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 四国三十六不動霊場第12番 四国霊場第13番奥之院

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〒779-3133 徳島市入田町金治230

毎月のお言葉

2026年

〔新春の言葉〕

他が己に従うことを欲し、己が他に従うことを欲せず
                                          (宗秘論)

こちらは、2025年、冊子「東寺光の日々」のお大師さまのおことばから。私も毎月新たに仏教、お大師さまの教えをお伝えしています。それは話が上手い下手、文才があるなしに関わらず、僧侶としての義務だからです。とは言え、自分の体験や考えだけの話では視野の狭いものになってしまいますので、他の先生方の布教の資料もしっかりと読ませて頂きます。今日のおことばのように、まず自身が他の意見に耳をかたむけなくては話が進みません。
そんな布教師の先生方の話の中でも、やはりご自身の体験を通じた法話はすっと入ってきますし分かりやすい。逆に仏教用語が散りばめられたお話は解説的になりがちですが、資料としては大変参考になります。それぞれの持ち味があるからこそ面白いのかなと思います。
人は年を重ねるごとに、他人の言葉に耳をかたむけることが辛くなっていきます。しかし、自分こそが正しく優れているのだと殻に閉じ籠るのはもったいないことです。人を認めることこそが、仏の歩み方であり、自身を救う道でもあります。私達の生きがいとは、そこを越えた先に生まれてくるような気がしています。


2025年

〔12月の言葉〕

執着から解き放たれた瞬間は

自然とその表情も 仏さまのようにやさしいお顔となる 


気が付けば吹き付ける風も北から訪れ頬を冷やします。今年も早残すところわずかとなり皆様にはさぞお忙しい師走をお過ごしのことと存じます。
 仏教は、人間が幸福になるためにこだわりから離れ、自由自在な心を得ることを勧めます。常に他人とくらべ、何かを求めてやまない心に疲れがちな私達。そんな心を解きほぐすきっかけになればと、般若心経から。心経も中頃をすぎたあたりに「遠離一切顛倒夢想」とあります。「顛倒夢想」は反対、逆さのこと。ものごとを正しく見ないで逆さにみて、ありもしないことをあると思い込む。現実離れした妄想のことをいいます。そして「遠離」でその妄想を突き放しなさいと説かれます。なぜなら、この妄想があるからこそ人々は苦しみ、過ちを犯します。いつまでも心がくよくよしている時こそ、私はこだわっているな、自分の心の見栄にこだわっているなと、自身をみつめなおす必要があります。内面が追われていれば険しい顔に、執着から離れ解き放たれた時には、自然とその表情も仏さまのようにやさしいお顔となるのです。


〔11月の言葉〕

表も裏も その両面を認めることで
私達の人生も美しく色づいていく


秋の深まりも気がつけば終盤に。木々の葉も黄色に赤に色を変えひらひらと舞う落ち葉は地を覆い、晩秋の美しい風景が広がっています。
『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』江戸時代の禅僧(曹洞宗)である良寛の辞世の句です。こちらは、日に日に衰弱していく自身を懸命に看病される弟子の貞心(ていしん)()に返された俳句です。
美しく色づき、そんな中でも一際真っ赤に染まったかと思うと一斉に散り始めるもみじ。裏も表も風になびくままに、隠す事も取り繕うこともありません。ありのままに生き抜くその姿こそが素晴らしく、尊いのだと感じとられたのでしょう。そして、おもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべてみせ、心の底から安心され感謝の気持ちを込められているのだと思います。
表も裏もその両面を持ち合わせることは自然なことであり、その両面を認めることによってこそ私達の人生も美しく色づき、ありのままに、ご縁のままに導かれていくのです。


