)に祈りを捧げ、お地蔵様に救われていく季節でもあります 。
生死流転の中であらゆる存在と共にしているように、私達の心もまた欲界・色界・無色界の三界の中を彷徨い歩き続けます。物事にとらわれ、こだわればこだわる程に欲界から抜け出せず、不安な日々を過ごします。
目連尊者さまのお母さまが救われたように、周囲への感謝と施しの心を忘れないことがお地蔵様に届き、ご先祖様を極楽浄土へ導く功徳となって私達の心の安らぎとなるのです。



〔7月の言葉〕

ありがたい、うれしい、もったいない
明るい感謝の心を胸に
仏の浄土をつくる道理の道をあゆみます   
     
                        

私達は生まれながらにして等しくみ仏の心を頂いております。けれども、日常生活ではせっかく頂いた仏性からは遠くかけ離れ、欲しい、欲しいで苦悩の日々を過ごしてはいないでしょうか。
人は、満たされず思い通りにならない時に起こる怒りの心によって正しくものをみることができなくなり、暗い闇夜へと足を進めてしまうのです。
仏様が私達に与えて下さった欲は、貪りの欲ではなく仏になろうとする欲望『大欲』です。その大欲を満たす方法は欲しい、足りない、してくれないではなく、ありがたい、うれしい、もったいないの明るい感謝の心です。
この気持ちがあれば、苦悩から離れ共々に仏の浄土をつくる道理の道を歩めます。


〔6月の言葉〕

浄土(心の安楽)への道のりは
心がけひとつで 遠くにも、近くにもなる。


道元禅師の言葉に、仏と衆生に、「(ごう)()も差があれば天地はるかに(へだ)たる」と言う言葉があります。始めは少しのずれであってもそのまま突き進めばやがて大きな隔たりができる。また、ハの字に開いていく関係を、相手に寄り添うことで埋めていくなど、いくつかの解釈があります。
今回は、仏と衆生ということで、仏に生かされ、その報恩として真言を唱えるならば、身は仏と一心同体。いわば仏の子となり、極楽浄土は十万億土の先ではなく、自身の心にこそあると受け取れるでしょう。
浄土(心の安楽)への道のりは私たちの心がけひとつで遠くにも、近くにもなります。



〔5月の言葉〕

物のかたちや大きさ量に囚われず、
私にはこれで十分である 本当に有難うございましたと
思う感謝こそが人を生かします。 
                                  
 どの仏さまも、必ず『御本(ごほん)(ぜい)』を持っておられ、その誓に従って私達を利益され苦しみから救済されます。今回はお不動さまの御本誓から。
 ①お不動さまのお姿を心静かに拝見するものは、必ず人々の役に立つ善い行いをしようという心を起す。
 ②お不動さまのご真言を聞くものは、自分を反省し、悪行を捨て、善行を実行するようになる。
 ③お不動さまの真言を唱え、礼拝供養の心で信心の道を歩むものは大いなる智慧(功徳)を得る。
 ④そして、お不動さまが仮の姿で、なぜ人々に恐れられるような姿を示しておられるのか、その御本心に触れることができたものは、必ずこのみこのまま覚の境地をえるであろうと説かれています。
 これら四つの誓い『お不動さまの()()(がん)』を心におき、愚痴や不平不満で溢れる心を日々反省する。物のかたちや大きさ量に囚われず、私にはこれで十分である、本当に有難うございましたと思う感謝こそが人を生かします。



〔4月の言葉〕

仏と向き合い  謙虚で前向きな心でいれば
全てがこれでよかったと思える日々へと変わってゆく 


                      
お大師様は、そのお姿を拝見することはできなくても、肖像を本当のお大師さまと思い、残された教えを聞くたび我が声と信ずれば禅定と仏の知恵とをもって必ず救済するであろうとお約束されています。
私達は、常に右か左かと立ち止まっては迷い、選んでからも、あちらの方が良かったと後悔ばかりし続ける日々を過ごしがちです。
これだけ、お大師さまが仏の知恵をもって見守って下さるとお誓されているのですから、私達もいつまでも後ろばかり振り返るべきではありません。過ぎた時間には戻れませんが、前を向いて進めば全て良い肥やしとなり、仏の光に照らされて心も晴れて、成長していくのです。
仏と向き合い、謙虚で前向きな心でいれば、全てがこれでよかったよかったと思える日々へと変わってゆきます


〔3月の言葉〕

観音様にみをゆだね、感謝の念で唱えれば
 智慧の光で悩む心も晴れて行く



南無(なむ)大慈(だいじ)大悲(だいひ)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)』。観音様は、(ほう)浄土(じょうど)から立ち()で、五濁(ごじょく)()てるこの世で、(あん)()(まよ)う人を(すく)う為に菩薩(ぼさつ)として現れ、大慈(だいじ)は悩み苦しむ人の苦を抜き、大悲(だいひ)は楽を与えて下さいます。
この世は、時の流れと共に変わる社会に従って種々(しゅじゅ)の災いが起こります。正しい教えがおとろえ、何が真実(しんじつ)なのか、その手段(しゅだん)さえも分からない。歯止めのきかない煩悩(ぼんのう)闘争(とうそう)が盛んになれば、お互いの間に思いやりがなくなり、人の命さえ危険に(おか)されます。
このような浮世(うきよ)に観音様はみて手をさしのべて、我々の心を優しく照らします。観音経(かんのんきょう)を唱える時は、その観音様に身も心もゆだねて、感謝の気持を込めてお唱えして頂ければ、必ずや智慧(ちえ)の光で心が満たされるでしょう。


〔2月の言葉〕

思いやりのない心こそ恥じることだと知る
それが供養の功徳です                                          
 
 二月と十二月の八日は「(こと)八日(ようか)」と古くから呼ばれ、二月に農耕の神を迎え、十二月に神を送る祭日とし、いつの頃からかこの日に縫い針の供養をするようになりました。お墓やお仏壇、お位牌の魂抜きをしてからことにかかるように、針一本にも魂がやどり、お経をあげてその苦労をねぎらうのです。
 私も、断捨離と言いますか物を整理する為に天体望遠鏡を捨てようとしたことがありました。その事を何となく父に伝えた時に、凄く嫌そうな顔されたので捨てずに置いてあります。今回ふと針供養の話と共に小学生の頃にわくわくしながら買ってもらい、物凄い大発見でもしたような気持ちで望遠鏡をのぞき込んでいた事を思いだしました。
 もの一つにしても、沢山の思い出でがつまっているのですから、それが人であればより沢山の物語があるはずです。このように、ものを大切にする気持ちから人を人として大切にする気持ち。思いやりのない心こそ恥じることだと気付かされる、それが供養の功徳です。

〔1月の言葉〕

蓮華
しといえどをはなれざるが    
                    
 蓮はあえて泥の中に咲きます。きれいな清水(しみず)の中には咲きません。私達人間は、いつもきれいなところに逃げたいと思っています。
しかし、逃げても逃げてもやっぱりそこは泥だらけです。
 泥水をすすりながらも自分の中で浄化して、独自の花を咲かせる蓮が、私たちの生きる見本です。
 この選択は間違いであった、もっと他に私が本来歩むべき道があったという妄想が人を迷わせ苦しめます。苦しい中でも気長に続けていれば自然と根がはっていき、いつか人を幸せにする花が咲くでしょう。





shop info.店舗情報

大瀧山 建治寺

〒779-3133
徳島市入田町金治230
TEL.088-644-1232
FAX.088-644-1857