斜坑から立坑へ

夕張市の昭和35年当時の人口は116,908名、
これは現在の小樽市に匹敵する数字となる。
しかしながら最近では7,000人を切る状況だ。 夕張市



延々林道を歩いた後、
ルート後半は御覧のクマザサの廃道となる。
辛うじての道と判断して進む。 アプローチ


架線も無い鉄塔が山中の原野に単独で立っている。
これは北炭が独自に敷設した清水沢火力発電所からの送電ルートの跡で、
万字幌内 から更に北に向かう。 鉄塔


夕張市街の繰込所から約2,300m離れた奥部の採掘場所に向けて、
水平坑の本坑通洞が掘削された。
加背(坑道の大断面)は12.2m3、 6t電車による資材と人員の運搬が行われた。 廃道


今回向かう山中の採炭場所が奥部竪坑の開削場所(オレンジ〇)となり、
年々奥深くなる採掘地帯へのアクセス向上を目的とした、
繰込所と採炭場所を繋ぐ本坑通洞(青ライン)であった。 ルート


やがて少し開けた一画に到達する。
奥部竪坑の完成年度は資料により混在しており、
昭和16年8月、昭和20年10月〜昭和24年などの記載がある。 第二坑title=


なだらかな廃道を抜けると当時の鉱区内に到達だ。
付近には鉱夫寄宿舎と係員合宿所があった。 鉱区


最初に現れる遺構は変電所の設備だ。
創立当時は採掘区域も地表下浅く、
自然通気で賄った。 変電所


大坑道に300mごとに地表から炭層に風井を掘り下げて
各坑口に高さ10mの通風塔を建設、排気坑口上に櫓を設置し、
焚火を行うことで通風を促進した。 変電施設


しかし坑道規模が拡大すると、自然通気では容量不足となったために、
機械式の通気法に推移していった。
やがて蒸気式から電動化されたため付近には変電施設が必要となる。 遺構


付近にはコンプレッサーなどの施設跡がある。
吸い込んだ空気をピストンで圧縮し体積が減少すると圧力が高まる。
この高圧の空気によって機械や工具を動かすのがコンプレッサー(空気圧縮機)の仕事だ。 空気圧縮機


広大な平場は電車庫の跡。
通勤時間短縮のための坑外電車が敷設されていた。
高速電車路線で切羽への時間短縮が実現した。 電車庫


最終的には奥部竪坑から2.7q南方の中央立坑までの路線となり、
坑口から切羽まで70分かかっていたものが、
市街地から中央立坑まで11分、切羽まででも30分で到着できることとなった。 巻上機室


こちらは巻上機室の一部のようだ。
この地には排気立坑と入気立坑が存在した。
昭和初期からの出炭増に伴い、通気の合理化は加速、
総排気風洞はそれまでの斜坑から立坑に変更が進む。 巻上機


装置をスライド移動するためのようなラックらしき部材が残る。
ラックはピニオンギヤと対の歯車で、回転運動から直線運動への変換を行う。
ラック(Rack)は歯が等間隔で刻まれた平らな歯車と言える。 マウスon ラック/ピニオン


排気立坑側は海抜595m、深度450m、口径7.5m、
設置は昭和16年8月、日立製作所製スキップ(石炭専用箱)での出炭を行う
排気兼用立坑であった。 巻上機


スキップは容量4.5t、当初の巻上機は300馬力のもので、
巻上速度182m/分、その能力はズリ380車/日に相当した。 スキップ


かわって入気立坑側は海抜595m、深度454m、口径6.5mで、
鉄骨製櫓であり昭和17年5月完成であった。 レール


入気立坑も通気兼用坑で人員と鉱車の運搬に使用された。
巻上機仕様としては、昭和16年/50馬力、昭和17年/250馬力、昭和24年/1,000馬力と改良されている。
日立製作所製ケージ(2階建て)で搭乗60名が可能であった。 鍛冶場


立坑の運搬能力は3,000名/日または材料300車/日となり、
直流電源を磁石で制御することで回転数を変化させるワードレオナード方式であった。
巻上速度は300m/分、運搬距離は450mに及ぶ。 遺構


ガス抜きのための放散筒が残存する。
昭和初期から深部移行した夕張鉱業所は、
その原炭搬出にベルトコンベヤーを用いた運搬を計画していた。 放散塔


これが『集団ベルトコンベヤー方式』と呼ばれるもので、
炭車(トロッコ)を一切使用せず、切羽から選炭機までを、
複数のコンベヤーで繋ぎ輸送量の拡大から合理化を図るものだった。 巻上機


最奥には広大なズリ山が残る。

冒頭の奥部竪坑での講習会については、
次回、三井芦別鉱業所での積込機の運転実習が予定されていた。
しかし時代背景から石炭産業斜陽化の波の中の開催であったことは否めない。 ズリ山






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ズリ山
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