礦から坑への変換
戦前の赤平にはかつて72の炭鉱が犇めいていたという。
ピーク時の昭和35年(1960)には人口58,713名、
現在は1万人を割りその16%となっている。
赤間炭鉱からズリ山裏手に入山する。
4月下旬、葉は無く藪は積雪で押され、
探索にはベストシーズンだと思われる。
かつての末広坑務所付近。
鋼製の遺構がある。
当時は軌道も存在したようだ。
坑務所付近にはコンクリート製の基礎も残る。
北炭(北海道炭礦汽船(株))の変遷から末広坑の経過を見てみよう。
昭和14年4月に空知鉱業所が設置される。
崩れた水路が残る。
空知鉱業所は空知・神威・赤間の各鉱を統括する。
末広坑については、昭和15年3月から赤間鉱所管の赤平坑として事業着手される。
比較的大きな施設跡がある。
これは巻上室上家か人道部扇風機室だと思われる。
昭和15年6月には赤間鉱赤平坑を末広礦と改称する動きがある。
北炭空知鉱業所では末広礦の美唄層と呼ばれる厚い石炭層に期待し、
独立炭礦としての施業案を鉱山監督署に提出する。
受理された昭和15年7月、新礦名『末広炭礦』として再スタートする。
内部は何もない。
その後、新生末広炭礦は昭和30年3月に
赤間鉱末広坑と赤間鉱の支坑となる。
付近には埋没した風洞の様な遺構もある。
昭和35年12月に北炭は赤間炭鉱と末広坑を分離し、
別会社、赤間炭鉱株式会社を設立する。
扇風機の基礎の様な架台も残る。
昭和38年9月には空知礦、神威礦が閉山に至るが、
新会社設立は職場確保と産炭地経済の安定を模索したものと思われる。
基礎の奥にはふさがれた排気風洞のような坑口がある。
昭和38年10月には新たに空知炭礦株式会社を設立、
昭和40年には赤間鉱を吸収合併した。
末広坑に至っては昭和44年6月をもって事業終了と相成った。
最盛期には2,000t/月の原料炭を出炭していたものの、
30年間の稼行により鉱命を終えることとなる。
奥にはさらに塞がれた坑口が残る。
大卸坑との記載があったが今はその題額(扁額)も脱落している。
苔むした坑口は自然に帰りつつある。
北海道石炭統計年報によると、
昭和43年9月の従業員数は59名であったのに対し、
閉山直前の昭和44年4月には19名と一気に減少している。
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