釜谷鉱山跡  探検: 北の細道 釜谷鉱山跡

釜谷鉱山跡で龍神に遭う




北海道函館市(戸井町)

   昭和54年本邦鉱業資料によると、北海道の金属生産量は、金額にして全国産額の14.4%を占める。
道内産額のウエイトは金5.9%、銀22.8%、銅18.3%、鉛19.5%、亜鉛26%、その他7.5%となっている。
鉱種別全国比では金11.2%、銀18.9%、銅10.5%、鉛23.1%、亜鉛13.5%となり、
マンガンに至っては68.6%、硫化鉄10%となり、
この比率から銀・鉛・亜鉛が北海道の主要鉱物であり、またマンガンが特産であると見ることができる。

昭和20年8月の第二次大戦終了により、大部分の鉱山が休山した。
その後、昭和23年頃から、日本の復興と歩調を合わせて、鉱山も次第に再開されていく。
昭和25年の朝鮮動乱は鉱山開発に拍車を掛け、新鉱床の開発も急速に進んだ。

特に鉄鋼増産に伴うマンガンの進展がめざましい。
昭和37年7月段階の稼行鉱山は、金・銀4、銅8、鉛・亜鉛2、硫化鉄1、
鉄13、砂鉄26、水銀6、クローム4、マンガン9の73鉱山を数え、
その他探鉱鉱山も63に及んだ。

なお、昭和32年の北海道産業別生産額では、金属鉱山を含む鉱業が、
総生産額の13.5%を占め、農業に次ぐ比重となっていた。

昭和37年、貿易自由化となり、以後海外から国際価格で鉱石が輸入されることとなる。
国内鉱山は規模が小さく、また高品位鉱の枯渇やコスト高のため国際競争に弱く、
閉山する鉱山が続出し、存続鉱山も探鉱を行う余裕を失った。

国はこの事態を回避するため、昭和38年「金属事業団」を設立し、
新鉱床開発に必要な探鉱業務を国が施工することと相成った。

更に昭和40年からは重金属の環境汚染問題、昭和46年の水質汚濁法制定、
これらにより鉱業排水はよりシビアな規制を受けることとなる。
言わずと知れた昭和48年のオイルショックは全般的な鉱業コスト高を招き、
鉱山においては合理化、分離、人員削減等が進行する結果となってしまった。




本鉱山は釜栄鉱山の南方1kmに位置し、
胆振壮瞥の釜谷鉱山と同名であるが、全く別の鉱山である。
昭和11年から昭和30年まで断続的に稼行され、
うち、記録のある範囲では昭和11年と昭和18年に銅鉱を対象に採掘
昭和28年と30年に硫化鉄を対象とし稼行している。

鉱床は、鉱脈形態や脈質は釜栄鉱山と同様であり、
鉱脈の配列も釜栄鉱山鉱脈群に沿っている。
3本の鉱脈が確認されており、鉱石は黄銅鉱を主として、
方鉛鉱などを伴う石英脈である。

鉱床の規模からいって、今後に開発が進むとは考えにくいとの昭和39年当時の地質調査による見解である。

これを踏まえ、5月の現地入りである。
小鉱山の探索は、机上調査-推論-地形図検討-現地入りと
大きな期待なく訪れることが多いが、今回は霊山の断片に遭う旅となった。









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