玉川鉱山跡  探検: 北の細道 玉川鉱山跡

玉川鉱山跡で神社の廃墟を参る




北海道泊村

  北海道の金鉱業は砂金採取に端を発する。
山金採取は明治29年の轟鉱山を皮切りに静狩鴻之舞へと続く。


昭和期に入って、政府の産金奨励により急激に活況を呈し、最盛期には30鉱山が稼行した。

しかしながら、太平洋戦争への突入による金の国際貸借決済手段としての需要量急減と、
戦局熾烈化に伴い軍需金属原料の増産が急務となり、
昭和18年の金鉱山整備令により施設もほとんど撤去され多くの鉱山が休山に至る。

つまり、国際間の金の信用が落ち、戦争に必要な金属を採掘するために、
金山の労務者や設備をすべて重要鉱物鉱山に配置転換するとの政府閣議決定である。

戦後復興した金鉱山は昭和33年時点で14鉱山に及び、各鉱山にて浮遊選鉱や青化精錬が行われていた。
道内の金鉱が全国に占める割合は43%に及び、銀と共に国内比は極めて大きい。

金鉱業の障害は生産原価と販売価格の不均衡にあり、昭和9年から25年間以上、国際価格が据え置かれ
物価と金価の均衡が望まれてきた。


積丹半島南部の付け根に位置する玉川鉱山は、
昭和15年12月に鉱床登録され、昭和17年に資本投入される。
当時は銅が中心であったが、鉱種は金・銀・銅・硫化鉄であった。

昭和18年には小鉾岸(おふきし)鉱山が閉山となり、
技術者・労務者含め、約400名が本坑に移動した。

当初は国富小学校跡地(現国富地区住民センター)に国鉄自動車区を設け、
トラック十数台で輸送業務を運営していた。

昭和19年には厚生施設や学校が整い、能率向上のため共和町までの索道の建設が成されたが、
索道の運転が順調になる前に、終戦を迎えた。


また昭和20年には共和町発足選鉱所がB29 7機の攻撃を受け、爆撃された。
その後、同年10月には閉山となり、資材は茅沼炭鉱に譲渡した。


玉川鉱山は「軍需鉱山」であり、電気資材が各種豊富にあり、
後にそれらを用いて、共和町の農村電化工事が進められた。


今回は泊村市街地より茅沼炭鉱跡を抜けて玉川鉱山へ向かう。
当時は茅沼炭鉱内の通行は厳重に管理され、
通行手形が無いと、炭鉱の詰所で通行を制限されたようだが、
現在は無人の原野が広がるばかりだ。










炭鉱跡地・頭蓋骨・神社跡・・・


採掘場
( ̄u ̄;)採掘場



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