〔10月の言葉〕
(東寺 仏はいきている 第十四号「心の中のお月さま」より) 
他人を思いやり 慈しむことで 
心の中のお月さまは 自然とその姿を表す

秋が深まるにつれ、澄み切った夜空に浮かぶ月も白く輝きます。中秋の名月、上弦の月など満ち欠けで呼び名を変えて、古来よりその美しさを愛でてきました。
お大師さまも大切にされた「菩提心論」(ぼだいしんろん・龍猛菩薩著)には、「我、自心を見るに、形、月輪のごとし」とあり、さとりを求める私たちの心の様子をお月さまになぞらえて表現されています。そこには、私たちの心は本来仏さまになる清らかな心(菩提心)そのものであり、それはまるで欠けることない満月のようであると。しかし残念ながら時にはその満月の前に雲がかかり、はっきりと見えなくなってしまうことがあります。
同じように私たちも日々の生活の中で、つい腹を立てたり、うらんだり、あるいはふとしたことで悩んでしまい、自分の気持ちがみえなくなってしまうことがあります。
心の中のお月さまは、いつも変わらず輝いているのですが、私たちが持つ煩悩や迷いが雲となり、その姿を覆いかくしてしまうのです。
そのような時は、一度に雲を晴らそうとするのではなく、ただ我が身を慎み、他人を思いやり慈しむことで、お月さまのような仏さまになる清らかな心が少しずつその姿を表していくのです。


〔9月の言葉〕

見返りを求めず、人の為に祈り行動する
その純粋な心の動きこそが功徳であり徳となる


お経の最後に「願わくばこの功徳をもって・・・」と唱えた功徳が周囲へ広がっていくように願います。では、徳を積む、功徳を積むとはどういったことでしょうか。それを分かりやすくお伝えする為に、先日ある男性から聞かせて頂いたお話を致します。
今から十数年前に、母方の祖母が亡くなられ、翌日には葬儀の為に徳島から京都へ向かわれる。ですが、どうしでも今日中に済ませないといけない仕事があり、夜の十時過ぎに会社へ向けて自宅の駐車場から車を出しました。ふとサイドミラーに目をやると女性の姿が映っており、はっきりとではないですが、すぐにそれが祖母であると確信されたそうです。怖さなどは一切なく、「おばあちゃん来てくれたんやな」と温かい気持ちで包まれたそうです。
私はその話を聞き、自身の葬儀に来るために、精一杯スケジュールの都合をつけるお孫さんへ御礼に来られたのだと感じました。思いはどれだけ離れていても時空を超えて届きます。功徳、徳を積むとは人の為に祈ったり、動いたり。見返りを求めることのない純粋な心の動きのことだと思っております。


〔8月の言葉〕

日々の努力で磨きあげられた心の玉に映る笑顔は
お地蔵さまのような優しさで満たされる         


お盆の棚経では、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の世界で迷う人々を引きあげ、代受苦(だいじゃく)の仏さまとして苦しみも代わりに引き受けてくださる地蔵菩薩を心においてお仏壇を拝ませて頂きます。お地蔵さまとして親しまれ、特に地獄の閻魔大王はお地蔵菩薩の化身とされ「地獄でほとけ」とは地蔵菩薩のことです。
このように私達を救おうと日々修行されているお地蔵さまに応えるように、左手に持たれる如意宝珠も輝きをましているように感じます。
おなじように、私たちが毎日同じことの繰り返しに感じることも、心をこめて続けることで少しずつ磨きがかかります。ただ高い峰に隠れた朝日がなかなかみえないように、結果はすぐにはみえないものです。
あきらめることなく一生懸命に続けた努力は心の玉を磨きあげ、そこに映ったご自身の笑顔はお地蔵さまのような優しさで満たされていることでしょう。

