茶志内炭鉱跡  探検: 北の細道 茶志内炭鉱

茶志内炭鉱でスノーブリッジに填まる



北海道美唄市

   1862年(昭和37年)石炭業界の特質である「スクラップアンドビルド」政策の、
直接のきっかけとなったのは、炭鉱労働組合の政策転換抗争であった。

これを受けて当時の池田内閣は、昭和37年5月11日、石炭調査団を発足させた。
同調査団は、総合エネルギーバランスという広い視野に立って、
石炭産業界の置かれている状況をあらゆる角度から検討した結果、
全体エネルギーでのコストが著しく向上せず、かつ国民経済活動にも大きな支障が生じない範囲で
できる限り石炭需要を創出していくという基本的態度を確認したのち、
10月14日、石炭産業安定のために以下の抜本策を策定した。

@生産規模年間5,500万t
A一人当たりの生産能率38.6t/年
B在籍労務者数12万人

石炭調査団の答申を踏まえ、各炭鉱会社は相次いで大幅な合理化整備案を発表、
閉山、第二会社への移行、坑内機械化による合理化等、
石炭業界全体が深刻な危機に直面した。

つまり老朽化した非能率炭鉱は、スクラップ化(=閉山)を行い補助金を助成、
採算の見込める高能率の炭鉱には政府資金を投入しての最新設備への転換を行う。
これが「スクラップアンドビルド」政策だ。

この石炭政策により、炭鉱数は5年間で半数以下に、余剰の労務者の雇用対策問題激化、
石炭需要の先細りによる貯炭増加、各炭鉱会社の資金繰り・経営の悪化に拍車をかけることとなる。


茶志内炭鉱は大正7年に起業、昭和の初めには鉱業権者が点々としたのち、
昭和23年に独立、昭和39年に最大出炭量を記録したのち、
昭和42年4月閉山した。


後半、水力採掘に全面転換し、一時は一人当たりの能率も好成績を上げたにもかかわらず、
最終的にはヤマの自然条件が好転せず、合理化による機構縮小を迎える。

今回は残雪の4月下旬に現地を歩いてみた。
起業から半世紀、 その歴史を探してみよう。








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( ̄u ̄;)専用軌道跡





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