常呂鉱山跡 探検: 北の細道 大神鉱山

常呂鉱山で50間の距離を確認する




北海道北見市留辺蘂町

 明治時代に入り国内の治安維持のために火薬類の製造と使用を厳重にする必要がでてきた。
それまでは軍用のみとして使用されてきた火薬類が、
鉱山、炭鉱、道路敷設などの産業に広く活用されることとなり、
火薬類の使用を取り締まる法案の起草が生じてきたのだ。

そこで明治政府は明治17年(1884)火薬取締規則を公布し、
民間における火薬類製造を禁止するとともに使用においても厳重な管理を行った。
明治半ばには日清戦争(明治27〜28年)、日露戦争(明治37〜38年)などが勃発、
相関して火薬の輸入が途絶する。

当時、富国強兵や殖産興業政策を推し進めてきた背景で国内技術は向上し、
海外と比較しても遜色ない火薬製造技術をもって軍事、産業の双方を賄った上で、
海外への火薬輸出をも視野に入れた産業構造の確立が模索される。

政府による火薬類の製造・専売の利益確保と、
その供給によりもたらされる国内の火薬類流通量の増加を懸念し、
取締強化のため明治43年(1910)、銃砲火薬類取締法が改正される。


常呂鉱山は同名の 常呂水銀鉱山 から北方2qにあり、
常呂町の マンガン鉱山とも別の金山だ。

昭和2年(1927)に鉱区設定、東邦探鉱(株)所有の留辺蘂金山として昭和9年(1934)から採鉱し、
平均品位Au2〜4g/t Ag10〜50g/t 20,000tを出鉱し昭和18年(1943)には閉山する。

同時に隣接鉱区を帝国鉱発十勝鉱業所 支山として大神鉱山という名称で開発し、
昭和14年(1939)にはAu10〜13g/t Ag60〜90g/t 200〜300t/月生産を行い、
昭和18年(1943)には金山整備令により休山するものの、
昭和24年(1949)からは常呂鉱山として再開発される。
しかしながら昭和39年(1964)に休山、現在に至る。

資料においても金山と水銀鉱山の混同が発生し、
留辺蘂金山・常呂水銀鉱山・常呂金山三者の鉱区においても現在は定かではない。
そんな中、鉱区図にある『火』の文字の意味、
そして初秋の旭・大神・豊金・白金の各鉱床を追ってみよう。



大切坑・土留め・防爆・・・




木洩れ日
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