日東美唄炭鉱  探検: 北の細道 日東美唄炭鉱

日東美唄炭鉱の潮流と凧揚げの渦




北海道美唄市

   戦前の北陸地方は全国的に見ても、電気事業の普及が遅れている地域であった。
しかしながら、特に富山県に関しては、
戦後の経過は『電源王国』と呼ばれるほどの急速な展開となり、
大正元年(1912)には電気事業者が9社であったのに対し、
昭和6年(1931)には23社に増加し、電力の拡大が飛躍したことがわかる。

そして大正8年からは 「五大電力」 東京電灯・東邦電力・宇治川電気・大同電力・日本電力 の参入もあり、
それらは競って北陸地方で発電した電気を関西や東京へ遠距離送電する電力戦を繰り広げ、
富山県の庄川、黒部川流域に多数の発電所を建設した。
これは『潮流主義』と呼ばれ、給電地帯と電源地域が離れた場所に立地することとなった。


日東美唄炭鉱の前身は 茶志内炭鉱であるが、
大正7年(1918)の採掘権獲得から昭和に入るまでは、鉱区や所有者が転々とした。
昭和3年(1928)2月には茶志内炭鉱合資会社において借鉱、
昭和12年(1937)8月には富山県に本拠地を置く日本海電氣株式會社が株式の過半を所有して、
日東美唄炭礦株式会社を設立した。

その後、昭和19年(1944)2月には三菱鉱業(株)が買収、
美唄鉱業所 の支坑、日東美唄炭砿として創業した。
昭和23年(1948)には通洞坑の開発により茶志内砿業所として独立、
昭和29年(1954)から合理化による規模縮小により茶志内炭砿と改称、
昭和42年(1967)4月に閉山した。


今回は以前から繰り返し探索を行っている炭鉱跡の探索だ。
文献が語る遠く富山との関係性、 そしてその富山で発生した電力の興亡、
これらを紐解くと、すべてが一本の糸に繋がる結果となった。





国策的統合・火主水従・排気風洞・・・



排気風洞
排気風洞





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