化物と呼ばれた富鑛帯
「北見地方」には,「北見富士」と呼ばれている山が2座存在する。
滝上/遠軽/紋別市の境界の標高1,307mが丸瀬布側(北)で、
旧留辺蘂町にある独立峰の標高1,291mが留辺蘂側(南)である。
まずは近隣の武華発電所跡の探索だ。
大正5年(1916)に留辺蘂温根湯地区に設けられた水力発電所跡だ。
それまでの火力発電所に代わり、留辺蘂町に送電した。
武加川の水力を利用した発電所は、
北見電機株式会社により建設され、
温根湯温泉街の左岸の斜面を利用された。
この水力発電所の建設により、
温根湯地区に初めて電気が供給された。
供給は留辺蘂・温根湯市街のみだったという。
これは排砂門と呼ばれる水槽だ。
波打った形状で水の流れが土砂を運ぶ力を利用して、
底に溜まった土砂を分離して押し流す。
紅葉と苔のコントラストが激しい。
その後施設は大正11年(1922)に北海道電力に売却され、
水力発電所は廃止、6年間の運用の後、
遠軽町の野上変電所経由での送電となった。
移動してまずは南部の大神鉱床からの探索だ。
本鉱床図には二か所の坑口と『火』のマークがある。
太平洋戦争時代は大神鉱山と呼ばれたのは本鉱床が代表坑だったのだろう。
山道を進むと大きな鋼製のゴミボックスのような箱がある。
これは狩猟で確保したエゾシカを解体した後の残屑を入れる容器だ。
不要な内臓や頭部を付近に撒布すればヒグマを呼び寄せることとなってしまう。
道は廃道となるものの、辛うじてのルートがある。
大神鉱床の発見は昭和19年(1944)7月で、
試みた試掘で辰砂が産出したのがきっかけだ。
ここからは更に廃道は色濃くなり、藪をかき分けながら進む。
ここ大神鉱床は敗戦までに約33tの鉱石を十勝鉱業所に鉱送し、
水銀約1tを産出したという。
深い山中にタイルが残存している。
昭和19年(1944)当時の従業員は50〜100名、
ここに生活の痕跡があってもおかしくない。
標高300m付近で接合タイプの土管が朽ちている。
素焼きの土管は恐らく鉱山繁栄期の排水設備のようだ。
坑口を目指して更に登る。
沢の左岸はどうやらズリ山のようだ。
鉱脈内部の品位分布は変化が大きく、
資料での平均品位はAu(金)11g/t、Ag(銀)61g/tとなっている。
常呂金山の品位と生産実績を時系列でまとめると以下となる。
年度 |
粗鉱(t) |
Au(g/t) |
Ag(g/t) |
昭和6 |
1,763 |
17.7 |
60.9 |
昭和11 |
1,956 |
6.4 |
34.5 |
昭和15 |
2,885 |
11.56 |
71.5 |
昭和17 |
1,650 |
10.41 |
60.0 |
昭和36 |
4,816 |
8.3 |
87.6 |
昭和39 |
577 |
5.18 |
52.4 |
【札幌通産局調べ統計資料】
付近にはズリ(排石)が散らばっている。
産出と品位の関係を見ると、鉱脈の下部で金の品位が低下し、
相反して銀の品位が増加している。
沢の奥で坑口の発見となる。
これは鉱床図にある対面する2か所の坑口の一つだろう。
沢を渡って近づいてみよう。
マウスon 坑口
坑口は岩の亀裂のようだ。
鉱区は北から『白金』『豊金』『旭』『大神』であったが、
この大神鉱床の坑口名は不明だ。
坑道はすぐに埋没している。
坑内の出水は極めて少なく、
ある時期には秋田県の小坂製錬所に鉱送した時期もあったようだ。
坑口から沢を下らず別ルートを抜けると、
鉱山道路のような痕跡が明瞭となる。
復路を別ルートにするのはそれなりのリスクがあるが定石でもある。
鉱山道路の周囲にも気を配りながら歩く。
鉱業権者が
藤田炭鉱株式会社
の時期もあり、このころは
鴻之舞製錬所
への鉱送も資料にはある。
この鉱山廃道は鉱床図の『火』のマークに向かっている。
しばらく下ると小さな小屋を発見した。
これは恐らく鉱床図の『火』、つまり火薬庫だ。
周囲が土盛り(土提)で固められている。
火薬は紀元前にギリシャで発見、中国で軍事用に発明、
日本には1543年に種子島に漂着したポルトガル船から伝来したといわれる。
産業用として使用されたのは、1627年のハンガリーの鉱山での採鉱発破であり、
黒色火薬が欧州各地に広まった。
日本では明治18年(1885)に薩摩藩が山ケ野金山(鹿児島県)での使用したのが始まりであり、
それを契機に金属鉱山から常磐、三池炭鉱、そして鉄道敷設工事に広がる。
湧水の多い坑道などでは黒色火薬よりダイナマイトが良いとの提唱があり、
別子銅山(愛媛県)を初め、足尾銅山(栃木県)などで大量に消費されるに至る。
未だ厳重な施錠がなされている。
当初は軍事目的の火薬類が産業に転用、鉱山にとって欠かせないものとなり、
その管理がなされた痕跡は火薬類転用の
史的側面の表れと言えるかもしれない。
移動して東無加川を遡り留辺蘂金山鉱区へ進む。
常呂鉱山に先行、隣接して開発された金山跡である。
当時は汚泥に混ざる低品位鉱と言われていた。
鉱区に向かいひたすら登る。
常呂鉱山とは東無加川を境として北方に、
留辺蘂金山は南方に鉱区設定がなされていた。