〔7月の言葉〕

春の華 秋の菊 笑って我に迎えた

暁の月 朝の風 情塵(じょうじん)を洗う  性霊集 

お大師様は若き頃、深く山谷に分け入り、ひとり修行に励まれたと伝えられています。ひっそりとして山の中で、ふとどうしようもない寂しさに包まれたこともあったのかもしれません。「春の華、秋の菊が私を笑顔で迎えてくれます」という言葉には、そんな時に自然の美しさがどれほど心を温めてくれたかという実感が込められているようです。
情塵(じょうじん)とは心を曇らせる煩悩や執着のこと。お大師さまも、孤独に自己と向き合う中で、怒りや嫉妬といった心の汚れに気づかれることがあったのでしょう。それでも明け方の空に浮かぶ白々とした月や、朝の新鮮な風に吹かれるうちに、いつしか心が晴れ渡っていくのを感じられたに違いありません。
私たちもまた、人と比べ自分を見失うことがあります。そんな時には、自然に目を向け触れてみてください。心の塵がそっと祓い落とされ、魂が静かに洗われていくのを感じることでしょう 。


〔6月の言葉〕

迷いも煩悩も

自分なりの仏さまを描く大切な糧である


迷いのある暗い世界、悟りのある明るい世界。迷いと悟りは私たちの心の中に同居しています。ではなぜ迷いと悟りは同居しているのでしょうか。
真っ白な紙に線を引くためのインクのようなもの、それが迷い・煩悩であると思っています。ですから使い方によっては良くも悪くもなりますが、上手く使うことができれば人に思いを伝え、感動を与えることだってできます。
このように、迷いは自分から切り離すのではなく、仏さまから頂いた紙に自身の心を描き出すための必要なものであることを忘れないでください。白と黒だけにこだわるのではなく、沢山の色、形があって良いのです。自分なりの仏さまを描き続ける心がけこそが大切なのであります。


〔5月の言葉〕

胸の前一杯に抱え込んだ荷物をおろし
心の耳を澄ませば


何となく人からかけて頂いたことばや、ふと開けた本の一文で今まで重くのしかかっていた心の緊張がほぐれるような経験はどなたにもあるはずです
御詠歌の「金剛歌菩薩和讃(こんごかぼさつわさん)」の歌詞に、木々の葉の間を通り抜ける心地よい風の流れも、波の音も、眼に見えるもの、肌で感ずるもの、何も感じないものまでもが、仏(大日如来)の説法であると説かれます。このように、自然現象や人の働きなど全てを通じて仏さまは私達に「真理のことば」を届けようとされております。
日々の生活に追われ安らぐ暇もない私達ですが、胸の前一杯に抱え込んだ荷物を一度おろして、心の耳を澄ませていけば心は軽く、生きる活力が溢れてくるのです。

〔4月の言葉〕

縁起の力が働いてこそ
ただ流れに逆らうことなく
与えられたことに感謝して

権現さまは『貪瞋痴』の三毒を打ち砕きます。

貪(とん)・・・無尽蔵の欲望や執着を指し、物質的なものだけでなく、名誉、地位、愛情などにも及びます。

瞋(じん)・・・怒りや憎しみ、敵対心を意味し、他者に対する負の感情。

痴(ち )・・・無知や誤解、妄想。正確な理解や洞察にかける状態。

悟りへの最後の壁は三毒にある「執着を破る」ことにあります。執着を破るとは、逃げている今の苦を一つひとつ引き受けていくことです。穢土(汚れたこの世)の泥の中にあえて足を突っ込む、それは辛く苦しい道でありますが、泥を離れて浄土はありません。何事も思いを尽くしたからといって思い通りに出来たものでもなく、何も思わずに勝手に出来てしまうものでもない。ただ常に縁起の力が働き導いて下さるのですから、流れに逆らうことなく素直に身も心も任せていけばよい。

