対策された間歩
下川市街地から山へ入っても、
大規模草地育成牧場が広がる。
近くの展望台はすでに廃墟と化している。
下川町の二大鉱山(サンル/下川鉱山)
の発見は地元の在住者であったが、
発見時でのその価値は言わば未知のものである。
実際の鉱山の価値は十分探鉱を行ってから確定されるのが常である。
サンル十二線沢川に沿って林道を遡る。
冒頭で解説したように、昭和15年の繁栄時期は戸数300を超え、
映画も本社から直送配給、文化は下川市街を通り抜け珊瑠鉱山に入っていた。
サンル十二線沢川はやがて枝分かれして、鉱山沢川に沿って遡ることとなる。
川の水は澄んでおり、異常出水の影響は見えない。
当時はスポーツの奨励も盛んで、全道選手となり本坑から明治神宮大会にも出場した者もいた。
山中を進む。
付近には職員倶楽部、そしてレントゲン室を備えた51.75坪の診療所まであったというから驚きだ。
しかし企業化当初は諸施設不備のため、労務管理が困難であったそうだ。
林道脇には「御車沢 8.0」の杭が立っている。
昭和2年には鉱夫雇傭労役規則や健康保険が確立され、
共愛組合が設立された。
河床は赤く色付いている。
昭和7年に動力電化工事が完成、
しかし従業員住宅の点灯で最も喜んだのは子供たちであった。
林道を歩く。ダブルタイヤの轍が続く。
昭和16年の金品位は4.6g/t。
昭和18年には31sを超える生産量となった。
いよいよ鉱山沢川は細くなり、川床は赤くなる。
金鉱山であった珊瑠鉱山は、
昭和18年に戦況急迫に伴う余波を受ける。
冬のアタック時には、危険庫のような廃祉が見られた。
金は戦争に直接関係のない非軍需物資とされ、
採鉱取りやめが決定される。
林道脇に工事現場が現れた。
現場監督に見学の断りを入れたが、非常に危険なため深部は遠慮した。
レイルも有り、発電機と接続されている。
新しく処理された坑口だ。
2007年6月、坑口から200mほど下流で異常出水が確認された。
林道近くの斜面に直径1mほどの穴が二カ所開き、鉱水の流水跡が確認された。
異常出水の対策工事のようだ。
当時世界から孤立した日本は、外貨を含めた国交が絶たれ、
金の国際的価値を見出せない状態となった。
冬の探索では荒地と廃墟が広がっていた。
現在は大規模な治山工事が行われている。
昭和18年、国策による金鉱山の一斉休山はその後の運命を左右する。
奥に登ると、木で塞がれた旧い坑口が見えた。
戦前は財閥『三井鉱山』による経営、そして戦後は『帝国鉱業開発株式会社』が統括、
その後、『磯部鉱業』から『相生工業株式会社』との『合同資源産業株式会社』に経営が移る。
斜面の上には製錬所の廃墟がたたずむ。
この時期は登攀がかなわず、
後日再アタックとなった。
高巻きして斜面を登攀すると、
青化製錬所
に到達した。
鉱石の中から化学反応を用いて、
金・銀・パラジウムなどの合金を抽出する工程が青化製錬だ。
採掘した鉱石を破砕磨鉱後、泥状化した上で、
金と結びつきやすいシアン(青酸ナトリウム)を
酸素と共に溶解させる。
反応後、亜鉛を投入すると、これが金と入れ替わりシアンと結束。
金合金が析出する。
本坑ではここまでの工程だが、実際にはこの後の電解精錬で純粋な金を得る。
初代の製錬所は昭和8年12月完成、これは処理能力50t/日であったが、
昭和9年、10年と拡張し、
最終的には250t/日の能力と相成った。
昭和18年に金山整備令により一時閉山となった珊瑠鉱山に対し、
軍需金属として国の援助と共に急速に発展した
下川鉱山とは、
同じ町内の鉱山とは言え、その繁栄の格差は大きかった。
エゾジカに見送られながら、
鉱山跡を後にして下山した。
立派なダムの付け替え道は完成している。
下に旧道があるが、
やがて水没するのかもしれない。
マウスon 旧道
ダムの完成前後の定点写真である。
青々と茂っているのが建設途中の2012年、
マウスonがダム完成後の2019年である。
マウスon 2019年
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