常呂鉱山側にも『大切坑』があり、留辺蘂金山側にも『大切坑』が存在した。
互いの坑口距離は130mと地理的にはほぼ同一鉱区と考えられる。
鉱山によくある『大切坑』(おおぎりこう)この『大切』の意味はなんなのか。
坑口付近だがすでに埋没している。
『大切』は大いに差し迫っている、つまり非常に重要という意味合いだ。
坑口群の中でも通洞坑に次ぐ重要な坑道という意味であろう。
付近には人工的な石垣が残る。
『日本鉱床學』に記載された調査段階の資料では鉱脈は大と記されているが、
結局、古生層や石英脈も発見に至らず廃坑を迎える。
少し南下して石碑の残る常呂鉱山 旭鉱床付近に達する。
昭和8年(1933)の道内鉱業所資料によると、
一番、二番坑に立坑の存在が記されている。
選鉱施設の痕跡を探して森に入る。
採鉱した鉱石にはほとんど
「中石」採掘対象の鉱床中に存在する経済的価値の無いやや大きな岩石破片
が含まれず、完全な選鉱は必要なく、
グリズリによる大塊の粉砕程度が行われたようだ。
少し登ると明らかなズリ山の痕跡がある。
植生がそこだけ無く、
鉱石の破片が散らばる。
ボルトの残る鋼製の部材が残っている。
グリズリーは無振動式の傾斜の付いた格子式選別機で、
重力落下により格子を通る粉・粒と通らない塊により分ける装置だ。
マウスon グリズリ
選鉱施設があったようなRC製の人工物がある。
局部的に金品位が150〜200g/tに及ぶ鉱脈があり、
これは『化物』と呼ばれる富鉱帯となった。
大きなコンクリート製遺構も残存する。
これは選鉱後の積込施設の跡のようだ。
留辺蘂駅までは当初は馬車、その後車両にて搬出された。
鉱床図にある大切坑の疑定地の斜面である。
湧水が滲み出ている一角があり、
ここが埋没した坑口のようだ。
マウスon 坑口
斜面にある亀裂のような隙間を覗き込む。
そこは明らかに坑道で、
間もなく崩れそうな坑口だ。
場所を移動して最奥の白金鉱床を目指す。
鉱床図には一番坑、二番坑、
その間にまたもや『火』の文字が見える。
付近は廃坑後、人工的に植林されたようだ。
整然と並ぶ治山された木々の間を進む。
鉱床図とGPSを照らし合わせて進む。
植林された一角にズリ山が残る。
恐らく一番坑付近だが、
坑口の発見には至らない。
明らかな人工的な斜面が存在するがここでも坑口の発見には至らない。
ここが二番坑付近だが、
一、二両坑口とも埋没してしまったようだ。
一旦登り切って俯瞰してから『火』に向かう。
明治5年(1872)に銃砲取締規則が設定された際には、
黒煙火薬しか普及しておらず、火薬庫に関する規定は設けられていなかった。
周囲が土盛り(土提)で固められた火薬庫の発見である。
明治17年(1884)政府のデフレ対策による民権運動事件のさなか、
火薬取締規則が発布され、火薬庫の厳格な設置義務が施行される。
火薬取締規則は民間の火薬類製造の禁止を定義し、
火薬庫の構造、最大貯蔵量、保安距離などが、
細かく規定された。
保安距離とは皇居や社寺、道路などの指定された施設からの距離の指示である。
銃砲火薬取締法規則第33条に宅地・国道から50間の距離を設ける規定がある。
50間とは約90mだ。
壁は十分な厚みがあり小さな窓がある。
明治30年の規制細則では石・土塊(後にコンクリート)・煉瓦を用いた構造で、
鉄釘、透明のガラスを用いないことが追記された。
天井が見事に抜けているが、これこそ火薬庫の特徴だ。
屋根の外面は薄い不燃物を用い、圧力により容易に屋蓋が持ち上がることとの規定もある。
つまりもしもの爆発時に建屋ではなく、屋根が吹き飛び減圧する構造なのだ。
面積の割に重厚な厚みの建屋だ。
周囲が土留め(土提)で囲まれていること、避雷針の設置、
貯蔵区分と最大貯蔵量、盗難防止措置などもすべてが防爆のためだ。
実は火薬庫はある距離を置いて二棟あり、
こちらが面積が大きい建屋、つまり火工所のようだ。
火薬と言っても雷管や緩燃導火線、火薬(黒色火薬)、爆発物(ダイナマイト)などに分類され、
火薬と導火線などは隔離して貯蔵されたのだ。
火工所では雷管や緩燃導火線の保管、接続などが行われ、
壁の厚みは15p以上、煉瓦や石の場合は21p以上が規定され、
窓は防火のために熱に弱い透明ガラスは用いなかった。
対してこちらが小さい棟の火薬庫である。
一般に内窓は木枠に摺りガラス、外窓は亜鉛板にタールを塗り二重の防火窓としている。
庫の内面は飛散防止目的の板張りがなされ鉄釘等は使用されない。
真鍮釘や銅釘など鉄より柔らかな素材が用いられる。
火薬庫周囲の土提は庫壁から1.8m〜10.8mと決められており、
その高さも提外から火薬庫が見通せないようにとの決め事がある。
つまり土提の高さは、火薬庫同一以上で頂部の厚みは90p以上とされている。
提面は芝類で被覆とあるが、これはさすがに経年劣化している。
国は民間産業への火薬類の解放の必要性を感じつつも、
治安維持のために取り締まりを強化した。
火薬庫は構造物として、その意向を具現化したものだ。
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