〔3月の言葉〕

先を譲れる安らかな心にこそ
         仏の智慧が映ってくる


ある本の中で般若心経の「()()()()」の智慧を説く例に、目的地へ我先にと競い争う人々でひしめき合う道で、自分は後ろからきた人に「お先にどうぞ」と譲ることで心の中に安らぎが生まれた・・・とありました。こちらによく似た例で、あるお遍路さんから聞いたお話で四国遍路の際、予期せぬことに時間を費やすることがあるけれども、予想していた日程よりも早く終えられたり、遅れたことによって有り難いご縁を頂けたなんてこともあったそうです。
私達の人生も同じように、道中の思わぬ出来事によって立ち止まることもあるけれど、それは遅れるのではなく、その人それぞれの人生を深みのある素敵なものへと導いてくれる休憩なのだと思います。
進める時は進めば良いし、疲れたら先に譲るのも良いでしょう。安らかな心にこそ仏の智慧が映ってくるのだと信じています。


〔2月の言葉〕

(こころ)(くら)きときは、(すなわ)()(ところ)(ことごと)(わざわい)なり

(まなこ)(あきらか)なるときは、(すなわ)(みち)()れて()(たから)なり  
『性霊集』

心が落ち込んでいるときは、遇うものことごとくがわざわいに見え、心が明るいときは、みな宝にみえます。なさけない、つらいと周囲を責め、自分を責めていれば自然と悪いことばかりが起こっているように感じてしまいます。
 私達がこの世に仏として生を頂いたということは、楽しいことばかりではなく菩薩として仏道に励む機会を与えられたことでもあります。だからこそ、苦労もありますがそれによって他の苦しみを知り、努力することによって他の苦労を知り、もがくにしたがって学び生きることの尊さを知ることができるのです。
つらいことも理不尽なことも後から思えば必要なことだったなあと思えられる瞬間には周囲が宝もののように輝きはじめるのです。


〔1月の言葉〕

我執を離れ ただ素直に相手の心によりそうことこそが
              菩薩の道なのです
                      

慈悲とは苦しみを抜き、楽を与える心のことであります。私たちは人を喜ばせる為には楽や得を与えることだと思っていますが、しかし相手からしますと本当はそういうプラスをもらうことよりも、マイナスを抜いてほしいのです。

皆さんがお寺や神社にお参りされるときに何かを得たくてお参りされるわけではないでしょう。厄を祓ってもらうため、ご自身やご家族が病気をされていましたら少しでも痛みや苦しみが和らぐようにと祈り、誰にも言えない心の苦しみを神仏に聞いてもらいたいからではないでしょうか。

本尊さまは、そんなお1人お一人の心の言葉をしっかりと聞いてくださいます。そのサポートして一緒にお話を聞かせて頂くのが私達僧侶の仕事です。

何かを与えなければという我執を離れて、ただ素直に相手の心によりそうことこそが菩薩の道なのです。


〔新春の言葉〕

仏さまの意思に生かされて                           

私達は普段、自由な意思のもとに自分で判断し、行動していると思っていますが、それは錯覚です。自分の「考え」と言っても、それはあなたが純粋に生み出したものではなく、そこからかフッと湧いてきたのではないでしょうか。さらに過去に下した決断のことを思いだしてください。それはあなたが決めたというよりも、成り行きだったり、避けられなかったり…そうせざるを得なかった判断ではないでしょうか。

人生は自身の自由な意思でコントロールできるものではなく、「仏さまの意思」によって導かれています。これが理解できれば自由度と安心感が増大していきます。

実はあなたが望んでいることは、仏も望んでいること。ですから、これからも安心して思う存分やりたいことにチャレンジしていけば良いのです。それによって後悔や罪悪感、不運な目にあったとしても結果もすべて仏さまの意思ですから、たちどまることなくその過程こそを深く味わい楽しんでいきましょう

