遥かなる富山の


美唄市茶志内には市街地の畑の区画を遮る、北東に向かう直線道路がある。
これはかつての三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道の跡で、
昭和27年(1952)開通、同時期、炭鉱としては通洞坑の開通から4年後、
合理化の始まる2年前の時代だ。 美唄市


十二号川に沿って登る。
地形図上の林道は廃道と化し道はない。
湿地帯の荒れ地を進む。 森


美唄に最初の炭田調査が入ったのが明治7年(1874)。
三菱美唄炭鉱の開坑が大正4年(1915)、閉山が昭和47年(1972)、
三井美唄炭鉱の開坑が昭和3年(1928)、閉山が昭和38年(1963)となる。 湿地


しばし登るとコンクリート製の隧道(上)と、
川廻し(下)がある。
前述の茶志内炭礦専用鉄道の延長ではある。 隧道


隧道はあまりにも短く10m程度しかない。
斜面を崩してどうして掘割にしなかったのか疑問が残る。
しかも軌道の雰囲気が皆無だ。 トンネル


下流側の坑口も残存している。
パラペットにも扁額はなく、隧道名はわからない。
壁柱は右側だけにあり、補強の意味のようだ。 坑口


側壁部もアーチ部もコンクリート覆工は
細い板を型枠用合板として打設したようだ。
縞目の跡が残る。 廃道



地質図幅には軌道ではなく道路としての隧道が描かれている。(黄色丸)
やはり風洞や通気施設に資材を運搬する、
作業用の道路が存在していたようだ。 地質図幅


隧道の上部に注目していただきたい(黄色線)。
恐らく隧道上部には輸車路や索道があり、
それらを交わすために隧道が掘削されたのかもしれない。 輸車路


隧道跡から更に上流へ進む。
昭和39年(1964)8月からは 「カッターローダー採掘」 石炭層の下縁をカッターで切り崩し、崩壊した石炭をコンベヤにのせる機械 から水力採掘に移行し、
茶志内炭鉱時代)
その後の最高出炭は昭和39年12月の1万8,500tであった。 廃道


その上流域では坑口に到達だ。
これは恐らく排気風洞、通気のために、
坑道内の空気を吸いだす施設跡だ。 坑口


通気の主目的は坑道内に新鮮な空気を供給し、
坑内で発生したガスや炭塵を薄めて坑外に排出、
地下の上昇する温度管理も担っている。 (マウスon 通気系統図)


正面の坑口には巨大なシロッコ型扇風機が接続され、
通常は吸出しが一般的で、90度折れ曲がった脇坑は、
事故の際に風向きを切り替えるための別入気ルートだ。 排気立坑


プロペラファンは坑口面に設置の必要があり、風量は多いものの風圧は低く、
設置すれば人員や資材の入坑はできない。
シロッコファンは風圧が高く坑道向き、設置場所の自由度も高い。 機構室


シロッコファンは逆回転させても風向は変わらないので、
このような扉付きの別回廊を設置して入気ルートを確保する。
扉には車風(くるまかぜ)と呼ばれる
排気の一部が入気に混入して再循環する現象を防ぐ意味もある。 車風


更に上流でもRC製の遺構が散発する。
採掘される炭質は6,600cal以上の高級炭で、
練炭製造用、紙パルプ、甜菜工場用が仕向け先であった。 遺構


選炭所の様な一角もある。
大きな基礎が走り、
巨大な構造物があったことが想像できる。 選炭所


重量物や振動を伴う機器が設置であろうアンカーが残る。
富山の電力会社が日東美唄炭鉱の開発に寄与した理由は、
どこにあるのだろうか。 アンカー


ここは破砕したり粒度分けを行う選炭施設のようだ。
昭和12年(1937)に勃発した日中戦争により、
戦時体制強化の下での電気事業の統制が検討された。 選炭所


再び時代の古い排気風洞だ。
日中戦争以降『電力国策要綱』が決定、『電力管理法』などが議決され、
電気事業は国家による一元管理化が実施されることとなった。 排気風洞


こちらの本坑は封鎖が崩れている。
昭和14年(1939)には日本発送電株式会社(以下「日発」)という国策会社が設立、
段階的に官民の隔てなく、施設接収や現物出資が各電気事業者に強いられた。 坑道


内部はすぐに埋没している。
つまりこれは既存の大手電力会社や県営事業が
どんどん国策会社に統合されたのだ。 埋没


こちらの風洞にも脇坑が残る。
これらは国家総動員法の下で施行され、
全国を8ブロックに分けて配電統合を行う計画だった。 坑道


閉塞部から坑口を望む。
しかしこの統合政策に猛反発したのが北陸地方の電気事業者であり、
これは当時から北陸ブロックが独自の経済圏を形成していたからに他ならない。 坑口


少し移動し地質図幅に記載のある『三菱専用鉄道』を遡る。
冒頭の日本海電氣株式會社が中心となり、
12社が自主統合体として国策統合からの独立を主張した。 (マウスon 地質図幅)


廃線跡に沿って大きな池がある。
北陸ブロックの自主配電は政府にも認められ、
北陸地方独自の産業圏は維持されることとなった。 池


路盤には太い配管が埋没している。
このように関西などの電源消費地と北陸の電源供給地が離れていることを
『凧揚げ地帯方式』と呼ぶ。 配管


沢の奥には何か遺構が見える。
『凧揚げ地帯方式』は電源消費地を「凧」に、
消費地への送電線を「凧糸」に例えたものである。 遺構


遺構の近くの沢には、別の廃祉がある。
その後の電力需要増に対し電源開発の方針は、
変換期を迎える。 ポンプ室


これは水利に関する施設のようだ。
電源開発は従来の『水主火従方式』から、『火主水従方式』に転換していくこととなる。
つまり水力発電から火力発電への移行である。 遺構


ここは恐らくポンプ室で、給水を司っていたようだ。
時期を同じくして、渦中の日本海電氣株式會社は富山火力発電所で使用する石炭について、
その調達方法を模索していた。 ポンプ


下から見えた苔むした遺構に到達した。
そこで美唄の本鉱区が適地とされ、
日東美唄炭鉱の設立に富山の日本海電氣株式會社が一躍を担う経緯となった。 廃墟


遺構の内部は何もなく、その用途も不明だ。
富山での水力発電の興亡が、
やがて美唄の地に根を下ろしたのである。 廃墟


美唄の山奥で、
富山の電力会社の奔走と炭鉱の沿革が、
一本の糸で繋がる結果となった。 廃祉






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風洞跡
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