2024年

〔12月の言葉〕

()(おう)の目には、(みち)に触れて、みな薬なり
 
()(ほう)の人は、鉱石(こうしゃく)を宝と見る』
                 
 般若心経秘鍵                   

 優れた医者の目には、道端の雑草も薬草に見え、宝石が分る人は、ただの石ころにも宝を見出す。物の見方を変えれば、大切なことを見つけることができます。この世に無駄なものなど一つもありません。
 例えば、新しいタオルはいろいろな物を拭いて綺麗にすることが出来ます。では、汚れたタオルに役割がなくなるでしょうか?また、それを雑巾にして活用することが出来ます。さらに汚くなってしまった雑巾にも、人によってはまだまだ使い道があります。
 人生も同じです。人は生きていく上で一見無駄やどうでもいいことばかりが目立つことがあります。しかし、その無駄を全部すててしまうと自分に何が残るでしょうか? 無駄なものを素晴らしいものに変えることが出来るのは、自分自身です。
それを理解することが、幸せな生活を送るための教えです。

東寺真言宗教学研究所 『風信』第二号 言葉のマンダラより

〔11月の言葉〕

心にたまった功徳の貯金こそが 自身を救

 真言宗では人が亡くなられますとお大師さまのもとへ安心して帰られるようにと、不動明王を始めとする十三の諸尊の慈悲をうけて、み仏の世界へと迷わぬように導いてくださいます。
 その旅路の中で「三途の川」を渡らなければいけませんが、そこでは今まで着てきたもの全て脱がされてしまいます。着てきたものというのは、どれだけ良い家に住んで、肩書が沢山あって、お金を蓄えてきたという、いわば生きていく上で私達にとっては大変価値のあるものと思い込んでいたものです。実のところそれらは何一つ持って渡ることはできないのです。
 しかし、ただ一つだけもっていけるものがあります。それは生前仏さまのそばにいて供養を心がけ、人にありがとうと感謝される思い出、つまり心にたまった功徳の貯金だけを私達は持ってゆくことができるとされます。
 これから分かるように、残った私達が仏さま(ご先祖さまや故人)の為にお供えものを祈りをささげることはお互いにとって素晴らしく功徳のあることであります。


〔10月の言葉〕

仏さまに帰依する気持ちが整え

その教えも自然と心にしみわたる

 仏事、法事で読誦する観音経や般若心経などのお経の前に必ず短いお経が読まれます。真言宗では「開経偈(かいきょうげ)」「懺悔(さんげ)(もん)」と続き、()昔所造(しゃくしょぞう)諸悪業(しょあくごう)と始まる懺悔文では
「私達は、ずっとずっと昔から造ってきました。それこそ沢山の悪業を犯してきました。今世だけでなく過去世も含めて、貪り瞋り愚痴が原因で人に迷惑をかけ沢山の人に辛い思いをさせてきたと思います。だからこそ今、精一杯反省しますと」誓います。このように本番のお経を読む前に、心をしずめ、いろいろな雑念や欲望を取り去って仏様に帰依することから始まります。
本番のお経では仏さまの功徳を読みあげていきますので、こちらの気持ちが整っていますと、その教えも心に染みわたります。
 これは家庭、職場や学校でも同じことが言えるでしょう。自身の心が荒れていればどこにいっても愚痴しかでてきません。ありがたいご縁を頂きました、私にはもったいないという気持ちがあれば自然と可能性も広がっていくのではないでしょうか。


〔9月の言葉〕

平等に降りそそぐ仏の教えも
自身の心にしたがって変化していく

「それ水は (うつわ)(したが)って方円(ほうえん)し 物に(したご)うて清濁(せいだく)なり」(みずは器によっては四角にも円にもなり、物によって清いものと濁りともなるものです。)  水は仏の教えであり、人間の存在をものを入れ収めるものという表現したものです。この器と合わせて機根という言葉が仏教では使われ、仏の教えにふれて精神的、宗教的な能力が発揮されることと解かれます。その仏の教えは、学ぶ以外に日常生活の中においても常に私達に降りそそいでいます。

 例えば、人に傷つけられ損をさせられたというのに対して、許せない仕返しをしなければと思う人と、私は人に対してはこういった思いはさせたくない気を付けよう。また私もどこかで相手に対して辛い思いをさせていたのかもしれないなあと感じられる人では、注がれた水のかたちも清濁も異なることでしょう。

 平等に降りそそぐ仏の教えも自身の心にしたがい変化していくのです。



〔8月の言葉〕

ふと心が軽くなる瞬間にこそ
自身の中の仏さまが輝いているのです   

お大師さまは、悟りは言葉であらわし伝えることはできませんが、どなたの心の中にも仏さまがいると説かれています。巡礼など手を合わされる方々がありがたい体験をされるのも心が素直になり受け入れる態勢が整っているからではないでしょうか。あれこれとあせって物事を考えている時はすべて裏目にでますが、その時々の流れにまかせていれば案外スムーズに運んでいくものです。

いらだち、不満でもんもんとする心がふと軽くなる瞬間にこそ自身の中の仏が輝き、こだわりを捨てさせ、また前に向かって進めるように導いてくださっている気がします。



〔7月の言葉〕

自分だけの幸せを願う雑草の芽
周囲の幸せを願う大木の葉が生い茂れば
自然と枯れ、人生の大切な養分となる      
                         

仏教の言葉に「大欲」「小欲」という言葉があります。「小欲」とは自分だけの幸せを願うことであり、みんなの幸せを願うのが「大欲」です。夏本番のこの時期、刈り取った雑草も数日もすればあちこちに芽を出してくるように、私達の心も気が付けば「小欲」の芽に覆われているものです。あの人にこんなことを言われた、あの態度が許せない。こんなに頑張っているのになんでなんで・・・

お大師様は小欲の雑草に覆われてしまわないように「大欲」という大きな木を育て、枝一杯に葉を茂らせなさいと言います。すると日が当たらない雑草は自然と枯れていき、枯れた雑草もまた大欲という大木の栄養に変わっていくと説かれます。

思い通りにならないこと、辛いことはいくらでもありますが、大欲の大木が育った時にはそれらも全て大切な人生の養分となっていることでしょう。


〔6月の言葉〕

どんな時も落ち着いて一呼吸
まずは心に仏を感じることから
          

私達の人生を向こう岸に渡る舟にのっていると例えてみます。
波風一つたたない水面であれば皆安心して進めます。時には嵐にみまわれ不安な航海中、横を通る大きな船をみれば藁にもすがる思いでそれにのってみたいと思うことでしょう。また、周囲に沢山の小舟をみれば我先にと必死でこいでいくのが人の心情ですが、慌てれば船がゆれて沈むこともあります。
そんな時にこそ一旦落ち着いて、自分と向き合い、自分の乗っている舟をよく観察するのも良いのでは。水面が荒れているならば穏かになるまで待ち、周囲に沢山の舟があるならば場所を変えるのもありです。実の所、皆目的地が分からず進んでいる可能もあるのですから。
まずは心に仏を感じ、心安らぐ航海を続けることが自分の行くべき地への素晴らしい羅針盤となるのではないでしょうか。


〔5月の言葉〕

生きがいは 心の塵やほこりを祓ってこそ 浮き上がる                   

「生きがいを見つけられない」という悩みをもたれた方はたくさんいます。生きているということは幸せなのに、私は不幸で、不運だとマイナスのことばかりを考える。それは自分でそう思っているだけで、すでに与えられた大切なものを自分から遠ざけているだけかもしれません。
普段は塵やほこりが舞って見えない景色も雨あがりには遠くまで澄んで景色が浮き上がってきます。同じように、私達も変なプライドや意地で見えなくしているものに気づければ視界が広がっていきます。
生きがいはほかから与えられるものではなく、自身の心の塵やほこりを祓い素晴らしい、ありがとうございますと言える心によって見つかるのではないでしょうか。


〔4月の言葉〕

真言と共に心明るければ  迷いなく安心がおとずれる                 

四月に入り新しい環境での生活が始まる方もいらっしゃることでしょう。同じように山の木の枝にも新たに新芽が開き、古い葉も新しい葉へと変わり始めました。今は日々落ち葉の掃除に追われています。
雨に濡れた落ち葉はいくら掃いても掃除になりませんが、乾いた落ち葉が風に吹かれて一所に集まり掃除が楽な時もあります。いくら努力しても成果がだせない時もありますし、面白いように物事がスムーズに流れていくこともあるでしょう。人生はそれの繰り返しなのではないでしょうか。
つまりどちらも永遠には続かないという事です。辛い時には焦らず、自身を責めないこと。上手くいきすぎる時にこそ驕らないことです。
真言と共に心明ければ、迷いなく安心がおとずれます。


〔3月の言葉〕

今を認める心こそ 真実を見極 
りや不満を浄化していく力となる

効き過ぎる薬が体に毒であるように、お説教も過ぎればただの悪口となり、正義も度が過ぎれば迷惑でしかありません。あれが駄目、これが足りないと人の求めるところは無限でありますが、そんなフワフワとした考えではいつか足元をすくわれてしまうことでしょう。
そんな全ての迷いは、みな自分の身贔屓(みびいき)、わが身可愛さから生まれてくるものです。わが身を可愛く思う心を離れ、これで良かったじゃないか、それはそれでしょうがないよと、今を認められる心こそが真実を見極め、怒りや不満を浄化していく力となるのです。



〔2月の言葉〕

心が清浄であれば自ら不幸や災難を遠ざける

建治寺では、皆様のささやかな願いから全心身をかけた願いまで様々な祈りに寄り添っていく為に護摩行を行います。
護摩は、炉の中に種々の供物を投入し、焼いて仏に供養することで、梵語で「ホーマ」といい、(ぼん)(しょう)の義であります。梵焼とは煩悩を焼き滅するの意で、護摩木が燃えていくことは、仏の智慧の火で、心の垢を焼き浄めていくということなのです。
すべての不幸や災難は、いかにも外からばかり起こってくるように思われますが、実際にはそれだけではなく、自分の内なる不浄、心の持ちようが原因でもあるのです。ですから心が清浄(しょうじょう)になりさえすれば、自ら不幸や災難を(まぬが)れることができるようになっていくのです。
また、体の不調和(ふちょうわ)を治すには煎じ薬や粉・錠などの薬がありますが、心の病、霊的な祟りの病や業病は経典や真言(しんごん)陀羅尼(だらに)によらなければならないとしています。当山にお参り頂き、共にお経を上げて頂く事で、勤行(ごんぎょう)次第(しだい)の最後に唱える廻向(えこう)(もん)「ねがわくは この功徳(くどく)をもって あまねく一切に及ぼし われらと衆生と みなともに仏道を(じょう)ぜん」と説かれるように、自他ともに与えられる大きな功徳となっていくのです。


〔1月の言葉〕

感謝する心によって辛いことも 嫌なことも 
光輝く仏の智慧となってみえてくる       
                   

令和六年辰年、今年初めての月護摩となりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。元旦からの能登半島での地震、この寒い時期にご自宅ですごせないことがどれほど大変なことでしょう。被災された方々の元の生活が少しでも早くもどってきますようにと、お亡くなりになられた方の供養を月護摩を通じて祈らせて頂きます。
先のような生活をおくられている方々がいる中であっても、私達は常に時間に追われ、仕事に追われ、そして何か辛いことを探しては否定する理由ばかりさがしているのではないでしょうか。自分のことだけで頭がいっぱいになりますとそこには何も良い智慧、仏の光が差し込んでこないのです。
こんな大切なことを教えてもらえた、私が考え違いをしていました、ありがたいと気持ちを切り替えて感謝していけば嫌なことも、辛いことも違った姿となって光輝いてみえてくるでしょう。



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大瀧山 建治寺

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